母が倒れた朝、私は沖で網を引いていた。
海は薄い鉛色で、波だけが生き物のように船腹を叩いていた。
胸元には、前夜に母から渡された青いお守りが入っていた。
私は出港前、それを岸壁のごみ箱へ捨てた。
ところが船に乗る直前、わざわざ戻って拾った。
要らないものほど、捨てたあとで気になる。
愛情も、たぶん同じなのだ。
*
父は、私が十四歳のときに海で死んだ。
春先の時化だった。
壊れた船と網は見つかったが、父だけは戻らなかった。
それから母は、海を怖がるようになった。
高校を卒業した私が、
「父さんの船を継ぐ」
と告げると、母は湯呑みを落とした。
「ほかの仕事にしなさい」
祝いの代わりが、それだった。
私は腹を立てた。
父の仕事を継ぐことが、父を失った家の正しい生き方だと思っていたのである。
初めて一人で沖へ出る朝、母は青いお守りを差し出した。
「持っていきなさい」
「そんなもの、いらない」
「いいから」
中には小さな金属片が入っていて、船が揺れるたび、かすかに鳴った。
私はその音を、母の監視のように感じた。
*
母は毎朝、天気予報より先に電話をかけてきた。
「今日は南風が強いよ」
「雲が低いから、無理しないで」
「少しでも変だと思ったら戻りなさい」
私は、それを信用されていない証拠だと思った。
大漁の日でさえ、母は、
「よかったね」
より先に、
「けがはない?」
と尋ねた。
一度くらい、立派な漁師になったと言ってほしかった。
しかし母が渡すのは、褒め言葉ではなく新しいお守りだった。
青、白、赤。
古いものを返すと、母は中身を取り出し、新しい布へ縫い直した。
「そんなに心配なら、俺が海をやめれば満足か」
ある晩、私は言った。
母はしばらく黙ったあと、
「やめられるなら、それでもいい」
と答えた。
その言い方が、私のいちばん弱いところを刺した。
母は父の仕事も、私の覚悟も、少しも誇りに思っていない。
そう決めつけた。
「父さんが死んだからって、俺まで死ぬと決めるな」
母の顔が白くなった。
それでも私は止まらなかった。
「もう見張らなくていい。お守りもいらない」
翌日から、母の電話に出なくなった。
*
その冬、母は咳をするようになった。
病院へ行けと言っても、
「潮風のせいだよ」
と笑った。
母の心配を嫌った私は、自分の心配だけは素直に受け取ってもらえると思っていた。
ずいぶん勝手な話である。
母は肺の病気を患っていた。
医師から入院を勧められていたが、私には隠していた。
私が船を降りて看病すると言い出すのが怖かったのだという。
倒れた朝も、母は何度も電話をかけていた。
私は沖にいて、一度も出なかった。
港へ戻ったとき、母は病院に運ばれていた。
言葉はもう、ほとんど出なかった。
ベッドの横へ座ると、母は震える手で、私の胸元を指さした。
青いお守りだった。
私は拾ったそれを、作業着の内側に入れていた。
母は安心したように目を閉じた。
「持ってきたよ」
私が言うと、母の唇が、かすかに笑った。
三日後、母は亡くなった。
*
葬儀のあと、母の部屋を片づけた。
棚には、私が返したお守りが並んでいた。
一つずつ、小さな紙が結ばれていた。
「初めて一人で沖へ出た日」
「船を買った日」
「大漁だった日」
「けんかをした日」
母は、私が無事に帰った日だけを記録していた。
箱の底に、封筒があった。
表には、
「海へ出る息子へ」
と書かれていた。
手紙は、何度も書き直した跡で波打っていた。
「あなたが海を好きなことを、私は知っています。
海をやめてほしいと思ったことも、本当です。
信じていないからではありません。
信じていても、怖いものは怖いのです。
父さんを奪った海が、今度はあなたを連れていくのではないかと、毎朝思いました。
でも、その怖さをあなたに背負わせたくなくて、いつも言い方を間違えました。
『無理なら戻りなさい』ではなく、
『必ず帰ってきてね』と言えばよかった。
『けがはない?』ではなく、
『今日もあなたを誇りに思う』と言えばよかった」
涙で文字が滲み、私は何度も目を拭った。
「お守りの中に入れた金属は、父さんの船の鐘の一部です。
残骸から見つかった鐘を、漁協の人が届けてくれました。
毎年、同じ欠片を新しい布に縫い直していました。
父さんに、あの子を連れていかず、遠くから守ってくださいと頼むためです。
私は病気です。
でも、看病のためにあなたが海を捨てることは望みません。
海へ出るあなたを止める母ではなく、帰ってくるあなたを待つ母でいたいのです。
私がいなくなったあとも、この音が鳴ったら、見守っていると思ってください」
最後の一行だけ、少し大きく書かれていた。
「見張っていたのではありません。
あなたが帰ってくる音を、待っていました」
私は箱を抱えて泣いた。
母が恐れていた海よりも深いところへ、自分だけが沈んでいくようだった。
*
春、私は再び沖へ出た。
青いお守りを胸に入れた。
波が船を揺らすたび、父の鐘の欠片が小さく鳴った。
昔はうるさいと思った音が、その日は、
帰っておいで、
と聞こえた。
夕方、港へ戻ると、母の家は暗かった。
私は玄関の電灯をつけた。
誰も住んでいない家だったが、沖からも見える、小さな灯りだった。
それから私は、出港する日は必ず灯りを残すようになった。
若い漁師が笑った。
「電気代がもったいないですよ」
「帰る場所は、明るいほうがいい」
私は答えた。
沖へ出る船の灯りが、一つずつ小さくなっていく。
胸のお守りへ触れた。
母さん。
今日も行ってくる。
見張らなくていい。
けれど、帰るまで見ていてほしい。
海辺の家の灯りは、朝の薄闇の中で、消えずに残っていた。




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