恩師が亡くなった朝、私は七歳の少女に、休符の意味を教えていた。
窓の外では、一晩で積もった雪が、町から色という色を奪っていた。
屋根も、道路も、遠い山も、昨日までそこにあったものが、白い沈黙の底に沈んでいた。
「先生、休符って、何もしないところ?」
少女が鍵盤の上で指を止めた。
「何もしないんじゃないの」
私は譜面を指さした。
「次の音が生まれるまで、待つところよ」
そのとき、教室の電話が鳴った。
恩師の娘さんからだった。
先生が昨夜、亡くなったという。
私は受話器を持ったまま、庭の雪を見ていた。
涙は出なかった。
代わりに、ストーブの灯油が夕方までもつだろうか、と考えた。
人間というものは、本当に悲しい知らせを受けると、まず、どうでもよいことに逃げ込むらしい。
私は冷静だったのではない。
悲しみの前で、少し卑怯だったのである。
*
先生の音楽教室は、雪国の古い商店街の外れにあった。
冬になると、石油ストーブの上で薬缶が鳴り、濡れた手袋と古い楽譜の匂いが部屋に満ちた。
私は六歳から十八歳まで、そこでピアノを習った。
先生は、ほとんど褒めない人だった。
発表会で一度も間違えなかった日も、
「間違えないことと、届くことは違います」
と言った。
コンクールで賞を取った日も、
「最後の二小節で、自分だけ先に行きましたね」
と言った。
私は先生に認められたくて、指先が熱を持つまで練習した。
母が眠ったあとも、布団の上で指を動かした。
けれど先生は、私の演奏の中から、いつも足りないものだけを見つけた。
ただ一度、小学三年の発表会で曲を止めてしまったとき、先生は舞台袖から私のそばへ来た。
客席がざわめく中、先生は椅子を少し詰めて、私の隣に座った。
「止まったところからでいいのです」
それだけ言った。
私は泣きながら続きを弾いた。
あのときだけは、先生の横顔が、誰よりも優しく見えた。
*
高校三年の冬、私は音楽大学の推薦に落ちた。
先生の教室へ行き、結果の紙をピアノの上に置いた。
「先生の言うとおりに弾いたのに」
先生は黙って紙を見ていた。
「私には才能がないって、最初から思っていたんでしょう」
先生の唇が、わずかに動いた。
けれど、言葉は出てこなかった。
私は、その沈黙を肯定だと思った。
「もう、先生の音楽なんか要りません」
そう言って教室を飛び出した。
外は吹雪だった。
私は雪をかき分けながら、呼び止めてほしいと思っていた。
一度でよかった。
才能があると言ってほしかった。
あなたの音が好きだと言ってほしかった。
だが先生は追ってこなかった。
私も振り返らなかった。
私たちは二人とも、言えないことを抱えたまま、雪の中で反対方向へ歩いた。
*
私は音楽大学へ行かなかった。
町の短大を出て、結婚し、離婚した。
三十歳を過ぎて実家へ戻り、母が物置にしていた六畳間で、子ども向けのピアノ教室を始めた。
夢に敗れた人間が、夢を教える。
なかなか立派な冗談だと、自分でも思った。
それでも、生徒は少しずつ増えた。
私は先生から教わったことを、知らないうちに子どもたちへ渡していた。
手首を固くしないこと。
音と音の間にも耳を澄ませること。
悲しい曲を、悲しい顔だけで弾かないこと。
先生の音楽など要らないと言ったくせに、私の中には、先生からもらった言葉しかなかった。
葬儀の日、町は朝から吹雪だった。
焼香を終えると、先生の娘さんが紙袋を渡してくれた。
中には、古いカセットテープが一本入っていた。
白いラベルに、私の名前が書かれていた。
「母は喉の病気で、最後は長く話せなくなったんです」
娘さんは言った。
「声が出るうちに、伝えたい人へ録音していました。あなたの分は、何度も録り直していました」
*
家に帰り、納戸から古いラジカセを探し出した。
再生ボタンを押すと、テープの回る乾いた音がした。
長い雑音のあと、先生の声が聞こえた。
「これを聴いているということは、私はもう、あなたに言い直すことができないのでしょう」
昔より弱く、息の混じった声だった。
「あなたが推薦に落ちた日、私は謝らなければなりませんでした」
私は、膝の上で両手を握った。
「あなたは、私の言うことを守りすぎました。正しく弾こうとして、自分の音を隠してしまった。そうさせたのは、私です」
テープの向こうで、先生が咳をした。
「才能がないと思ったことは、一度もありません」
窓に雪がぶつかった。
「あなたの音は、昔から、人を待つ音でした。自分だけ先へ行かず、遅れている誰かのために、少し立ち止まる音でした」
私は顔を伏せた。
「商店街で、あなたの生徒のお母さんに会いました。先生は、できるまで待ってくれる、と話していました」
先生は少し笑った。
「私は、あなたを演奏家にできなかったと思っていました。でも、間違っていたようです」
そこで声が途切れた。
しばらく雑音だけが続いた。
やがて、遠くからピアノの音が聞こえてきた。
私が小学三年の発表会で、途中で止まった曲だった。
先生の指は震え、音を何度も外した。
それでも、止まった箇所から、最後まで弾いた。
演奏が終わると、先生は小さな声で言った。
「私が言えなかった言葉を、あなたは子どもたちに言ってあげてください」
息を吸う音がした。
「あなたの音が、私は好きでした」
テープが止まった。
私はラジカセに手を置いた。
冷たい機械だった。
それでも、先生の手に触れたような気がした。
先生、と呼んだ。
何度も呼んだ。
私も言えなかった。
先生を恨んでいたのではない。
先生を失望させたと思うことが、怖かっただけなのだ。
本当はずっと、先生のようになりたかったのだ。
そのことを伝えるには、私の言葉は雪よりも遅かった。
*
春になっても、町の隅には汚れた雪が残っていた。
あの日、休符について尋ねた少女が、発表会の曲を途中で止めた。
「やっぱり私、向いてない」
昔の私と同じ顔をしていた。
私は叱る代わりに、少女の隣へ座った。
「止まったところからでいいよ」
少女は涙を拭いた。
「最初からじゃなくていいの?」
「いいの。音楽も、人も、いつも最初からやり直せるわけじゃないから」
少女はしばらく鍵盤を見つめていた。
やがて、小さな指が白い鍵盤を押した。
不揃いな音が、春の教室に響いた。
上手な演奏ではなかった。
けれど、その音は、どこか遠くまで届いていくようだった。
棚には、先生のカセットテープが置いてあった。
もう再生する必要はなかった。
先生の声は、私の中で回り続けていた。
少女が最後の音を弾き終えた。
私は拍手をした。
その音が消える前に、心の中で先生へ言った。
先生。
聞こえていますか。
あなたが私に渡したものは、なくなりませんでした。
あの雪の日に途切れた音は、いま、別の小さな指の中で続きを奏でています。
そして私も、ようやく言えます。
先生。
私も、あなたの音が好きでした。




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