返せなかった夜、母の傘

雨の中の駅前の待機 泣ける話

郊外の駅前は、雨が降ると少しだけ広く見える。

人がみな傘の中に縮こまるせいかもしれないし、アスファルトに灯りが伸びて、道そのものが余白を持つからかもしれない。

私の勤めるコンビニは、その駅前のロータリーに面していて、夜になると、終電を逃しかけた人や、部活帰りの高校生や、なんとなく家へ帰りたくない顔をした大人が、濡れた靴のまま入ってくる。

自動ドアが開くたび、湿った風が入る。

傘のしずく、コートの匂い、温めた弁当の湯気、レジ袋の音。

そういうものの中に立っていると、自分まで誰かの途中みたいな気がしてくる。

私は二十四で、コンビニの夜勤をしている。

胸を張って言うような仕事ではない、と思っていた時期もある。

けれど最近は、胸を張ること自体、そんなに立派なことでもないのではないかと思う。

人はだいたい、うつむきながら暮らしている。

レジのこちら側にいると、それがよくわかる。

母からのLINEに、私は三日、返していなかった。

通知は見ていた。

ちゃんと見て、文面まで読んで、それでも返さなかった。

母の文は、いつも少しだけ浮いている。

「今日は駅前の桜がまだがんばってました」

とか、

「スーパーであんたの好きだったプリン安かったよ」

とか、

「雨だから、帰りは傘忘れんように」

とか。

それにどう返したらいいのか、わからなくなるときがある。

好きだった、という言い方が、ときどき私を古傷みたいに痛くさせる。

まだ好きかもしれないのに、母はすぐ過去形にする。

そういう小さいことが積もって、私は返事の遅い娘になった。

最後に来ていたのは、

『今度の日曜、久しぶりにそっちに行こうか』

というメッセージだった。

その下に、傘の絵文字が一つついていた。

私はその画面を見ながら、返事を書いては消した。

『来なくていいよ』

打って、消した。

『仕事だし、部屋も散らかってるし』

打って、消した。

『最近ほんと疲れてて、正直、誰にも会いたくない』

そこまで打って、また消した。

最後に、

『お母さんって、なんでいつもそんな普通にしてるの』

と打って、指が止まった。

そんなことを送ったところで、何になるのだろうと思った。

返事を遅らせる人間というのは、たいてい優しいのではなく卑怯だ。

傷つけたくないからではない。

自分が悪者になる瞬間を、少し先へ延ばしているだけだ。

結局、その日も私は返事をしなかった。

夜十一時を過ぎると、駅前の人通りは急に薄くなる。

雨脚は弱くなったり強くなったりして、店のガラスに斜めの線を引いていた。

レジ横のビニール傘が、白い骨ばった魚みたいに並んでいる。

私はその景色を見て、昔のことを思い出した。

小学生のころ、母は雨の日になると、よく駅まで迎えに来た。

花柄の傘を差して、改札の横に立っている。

私はそれが少し恥ずかしかった。

友達の前で子ども扱いされる気がしたし、何より母の花柄の傘が、妙に目立った。

「自分で帰れるし」

と私は言った。

母は、

「知っとるよ。

でも、濡れるやろ」

と言った。

あのころの私は、それをやさしさではなく、鬱陶しさとして受け取っていた。

子どもというのは残酷で、守られている最中には、それを支配と勘違いする。

母と私がうまく話せなくなったのは、父がいなくなってからだった。

父は私が高校二年のとき、病気で死んだ。

あっけなく、という言い方は少し乱暴かもしれない。

けれど残される側にとっては、だいたいの死はあっけない。

もっと長く苦しんだ人に失礼でも、こちらの準備なんて少しも整わないうちに、終わってしまうからだ。

父が死んだあと、母は急に明るくなった。

いや、明るいふりをするようになった、というべきかもしれない。

仏壇に花を供えながら笑う。

テレビのバラエティに、大きな声で相づちを打つ。

私に向かって、

「あんたまで暗くなったら、家が沈むやろ」

と言う。

私はその言い方が嫌だった。

嫌だったというより、腹が立った。

どうしてちゃんと泣かないのだろうと思った。

どうして、平気みたいな顔をするのだろうと思った。

私は平気ではなかった。

学校の帰り道、駅のホームで急に父の声を思い出して泣きそうになることがあったし、夜、廊下の向こうでテレビがついていると、一瞬だけ父がいる気がして、次の瞬間にいないことを思い出した。

母も同じように苦しいはずなのに、どうしてあんな言い方をするのだろう。

そのころから、私たちは少しずつ、肝心なところで話せなくなった。

休憩中、バックヤードで私はまた母のトーク画面を開いた。

『今度の日曜、久しぶりにそっちに行こうか』

その下に、何も返されないまま三日分の沈黙がある。

私はスマホを見つめながら、また下書きを作った。

『仕事だから無理』

『元気だから大丈夫』

『今は一人にして』

どれも少しずつ本当で、どれも少しずつ嘘だった。

大丈夫、という言葉ほど、便利で、胡散臭いものはない。

大丈夫と言う人間ほど、たいてい大丈夫ではないからだ。

その夜の客は、妙にみんな静かだった。

濡れたスーツの男が缶ビールを二本買っていった。

傘を持たない女子高生が、レジ横の肉まんを見て少しだけ迷ってから、結局何も買わずに出ていった。

近所の工事現場の人が、温かい缶コーヒーを三本まとめて持ってきて、

「兄ちゃん、雨やだねえ」

と言った。

私は笑って、

「ほんとですね」

と答えた。

こういう、誰にも残らないやり取りで、一日が埋まっていく。

たぶん生活というのは、そういうものでできている。

日付が変わる少し前、見慣れた名前が画面に出た。

母からだった。

電話だった。

私は一度、見なかったふりをした。

ベルが鳴り終わるのを待とうとした。

だが、そのあとすぐにまた鳴った。

二度目の着信というのは、少しだけ不吉だ。

私はレジの客が途切れた隙に、バックヤードへ入り、通話ボタンを押した。

「もしもし」

少しの沈黙のあと、母ではない声がした。

「あ、あの……駅前の、さくら薬局ですけど」

一瞬、意味がわからなかった。

相手は早口で言った。

母が薬局の前でふらついて座り込んだこと。

大事ではなさそうだが、念のため救急車ではなく、近くのクリニックに連絡したこと。

携帯の緊急連絡先の欄に、私の番号があったこと。

頭の中で、言葉がうまく並ばなかった。

「今、行きます」

とだけ言って、私は電話を切った。

店長に事情を話すと、思ったよりあっさり帰してくれた。

人の不幸に対して、コンビニの夜は意外とやさしい。

雨はまだ降っていた。

店の傘立てから透明のビニール傘を一本抜いて、私は走った。

駅前の信号、ロータリー、薬局の灯り、濡れたタイル。

たかが数分の距離なのに、ひどく遠かった。

間に合わない何かへ走っている気がした。

クリニックの待合室で、母は椅子に座っていた。

毛先が少し濡れていて、膝の上に古いベージュの傘を置いていた。

顔色は悪かったが、私の顔を見ると、困ったように笑った。

「あら、ごめん。

大げさになってしもうた」

腹が立った。

安心したせいだろうと思う。

安心というものは、よく怒りに化ける。

「なんで連絡しないの」

「したやろ」

「そういうことじゃなくて」

「ちょっと立ちくらみしただけ」

「だから、そういうのを……」

私は途中で黙った。

そういうのを、何だと言いたかったのか、自分でもわからなかった。

隠すな、と言いたかったのか。

平気なふりをするな、と言いたかったのか。

ちゃんと頼れ、と言いたかったのか。

でも、そんな言葉は、返事を三日も放っておいた娘の口から出るには、あまりに虫がよすぎた。

母は私を見て、少しだけ首をかしげた。

「あんた、寝てない顔しとる」

「夜勤だから」

「痩せた?」

「普通」

「普通って言う人、だいたい普通じゃないんよ」

その言い方が、昔と変わらなくて、私は泣きそうになった。

医師の説明では、強い貧血と疲れが重なっただけらしかった。

点滴をして、今夜は安静にしていれば大丈夫だという。

大丈夫。

その言葉は便利だが、さっきまでの私には一つも役に立たなかった。

母をタクシーに乗せ、私は実家まで付き添った。

車窓に雨の筋が流れる。

郊外の道は夜になると、どこも同じように見える。

チェーン店の看板、濡れた歩道、遠くの踏切、消えかけのネオン。

父がいたころ、この道を家族で通ったこともあったのだろうが、そういう記憶はたいてい、細部から先に薄れていく。

実家に着くと、母は、

「お茶だけ」

と言った。

部屋は昔のままだった。

少し物が減って、少し静かになった以外は。

父の写真も、仏壇の花も、壁の時計も、台所の古い炊飯器も、そのままだった。

私は何気なく、テーブルの上の母のスマホを見た。

画面が点いていて、LINEが開いたままだった。

私とのトーク画面だった。

そこに、送られなかった下書きが残っていた。

『日曜に行こうかと思ったけど、しんどいなら無理せんでいいよ』

『ほんとは顔見たいけど、返事が遅いのは元気がないときやって、母親はだいたいわかる』

『傘、持っていきます。

駅前で待っとる』

私は動けなくなった。

母は台所から、

「お湯、すぐ沸くから」

と言った。

その声が、急に遠く聞こえた。

返事の遅れを、私はずっと、責められているような気がしていた。

無言の圧力みたいに感じていた。

けれど違ったのだ。

母は、たぶん最初から知っていた。

私が返せないときの理由を。

うまく言葉にできない疲れを。

知っていて、責めないでいただけだった。

それなのに私は、母の明るさをずっと誤解していた。

平気なふりではなく、私を沈ませないための、不器用な気遣いだったのかもしれない。

お茶を持ってきた母に、私は言った。

「これ、見た」

母はスマホを見て、少しだけ気まずそうに笑った。

「送る前に、気ぃ失ったら格好悪いやろ」

「格好悪いとか、そういうの……」

「あるよ、母にも」

「なんで送らなかったの」

「重いかなと思って」

「今さらだよ」

母は笑った。

「そうやね」

私はスマホを置いて、しばらく俯いた。

泣くつもりはなかった。

けれど、こういうときの涙は、いつも少し遅れてくる。

遅刻してきたくせに、いちばん偉そうな顔をして。

「私、ずっと、お母さんのこと誤解してた」

母は何も言わなかった。

私は続けた。

「お父さんのあとも、全然平気そうで。

なんでそんな普通にしてるんだろって、ずっと思ってた」

「平気なわけないやろ」

「うん」

「でも、あんたがおる前で一緒に沈んだら、ほんとに終わる気がしたんよ」

その言い方は、あまりに母らしくて、あまりに遅かった。

遅いくせに、ちゃんと届いてしまう言葉というのがある。

母は湯呑みを両手で包みながら、少し笑って言った。

「お父さんが死んだ日の夜ね」

私は顔を上げた。

母は、湯気の向こうを見るみたいに目を細めた。

「あんた、寝たふりしとったやろ」

私は何も言えなかった。

覚えていたからだ。

布団をかぶって、目を閉じたまま、眠ったふりをしていた。

泣いたら何かが壊れる気がして、息を殺していた。

「あのとき、台所で一人で泣いたんよ」

と母は言った。

「声出したら、あんたまで起きてしまうと思って」

私は喉の奥が詰まった。

そんなこと、少しも知らなかった。

私は母が泣かなかったのだと思っていた。

泣かない人間なのだと、乱暴に決めていた。

でも違った。

見せなかっただけなのだ。

私が見ようとしなかっただけなのだ。

「返事、返さなくてごめん」

と私は言った。

母は湯呑みを持ったまま、

「知っとる」

と言った。

「知っとるけど、ちょっと腹立つ」

私は泣きながら笑った。

その夜、私は実家に泊まった。

久しぶりに母と同じ屋根の下で寝た。

雨は明け方まで降っていたらしい。

眠りの浅い途中で、窓を打つ音を何度か聞いた。

高校生のころ、父がまだいたころ、雨の夜にこうして目を覚ますと、決まって母が廊下を歩く気配がした。

戸締まりを確かめたり、洗濯物を取り込んだり、朝の米を研いだりしていたのだろう。

母というのは、家の中でいちばん遅く眠り、いちばん早く起きる生き物なのかもしれない。

朝、先に起きた母が、玄関に傘を二本立てていた。

一本は、あの古いベージュの傘だった。

もう一本は、透明のビニール傘だった。

昨日、私がコンビニから持ってきたものだ。

「これ、持って帰り」

と母が言った。

「あるし、傘くらい」

「じゃあ約束」

「何」

「次に返事できんときは、できんでいいから、スタンプ一個だけでも返しなさい」

「小学生みたい」

「母親相手なんて、そのくらいでいいんよ」

私は少し考えてから、

「わかった」

と言った。

母は満足そうに頷いて、それからベージュの傘を持ち上げた。

「これも持っていく?」

「いいの?」

「古いから、もう捨てようと思っとったけど」

「ちょうだい」

「なんで」

「なんか、ほしいから」

母は何も言わずに、その傘を私に渡した。

受け取ると、持ち手のところが少しすり減っていた。

たぶん長く使っていたのだろう。

駅まで迎えに来たあの雨の日も、父の通院の日も、私の入学式も、もしかしたらこの傘だったのかもしれない。

物は何も言わないくせに、たまに人よりよく覚えている。

駅前までの道を、私はその傘を差して歩いた。

少し骨が歪んでいて、布もところどころ色が薄くなっていた。

美しくはない。

むしろ、みっともないくらい使い込まれている。

でも、そういうものほど、手に持つと軽くはない。

駅前のコンビニが見えた。

ガラスの向こうに、昨夜と同じように灯りがある。

私はポケットからスマホを出して、母のトーク画面を開いた。

何でもない文を打つ。

『着いた』

それだけでは足りない気がして、もう一行足した。

『今度の日曜、私がそっち行く。

プリン買って』

送信すると、すぐに既読がついた。

返信は、驚くほど早かった。

『傘、忘れんように』

私は駅前で立ち止まって、少し笑った。

それから、思いついて、スタンプを一つ送った。

笑っている、どうでもいい犬のスタンプだった。

母からも、すぐに同じものが返ってきた。

雨はもう上がっていた。

駅前の空はまだ薄く曇っていたが、その向こうで、どこか明るい場所が準備されているような色をしていた。

それでも私は、しばらく傘を閉じなかった。

濡れた朝の光の中で、古い布の匂いをかすかに吸い込みながら、こういう約束なら、たぶん守れる気がした。

ちゃんと話す、とか。

もう誤解しない、とか。

そんな立派な約束ではない。

返せない日は、スタンプ一つ。

会いたい日は、会いたいと一言。

その程度の、小さくて、でも生活を切らさないための約束だ。

人はたぶん、そういうものでしか、ほんとうにはつながれないのだと思う。

コメント

タイトルとURLをコピーしました