yokke555

泣ける話

返せなかった夜、母の傘

郊外の駅前は、雨が降ると少しだけ広く見える。人がみな傘の中に縮こまるせいかもしれないし、アスファルトに灯りが伸びて、道そのものが余白を持つからかもしれない。私の勤めるコンビニは、その駅前のロータリーに面していて、夜になると、終電を逃しかけた人や、部活帰りの高校生や、なんとなく家へ帰りたくない顔をした大人が、濡れた靴のまま入ってくる。自動ドアが開くたび、湿った風が入る。傘のしずく、コートの匂い、温めた弁当の湯気、レジ袋の音。
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祖父の通帳、最後の手紙

団地の廊下は、いつも少しだけ病院に似ている。古いコンクリートの匂いと、誰かが煮ている味噌汁の湯気と、遠くで鳴るテレビの音が、薄い壁の向こうで混ざっているせいかもしれない。夕方になると、西日の色まで消毒液みたいに白っぽく見えることがある。私が育った団地は、そういう場所だった。今はもう、そこに祖父はいない。
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朝のパンと、言えなかったこと

朝の五時、住宅街はまだ人間の顔をしていなかった。どの家の窓も暗く、郵便受けだけが眠れないもののように口を開けている。私はその道を、自転車のライトひとつで切り裂くように走った。三月の朝はまだ冷える。頬に触れる空気が冷たくて、目が覚めるというより、自分がまだ生きていることを無理やり思い出させられる。パン屋の朝は早い。
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祖母の便箋

祖母は、花の名前を人の名前みたいに呼ぶ人でした。  「この子は朝に弱いのよ」とか、  「この子は水を欲しがるから気をつけなさい」とか、  まるで店先の鉢が親戚一同であるかのように話すのです。  私はそのたびに、はいはい、と生返事をしました。  花屋の店員をしているくせに、私は花にそこまで情を移せる性分ではありません。
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父がレシートの裏に書いていたこと

父とは、長いこと、会話の火加減が合いませんでした。  弱火で済む話を、なぜか強火にしてしまったり。  ほんとうは沸くまで待たなければならないことを、途中で火から下ろしてしまったり。  そういう、台所じみた不一致です。  私は住宅街の角にあるパン屋で働いています。
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祖父のしおり

祖父が死んでから、私は人に本を返してもらう仕事をするようになりました。  図書館司書、という呼び名は、いくらか知的で、いくらか静謐で、そして実際より少し立派に聞こえます。  ほんとうのところは、返却期限を過ぎた本に督促状を出し、破れた頁に薄い補修紙をあて、誰かの忘れていった栞やレシートを抜き取って、棚の秩序を元に戻す仕事です。  私はこの仕事が好きでした。
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母さん、小学校は今日も開いています

私が小学校の用務員になったのは、子どもが好きだったからではありません。  こういうことを言うと、だいたい二種類の顔をされます。  一つは、「ああ、この人は少しひねくれているのだな」という顔。  もう一つは、「そんなことを言って、本当は子どもが好きなんでしょう」という、勝手に救おうとする顔です。  どちらも、少し外れています。  私はただ、人と正面から向き合わなくていい仕事に就きたかったのです。
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忘れるな

祖父は、約束を忘れたのだと思っていた。 忘れた、という言い方が正しいのかどうか、今になると少し怪しい。 人は年を取ると、約束そのものを忘れるというより、約束の置いてあった場所へ辿りつけなくなるだけなのかもしれない。 けれど若い私には、そんな面倒な言い換えをする余裕がなかった。 ただ、忘れられた、と思った。
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帰る場所の守り

祖母が、お守りを捨てたのだと思っていた。 捨てた、というより、隠したのかもしれないし、あるいは最初から私に返す気などなかったのかもしれない。 けれど十七の私は、そんなふうに丁寧に考えることができなかった。 ただ、奪われた、と思った。 それで十分に傷つけられたし、十分に祖母を恨めた。
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終電のあとで、白い紙は残る

終電のあとというのは、駅がようやく人間の顔をやめる時刻である。 さっきまで改札を抜けていった無数の靴音も、ホームに吸われていったため息も、きれいに引いてしまって、残るのは蛍光灯の白さと、線路の冷たい匂いばかりだ。 私は駅員である。 地方都市のはずれにある、小さな駅で夜勤に入って七年になる。