私は、商店街の弁当屋で働いている。
働いている、と言えば聞こえはいいが、胸を張れるほどのものではない。
朝は唐揚げを揚げ、昼はレジを打ち、夕方には売れ残りに半額のシールを貼る。
立派な夢があったわけではない。
ただ、どこにも行けなかった私が、たまたま残った場所が、祖父の弁当屋だった。
商店街は、昔ほど賑やかではない。
シャッターの閉まった店が増え、魚屋の看板は色あせ、八百屋のおばさんの声だけが、どうにか昔のまま残っている。
うちの店は、その商店街の真ん中にあった。
「まる福弁当」
赤い文字の看板は、ところどころ剥げていた。
祖父が若い頃に始めた店だった。
名物は、しょうが焼き弁当と、卵焼き。
特別うまいわけではない。
いや、孫の私がそう言うのもひどい話だが、都会の有名店のような華やかさはない。
ただ、毎日食べても飽きない味だった。
祖父はよく言った。
「弁当は、ごちそうじゃなくて、帰る場所や」
私はその言葉が嫌いだった。
帰る場所、などと簡単に言う人ほど、こちらがどこにも行けないことを知らない。
私は一度、東京へ出た。
専門学校に通うためだった。
けれど半年で戻ってきた。
人の多さに疲れたとか、学費が足りなかったとか、理由はいくつもある。
本当は、私が弱かっただけだ。
私は帰ってきたその日から、祖父の弁当屋を手伝うようになった。
祖父は何も聞かなかった。
「明日、五時半な」
それだけだった。
優しさかと思った。
でも違った。
祖父は翌朝から、私に容赦なかった。
「米を潰すな」
「盛りつけが汚い」
「客の前でため息をつくな」
「レジの声が小さい」
私はそのたびに、
「分かってる」
と答えた。
分かってなどいなかった。
祖父に認められたい気持ちと、認められなかった時に傷つかないための言い訳が、いつも私の中で喧嘩していた。
店の奥には、古いアルミの弁当箱があった。
角がへこみ、ふたには細い傷がいくつもついていた。
祖父のものだった。
昔、祖母が祖父に持たせていた弁当箱だという。
祖母が亡くなってからも、祖父はそれを捨てなかった。
店を開ける前、祖父は時々その弁当箱を拭いていた。
中は空なのに。
まるで、そこにまだ誰かの手の温度が残っているみたいに。
私はそれを見るのが苦手だった。
祖父の中に、私の知らない家族の時間がある気がしたからだ。
ある日、常連の佐野さんが来た。
近くの工事現場で働いている人で、いつもしょうが焼き弁当を二つ買う。
一つは自分用。
もう一つは、寝たきりの奥さん用だと祖父から聞いていた。
佐野さんはいつも明るい人だった。
「ここの卵焼き食べると、うちのが機嫌よくなるんだ」
そう言って笑った。
私はその言葉を、ただの世間話だと思っていた。
人の生活の中で、弁当がどれほど大事になる日があるのか、その頃の私はまだ知らなかった。
その日、私はレジを担当していた。
祖父は奥で卵焼きを巻いていた。
佐野さんが、いつもより小さな声で言った。
「今日の卵焼き、少し甘めにできる?」
私は奥に向かって言った。
「おじいちゃん、卵焼き甘めで」
祖父は返事をしなかった。
聞こえなかったのだと思い、もう一度言った。
「甘めだって」
祖父は低い声で言った。
「うるさい。黙って詰めろ」
その場が少し静かになった。
佐野さんは気まずそうに笑った。
私は顔が熱くなった。
祖父に恥をかかされたと思った。
客の前で怒鳴られた。
私が何か間違えたわけでもないのに。
私はそのあと、卵焼きをいつも通り詰めた。
けれど奥から出てきた卵焼きは、いつもより少し色が濃かった。
あとから思えば、祖父はちゃんと砂糖を足していたのだ。
ただ、その場で佐野さんの事情を言葉にさせなかっただけだった。
私はそれに気づかず、弁当を袋に入れた。
佐野さんは弁当を受け取り、
「ありがとうね」
と言って帰った。
その夜、私は祖父に言った。
「なんであんな言い方したの」
祖父は売上を数えながら、
「何が」
と言った。
「佐野さんの前で、うるさいって」
祖父は手を止めなかった。
「仕事中や」
「だからって言い方あるでしょ」
祖父はようやく顔を上げた。
「言い方より、味を間違えるな」
その一言で、私は何かが切れた。
「私が邪魔なら、そう言えばいいじゃん」
祖父は黙った。
「東京から逃げ帰ってきたから、情けないって思ってるんでしょ」
言ってから、しまったと思った。
でも言葉は戻らなかった。
祖父はしばらく私を見ていた。
そして、短く言った。
「思っとらん」
私はその言葉を信じなかった。
短すぎる言葉は、時々、嘘より冷たい。
翌日から私は、祖父と必要なこと以外話さなくなった。
米を炊き、揚げ物をし、レジを打つ。
祖父も何も言わなかった。
店の中には、油の音と、商店街のスピーカーから流れる古い歌だけがあった。
数日後、佐野さんが来なかった。
一週間たっても来なかった。
祖父は何も言わなかったが、しょうが焼き用の豚肉を少しだけ余らせるようになった。
私はそれにも腹が立った。
来ない人の分まで作るなんて、効率が悪い。
そう思った。
本当は、待っている祖父の背中を見るのがつらかっただけだ。
十日ほど過ぎた夕方、商店街の花屋さんから聞いた。
佐野さんの奥さんが亡くなったらしい。
私はレジの前で固まった。
あの日。
甘めの卵焼きを頼んだ日。
あれは奥さんが食べたかった最後の味だったのかもしれない。
私は祖父に言った。
「佐野さんの奥さん、亡くなったって」
祖父は弁当箱を拭いていた。
古いアルミの弁当箱だった。
「知っとる」
「知ってたの?」
「昨日、佐野さんが来た」
「何しに?」
祖父は答えなかった。
ただ、弁当箱のふたを静かに閉じた。
私はそのとき初めて気づいた。
あの日、祖父が「うるさい」と言ったのは、私に怒ったのではなかったのかもしれない。
佐野さんの前で、奥さんのことを余計に言わせないためだったのかもしれない。
人の悲しみは、店先で大声にするものではない。
祖父は、それを知っていた。
でも私は、祖父に謝れなかった。
謝るには、自分の勘違いを認めなければならない。
私はそういうことが、昔から下手だった。
冬のはじめ、祖父が倒れた。
店先で、半額シールを貼っている最中だった。
救急車の赤い光が、シャッターの閉まりかけた商店街を照らした。
祖父は病院に運ばれたが、意識は戻らなかった。
私は店を休んだ。
何をしていいか分からず、厨房の床を磨いた。
米びつを拭き、フライヤーを洗い、冷蔵庫の中を整理した。
人は、泣くかわりに掃除をすることがある。
私がそうだった。
動いていないと、祖父に言えなかったことが、床の油汚れみたいに浮き上がってくるからだ。
店を閉めることも考えた。
祖父がいなければ、この店はただの古い弁当屋だ。
私ひとりで朝五時に米を炊き、卵を巻き、常連の顔を覚え、商店街の昼を支えるなんて、無理だと思った。
東京から逃げた私が、今度はこの店からも逃げようとしている。
その事実が、また私を惨めにした。
店の奥の棚に、あのアルミの弁当箱があった。
ふたを開けると、中には紙が入っていた。
レシートだった。
うちの店の、何枚もの古いレシート。
裏に、祖父の字があった。
最初の一枚には、こう書かれていた。
「孫、帰ってきた。顔が死んどる。明日から米を研がせる」
私は息を止めた。
次のレシート。
「米、下手。だが逃げずに来た」
その次。
「卵焼き、形は悪い。味は悪くない」
涙が、急に落ちた。
祖父は私を見ていた。
褒めなかったのではない。
褒め方を、知らなかったのだ。
私はレシートをめくった。
「東京から逃げたと思っているようだ。帰ってきただけで十分えらい。人は帰る場所を持っているだけで、何度でもやり直せる」
私はしゃがみ込んだ。
厨房の冷たい床に、涙が落ちた。
さらに一枚、あの日付のレシートがあった。
佐野さんが来た日だった。
「佐野さん、奥さんに甘い卵焼き。孫が大声で聞いた。怒鳴ってしまった。悪いことをした。あの子はまだ、客の事情まで背負わんでいい」
私は口を押さえた。
レシートの裏は続いていた。
「あの子は自分が邪魔だと思っている。邪魔なはずがない。店に灯りが増えた。私にはまぶしいくらいだ」
私はもう、立っていられなかった。
祖父は、私を邪魔だと思っていなかった。
逃げたとも、情けないとも、思っていなかった。
まぶしい、などという言葉を、あの祖父が書いていた。
それが余計に泣けた。
最後の一枚は、少し字が震えていた。
「私が死んだら、この店はあの子が決めればいい。続けても、閉めてもいい。ただ、ひとつ約束。自分を逃げた人間と言わないこと。誰かが帰ってきたら、温かい飯を残しておくこと」
私は、声を出して泣いた。
祖父は、ずっと約束を置いていた。
私に直接言えばいいことを、レシートの裏に隠して。
捨てられるはずの紙に、捨てられない言葉を残して。
病院から電話が来たのは、その夜だった。
祖父は眠るように逝った。
最後まで、私の名前を呼ぶことはなかった。
けれど私はもう、呼ばれなかったとは思わなかった。
レシートの裏で、何度も呼ばれていたからだ。
葬儀のあと、私は三日だけ店を閉めた。
四日目の朝、シャッターの前に立った。
鍵を持つ手が震えた。
開けるのが怖かった。
開けたら、祖父のいない店が始まってしまう。
閉めたままなら、祖父がまだ奥で卵を巻いているような気がした。
そのとき、佐野さんが商店街の向こうから歩いてきた。
「今日、やるの?」
私は首を振りかけて、やめた。
「卵焼き、甘めでよければ」
佐野さんは少し笑った。
「うちのが、喜ぶな」
私はシャッターを開けた。
店の中に、朝の冷たい光が入った。
厨房に立ち、卵を割った。
砂糖を少し多めに入れた。
祖父のようには巻けなかった。
形は少し崩れた。
けれど、甘い匂いがした。
佐野さんはそれを食べて、
「似てきたね」
と言った。
私は泣きそうになって、
「まだ下手です」
と答えた。
店の奥には、アルミの弁当箱を置いた。
中には祖父のレシートを入れてある。
今も、ときどき開ける。
忙しい昼。
売れ残りが多かった夕方。
自分がまたどこにも行けなかった人間に思える夜。
私はレシートの裏を読む。
「帰ってきただけで十分えらい」
その言葉を読むたびに、少しだけ背中が伸びる。
商店街は、今日も静かだ。
シャッターは増えた。
客も多くはない。
それでも昼になると、誰かが弁当を買いに来る。
私はご飯をよそい、卵焼きを詰め、ふたを閉める。
レシートを渡すとき、時々、裏に小さく書きたくなる。
大丈夫。
ちゃんと帰れる場所はあります。
でも、それは少し大げさだから、まだ書かない。
祖父の約束だけを胸に、私は今日も店を開ける。
古い弁当箱のふたは、いつも少しだけ開けてある。
まるで祖父が、売れ残りを心配しながら、奥からこちらを見ているように。



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