泣ける話

他人の成功を喜べない旅行代理店員|ライバルと再出発する感動短編

「それ、私の切符ばさみですよね」 誰もいない映画館のロビーで、木田はゆっくり振り向いた。 明日の上映会を待つ赤い座席は扉の向こうで黙り込み、売店の小窓には季節外れの風鈴が下がっていた。 夜風が入り込み、ちりん、と一度だけ鳴らした。「失くしたんじゃなかったのか」「そう思っていました、十年も」
家族の話

離婚を考える夫婦の再出発|片方の手袋を返す夜【感動短編】

「今夜、あの子たちの卒業式をやってくれないか」 班長は、段ボールいっぱいの紙の花を私に押しつけた。 私は町外れのバス会社が共同配送を請け負う倉庫で、夜行バスから降ろされる小口荷物を仕分けている。 昼と夜の間で持ち主を待つ鞄や小包は、いくら眺めても何も語らない。 人間もそれくらい行儀よく黙ってくれればよいのに、と私はよく思う。 卒業するのは、夕方の仕分けを手伝ってきた通信制高校の三人だった。 荷札の読み方も、重い箱を腰で持ち上げることも、三人に教えたのは私だった。
家族の話

最後の給食と曲がったスプーン|疎遠な兄との和解を描く感動短編

「兄さん、見に来ないか。最後くらい」そう電話で言ったとき、私は右手で曲がったスプーンを握っていた。柄の途中がくの字に折れ、食べ物をすくえば少しだけ左へこぼす、役立たずのスプーンである。兄と私のようだ、などと考えてから、自分の比喩の安っぽさに嫌気がさした。兄はしばらく黙り、「仕事中だろ」と言った。「だから見てほしいんだ」返事はなかった。ただ、切れる直前に、小さく咳をする音がした。
泣ける話

【泣ける短編】左足を失った父と作業療法士の娘

父が左足を失った翌日、家の玄関にある黒い革靴を持ってきてくれと言った。「片方だけでいいの」私が尋ねると、父は顔をしかめた。「靴は二つで一足だ」踵の擦り減った、古い革靴だった。右の靴はともかく、もう履く足のない左の靴まで病院へ持ち込む理由が、私には分からなかった。父は昔から言葉が足りなかった。
家族の話

【泣ける短編】病気を隠した母が問診票の裏に残した言葉

母が書いた問診票の裏【改稿版】母の病気を知ったのは、私が患者に「痛みを隠さないでください」と説明している最中だった。廊下を通り過ぎた車椅子に、母が乗っていた。頬は痩せ、膝には見覚えのある灰色のひざ掛けが掛かっていた。母は私と目が合うと、叱られた子どものように顔を伏せた。私は病院で理学療法士をしている。人の歩き方を見れば、どこをかばい、どの筋肉が弱っているか、おおよその見当がつく。
家族の話

【泣ける短編】亡き祖父が残した最後の靴音

祖父が亡くなったあと、私は病院のリハビリ室で、彼の最後の靴音を聞いた。右足を引きずる音。杖が床をたたく音。苦しそうな息。それから、子どものように弾んだ声。「今日は、三歩じゃ」その録音を聞くまで、私は祖父が私を嫌っているのだと思っていた。私は雪の多い町の総合病院で、看護師をしている。
家族の話

【泣ける短編】亡き母が残した「帰りの切符」

母が死んだ翌朝、私は駅の落とし物保管庫で、自分の名前が書かれた荷札を見つけた。《拾得物――帰りの切符》《持ち主――私の息子》母の字だった。切符の日付は、二十四年前。私が故郷を捨てた日である。もっとも、故郷を捨てたなどと言えば、いくらか勇ましく聞こえる。本当は、故郷のほうから捨てられたと思い込み、逃げただけなのだ。
家族の話

祖母の財布に残った八十六円

祖母の財布を拾ったのは、閉店前の値引きシールを貼り終えたあとだった。総菜売り場の隅に、茶色い財布が落ちていた。角は白く剝げ、壊れた留め具には赤い糸が巻かれている。見間違えるはずがなかった。祖母の財布だった。中に入っていたのは、十円玉が八枚、一円玉が六枚。合わせて八十六円。
泣ける話

【泣ける短編】亡き恩師から届いた最後の手紙

私は手紙を届ける仕事をしながら、自分宛ての手紙だけは、ひどく恐れていた。もっとも、四十二歳の独り身の男に、わざわざ便箋を埋めてくれる物好きなど、もうこの世には一人もいないと思っていた。故郷の商店街へ戻り、配達員になって三年が過ぎていた。昼間でも薄暗いアーケードには、錆びた看板と閉じたシャッターが並んでいる。昔は魚屋だった店の軒先で猫が眠り、風が吹くと、古い値札だけが人間の代わりに揺れた。
家族の話

終電のあと、母から届いたLINE

母からLINEが届いたのは、終電が出る一時間前だった。「今夜、駅で少し会えませんか」私は画面を伏せた。駅前のコンビニは、終電前だけ、この町でいちばん忙しい場所になる。缶ビールを買う会社員。充電器を探す若者。値引き弁当を二つ抱えた、私によく似た疲れた男。返信する暇がない、と思った。