泣ける話

いつもの角を曲がる犬|少年と愛犬の絆を描く泣ける短編

引っ越し先の町になじめない少年と、毎日同じ角を曲がろうとする愛犬ハル。言葉を話せない犬が教えてくれた、新しい町での「帰る場所」を描く、心に響く泣ける短編です。
泣ける話

紺色のマグカップと、明日の話

病院という場所は、朝がいちばん正直です。夜のあいだに消毒された床はまだ冷たく、廊下の蛍光灯だけが先に起きていて、人の気配は薄いのに、忙しさの予感だけがもう隅々まで満ちている。ナースステーションの奥では、看護師たちの声が小さく行き交い、ワゴンの車輪が静かに鳴り、どこかで吸引器の音が短く切れる。
家族の話

【泣ける短編】閉店する時計店で父と息子が腕時計を直した夜

閉店する時計店を営む父と、十一年ぶりに訪れた息子。止まった腕時計の修理代をめぐり、父子が少しずつ向き合う、静かな救いの泣ける短編小説です。
泣ける話

まだ、あたたかい字

母の字は、少し右に傾いていた。急いで書いたみたいに見えるのに、なぜか乱れてはいない。私はあの字が、昔からあまり好きではなかった。いや、好きではないと思い込んでいたのだと思う。本当は、あの字を見るたびに、母の忙しさまで一緒に思い出してしまうのが嫌だったのかもしれない。
泣ける話

雪の音が消えるまで

恩師のことを、私は長いあいだ嫌いだと思っていた。そう言ってしまうと、いかにも恩知らずで、実際かなり恩知らずなのだが、それでも若いころの私は、あの人の厳しさを愛情として受け取ることができなかった。いや、受け取らなかった、と言うべきかもしれない。人は自分が欲しい形で渡されないものを、ときどき平気で愛情ではないと決めつける。私もそういう、ずいぶん身勝手な生徒だった。
泣ける話

【泣ける短編】働く意味を教えてくれた恩師と灯台管理員

「約束、あさってだぞ」受話器の向こうで佐伯さんが言った。私は灯台の窓にこびりついた塩を爪で掻きながら、何の約束です、と答えた。沈黙が三秒ほどあった。「忘れたなら、いい」人は本当に怒ると声を荒らげない。私は十九の頃から、それを佐伯さんに教わっていた。教員ではない。港町のスーパーの店長で、朝五時から青果を並べ、値札の曲がりを犯罪のように憎んだ人である。私に働き方を教えたから、勝手に先生と呼んでいる。本人は迷惑そうだった。人の顔を見るのがつらいなら海を見ろ、と、灯台の求人に丸をつけたのも佐伯さんである。電話を切ってから、机の引き出しを探した。
泣ける話

白い布の乾くころ

別れた人の名前は、口に出さないほうが長持ちする。そう思って、私は三年も黙っていた。名前にしてしまうと、その人がまたこちらへ歩いてきそうで嫌だったのだ。クリーニング店で働いて八年になる。商店街の端にある、ガラス戸の古い店だ。ワイシャツの糊の匂い。
泣ける話

【泣ける短編小説】タクシー運転手と元上司、12年越しの誤解|同じ頁の名前

「同じ行に、お前と俺の名前がある」黒田さんは、埃をかぶった修理台帳を私の胸へ押しつけた。午前五時十二分。坂の下に止めた私のタクシーでは、メーターの緑色の数字だけが律儀に光っていた。六時には、この古い整備工場兼営業所の解体が始まる。昨夜、配車室へ黒田さんから私を指名する電話があった。会社は七年前に車庫を平地へ移し、最後の工場長だった黒田さんも翌年退職して町を離れた。解体業者から連絡を受け、今朝だけ戻ったらしい。
家族の話

【泣ける短編小説】時計修理職人の父と故郷を離れる息子|パンが焼けるまで

「返品」息子はそう言って、私の作った置き時計を食堂の丸テーブルに置いた。真鍮の角は潰れ、裏蓋には小麦粉が入り込んでいる。十年前、二十歳になった息子へ、古い目覚まし時計を組み直して贈ったものだ。「ずいぶん丁寧に使ったものだな」「時計は、粉を食...
泣ける話

夜明け前の声

父は、私を一度も褒めなかった。いや、正しく言えば、褒められたことに私が気づかなかったのかもしれない。けれど少なくとも、若いころの私は、息子というものはもっと分かりやすく認められるべきだと思っていた。肩を叩くとか、でかしたと笑うとか、せめて一言、ようやったと言うとか。そういう形があるものだと、勝手に信じていたのだ。