商店街の朝は、いつも少しだけ、嘘くさいほど明るい。
八百屋の店先には、まだ土の匂いを残した大根が並び、魚屋の氷は白く息をしていて、パン屋の窯からは、昨日までの憂鬱を焼き払うような匂いが流れてくる。
その真ん中あたりに、私の店はある。
間口の狭い、小さな花屋だ。
祝うための花と、謝るための花と、別れるための花が、同じバケツの水を吸っている。
私は毎朝、茎を切りながら、そのことを考える。
花は、ずいぶん寛大だ。
人間のほうがよほど狭量で、勝手で、思い込みが激しい。
少なくとも私は、そうだった。
二十九になった今でも、胸の奥に古い棘を一本、きちんと飼い慣らせずにいるくらいだから。
その朝、店先でラナンキュラスの水を替えていた私は、視線の気配で顔を上げた。
春の終わりの風にまぎれて、ひとりの男が立っていた。
慎一だった。
その名前を、私は心の中で何度も呼ばないようにしてきた。
元恋人、という言い方をすれば簡単だ。
けれど、その二文字では足りないものが、たしかにあった。
五年前まで、彼は私の未来の中にいた。
結婚とか、子どもとか、ありふれた幸福とか、そういう平凡なものを、彼となら信じてもいいと思っていた。
それなのに最後は、驚くほどあっけなく終わった。
終わらせたのは、たぶん私だった。
慎一は、少し困ったように笑った。
「久しぶり」
その声を聞いた瞬間、胸のどこかで、ずっと片づけ忘れていた小さな鈴が鳴った。
私は、なるべく平らな顔をした。
「……花、買うの」
我ながら、愛想のない言い方だった。
けれど今さら、柔らかい声など出せるはずもない。
「いや。見舞いの帰り」
彼は商店街の奥を指さした。
「あの先の病院。母さんが入院してて」
「そう」
「ちょっと長引いてる」
私はうなずいた。
そういう事情を、私は知らなかった。
知らないことがある、という事実が、なぜだか少しだけ胸に刺さる。
別れた人の生活なのだから、知らなくて当然なのに。
「元気じゃなさそうね」
「まあ、年だから」
そこで会話は途切れた。
私たちは、昔から黙ることだけは上手かった。
沈黙を共有できる相手こそ特別なのだと思っていたけれど、今にしてみれば、言うべきことを言わないまま壊れていくための、ただの便利な癖だったのかもしれない。
慎一は、コートのポケットに手を入れ、何かを取り出した。
小さな銀色の輪だった。
朝の光を受けて、ひやりと鈍く光る。
その形を見たとたん、喉の奥がひどく狭くなった。
見覚えがあった。
五年前、彼の部屋の引き出しの奥で見つけた、あの指輪だった。
私は思わず息を止めた。
慎一はそれを、店先の木箱の上にそっと置いた。
「店、何時に閉める」
「七時」
「じゃあ、そのころまた来る」
彼はそれだけ言って、行ってしまった。
私は呼び止めなかった。
指輪だけが残った。
花びらの切れ端が、輪の内側にひとつ入り込んでいる。
まるで長いあいだ、誰にも渡されないまま季節だけをくぐり抜けてきたみたいだった。
昼のあいだ、私は何度も水を替え、花束を作り、客に笑いかけた。
卒業祝いの花束を作り、送別会用のアレンジを包み、供花の相談を受け、レジを打った。
忙しければ忘れられると思った。
けれど、本当に忘れたいことほど、忙しさの隙間にぬるりと顔を出す。
慎一の部屋を出た日のことを、私ははっきり覚えている。
あの日、彼は不在で、私は合鍵で勝手に部屋に入った。
冷蔵庫には飲みかけの麦茶があり、テーブルの上には読みかけの本と、コンビニのレシートが置いてあった。
生活の匂いが、そこにはあった。
私はそういうものに、ひどく安心していた。
自分がその生活の一部になっている気がしていたからだ。
なのに、引き出しの奥の小さな箱を見つけたとき、すべてが一瞬で敵になった。
中には、華奢な指輪がひとつ入っていた。
女というものは、ああいう時だけ妙に頭が冴える。
冴えた結果、ろくなことにはならない。
私は、ああ、そうなんだ、と思った。
私ではない誰かがいるのだと。
彼が最近、少し忙しそうだったことも。
連絡が素っ気なく感じたことも。
会っていても、どこか上の空に見えたことも。
全部、その誰かのせいにしてしまった。
本当はただ、彼が仕事で疲れていただけかもしれないのに。
本当は、私の知らないところで、別のことに悩んでいただけかもしれないのに。
人は、恐れている答えを先に見つけてしまう。
そして、それが真実かどうかも確かめず、自分を守るためだけに傷つく準備をする。
あの日の私は、そうやって彼を悪者にした。
夜、帰ってきた慎一に、私は「おめでとう」とだけ言った。
彼は意味がわからないという顔をした。
その顔すら、芝居に見えた。
私は泣かなかった。
問い詰めもしなかった。
ただ、静かな顔をして、部屋を出た。
静かな顔というのは、ずいぶん残酷だ。
怒鳴るよりも、泣くよりも、相手の言葉を奪ってしまう。
彼は後ろから何か言っていた気がする。
けれど私は、振り返らなかった。
振り返れば、たぶん、真実を聞かされてしまう気がした。
そして、その真実が、もし私の早とちりだったなら、自分の愚かさに耐えられないと思った。
つまり私は、彼に傷つけられることより、自分が間違っていることのほうが怖かったのだ。
なんとも情けない話である。
七時を少し過ぎたころ、店のシャッターを半分だけ下ろしたところで、慎一は戻ってきた。
昼より少し疲れた顔をしていた。
私は黙って店の奥の丸椅子をすすめた。
慎一は座らず、しばらく立ったままで花を見ていた。
「まだ、この店で働いてるんだな」
「働いてるっていうか、継いだの」
「そうか」
「父が腰を悪くして。母も手伝えなくなって」
「似合ってる」
その一言が、妙に胸に沁みた。
好きだった人に褒められると、まだ自分のどこかが昔のままでいる気がして、少し困る。
慎一はコートの内ポケットから、一枚の写真を取り出した。
角の少し擦れた、L判の写真だった。
商店街の夏祭りの夜、店先で私が向日葵を抱えて笑っている。
浴衣でもない、仕事帰りの格好のままで、汗ばんだ顔をしていた。
愛想よく笑っているくせに、どこか不機嫌そうで、なんとも私らしい一枚だった。
「覚えてる?」
「……この日、町内会で急に花の飾り足りなくなって、店から持ち出した日」
「そう」
慎一は写真を裏返して、私に見せた。
そこに青いインクで、短い言葉が書かれていた。
――この夏が終わったら、結婚してください。
私は、すぐには意味が入ってこなかった。
目では読めるのに、頭が拒んでいる。
何度も文字をなぞって、ようやく、それが慎一の字だと気づいた。
几帳面で、少しだけ弱気な字。
昔、私の誕生日カードにも書かれていた字だった。
「写真の裏なんて、見ないだろ、普通」
慎一は、笑うような、諦めるような顔で言った。
「夏祭りの日に渡そうと思ってたんだ。指輪も、その前に買って」
私は写真を持つ手が震えるのを止められなかった。
「でもその前の日から、君の様子が変だった」
「……見たの」
「何を」
「指輪」
慎一は、一瞬だけ目を見開いた。
それから、ひどく静かな声で言った。
「引き出しの?」
私はうなずいた。
「誰か別の人のだと思った」
しばらく、店の中に水の音だけがした。
バケツの中で、どこかの茎が小さく触れ合う音だった。
慎一は、やがて、ああ、と言った。
たったそれだけだった。
責めるでもなく、呆れるでもなく、ただ、ああ、と。
その一音に、五年分の時間が、乾いた葉のように音を立てて崩れた気がした。
「聞いてくれたらよかったのに」
「うん」
「俺も、すぐ言えばよかった」
「うん」
うん、ばかりだった。
人間は、本当に大事な場面で、まともな言葉をほとんど失う。
百合の香りが、店の奥で少し強くなった。
慎一は写真を見たまま、ぽつりと言った。
「母さんがな、もう長くないらしい」
私は顔を上げた。
「病室で昔の箱を整理してたら、これが出てきたんだ。俺、あのあと全部捨てたつもりでいたのに」
「捨てたの」
「捨てたつもりだった。君とのものを持ってると、前に進めない気がして」
彼は少し笑った。
「でも、進めたかっていうと、別に立派に進めたわけでもない」
その笑い方が、昔と同じで、私は胸が痛くなった。
慎一は、昔から、苦しい時ほど少しだけ笑う人だった。
「結婚は?」
訊いてから、私は自分の愚かさに気づいた。
そんなことを訊く資格が、今さらどこにあるのか。
けれど慎一は気にしたふうもなく、首を振った。
「しなかった」
「そう」
「君は?」
「してない」
「そっか」
それだけの会話だった。
たったそれだけなのに、その中に五年分の空白が音もなく横たわっていた。
私は写真を見つめた。
若い私は、何も知らずに笑っている。
自分がこの人と別れることも。
その理由の大半が、自分の臆病さと勘違いだということも。
知らない顔は無邪気で、少しだけ憎らしく、そしてどうしようもなく愛おしかった。
「返そうと思ってた」
慎一が言った。
「指輪も、写真も。持ってても仕方ないから」
私は木箱の上の指輪に目をやった。
あの頃は、それが未来そのものに見えたはずだ。
けれど今、そこにあるのは未来ではなく、渡され損ねた時間の固まりだった。
「じゃあ、手放せばいいじゃない」
私は言った。
慎一は少し驚いた顔をした。
「いいのか」
「いい」
私は指輪をつまみ、そっと彼の手のひらに戻した。
「今の私がこれを持ってたら、昔の自分を慰めるための道具にしてしまうから」
「慰めたっていいだろ」
「だめ。あの頃の私は、ちゃんと痛い目を見たほうがいい」
慎一が、ふっと笑った。
「厳しいな」
「自分には昔から厳しいの。たぶん、他人より」
本当は逆だった。
私は自分に甘いから、傷つく前に逃げた。
でも、今くらいは少し正直になってもいい気がした。
「ごめん」
私は言った。
慎一は首を振った。
「俺も悪かった。言葉が足りなかった」
「足りなすぎた」
「うん。かなり」
少しだけ笑い合った。
その笑い方は、恋人のそれではなく、長い迷子の末にようやく出口の看板を見つけた人同士のようだった。
店の外では、商店街の店じまいの音がしていた。
シャッターの降りる音。
遠くで自転車のベル。
惣菜屋の油の匂い。
夜は、何も知らない顔でいつものように来る。
「花、持っていく?」
私は訊いた。
「お母さんに」
慎一は、少し考えてからうなずいた。
「何がいい」
「ラナンキュラス」
「理由は」
「春の終わりに似合うから」
「花屋っぽいな」
「本職ですから」
私は淡いクリーム色と、薄い桃色を混ぜて、小さな花束を作った。
派手ではないけれど、やわらかく光るような花束だった。
母親という存在に似合う花を、私はずっと考えながら束ねていた。
包み紙の上から慎一に渡すとき、彼の指が私の指先に少し触れた。
昔なら、そのぬくもりに未来を見ただろう。
今は見ない。
見ないけれど、たしかに温かかった。
それだけで、十分な気がした。
慎一は花束を抱え、店を出る前に一度だけ振り返った。
「ありがとう」
「こちらこそ」
何に対しての、かは言わなかった。
言わないほうが、本当のこともある。
慎一が去ったあと、私はしばらく店の中に立ち尽くしていた。
手元には写真だけが残った。
裏返せば、あの言葉がある。
――この夏が終わったら、結婚してください。
甘い言葉のはずなのに、今の私に残ったのは甘さではなかった。
渡せなかった言葉を、それでも書いていた人がいた、という事実だった。
人は、うまく愛せない。
勘違いもする。
黙りこむ。
肝心なところで逃げる。
相手を信じきれないまま、自分の想像だけで壊してしまうこともある。
けれど、うまくできなかったからといって、そこに愛がなかったことにはならないのだと思う。
私は写真をエプロンのポケットにしまった。
指輪は手放した。
けれど、写真だけは残した。
未練としてではなく、証拠として。
あのとき、たしかに私は愛されていたのだという、小さな証拠として。
店の灯りを消し、シャッターを下ろす。
商店街の夜道には、昼の匂いの名残がまだ少しだけ残っていた。
明日もまた、祝う花と、謝る花と、別れる花が、同じ水を飲むのだろう。
そして私は、今日より少しだけましな顔で、それを見ていられる気がした。
手放したものは、消えるのではない。
手の中で形を変えて、静かに残る。
たとえば、指輪は戻っていったけれど。
あの春の夜、私の胸には、ようやくひとつの救いが残った。
取り戻せなかった恋ではなく。
取り違えたままだった真実を、ちゃんと真実として受け取れたこと。
それだけで、人は少し先の季節を生きていける。
私はそう信じて、店の鍵を閉めた。



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