泣ける話

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駅の倉庫で見つかった祖父の靴が、私を泣かせた話

祖父の靴が、終電のあとに見つかった。駅の倉庫の、いちばん奥。濡れた段ボールの中で、片方だけ、泥を乾かした顔をしていた。「野口くん、これ……君んちのじゃないか」そう言われた瞬間、革の匂いで、喪服の夜が戻ってきた。棺に入れるはずだった靴だ。入れ...
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亡くなった父の古い携帯を開いたら、最後の録音が入っていた

父の訃報を受けたのは、配達の途中だった。 海沿いの古い町で、私は軽バンを路肩に寄せ、ハザードをつけたまま、しばらくハンドルを握っていた。 スマホの画面には、妹の短い文面が光っていた。 ――お父さん、朝、だめだった。来られる? 
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「いい顔になったな」の意味を、私は知らなかった。

商店街の朝は、いつだって少し早すぎます。八時前だというのに、魚屋はもう氷を打つ音を響かせ、豆腐屋は白い湯気を吐き、向かいの惣菜屋のおばさんは、まだ半分しか開いていないシャッターの内側で、誰かと笑っています。私はその中を、保育園へ向かうために毎朝歩きます。園に着くころには、もう一日ぶんの気配を吸い込んでしまっている町です。商店街の真ん中あたりに、小さな文房具屋がありました。――ありました、という言い方になるのは、いまはもう店が閉まってしまって、少し傾いた看板だけが残っているからです。
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夜勤明けの介護士が見つけた、母の弁当メモの話

夜勤明けの朝というものは、どうしてあんなに人を薄くするのでしょうね。骨だけで歩いているみたいな気がします。腹は減っているのに、食べる気力がない。眠いのに、眠るまでが遠い。私は介護士で、もう十年ちかく同じ施設に勤めていますが、いまだに夜勤明けの自分には慣れません。あれは人間というより、使い終わった雑巾に近い。
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「先生の“めも”で、もう一度歩き出した」

商店街の朝は、いつも同じ匂いがする。揚げ物の油、豆腐屋の湯気、魚屋の氷。私が勤める保育園は、その端っこにあって、通園バッグを抱えた子どもたちが、八百屋の前の段差を跳びこえるのが日課みたいになっている。私がここで働くようになったのは、ひとつだ...
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空っぽの鍋を、駅に置いた日

駅員になって三年目の冬、僕は「ルール」の中で息をしていた。改札は止めるな。ホームには入れるな。非常時以外、私情を持ち込むな。それが制服の内側に縫い付けられた戒めみたいで、顔は笑っていても心はいつも少し硬かった。祖母が駅に来るようになったのは、僕がこの駅に配属されてからだ。最初は偶然だと思った。小さな肩、背筋だけは妙にまっすぐで、鍋を抱える姿がやけに目立つ。鍋、と言っても台所のそれじゃない。古いアルミの、取っ手の黒いところだけ擦れて光っている、小さな鍋。毛糸の巾着みたいな布で包んで、いつも胸の前に持っている。
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「生姜焼きの匂いで、父に戻る」

富山の冬は、海の匂いを鉄に混ぜて肺に落とす。朝五時半、工場のシャッターの向こうで機械が唸り、靴底が濡れたアスファルトをきゅっと鳴らした。 そのときスマホが震える。画面には「親父」。 俺は、出ない。——出られない。 留守電を再生すると、怒鳴り声じゃない低い声が一言だけ落ちてきた。「おまえは、逃げてばっかやな」 そして次の瞬間、母から“入院”の文字が届く。
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「卵焼きがほどく、言えなかったごめん」

富山の冬は、立山と青空が目に映る。駅を出た瞬間、湿った冷気が頬に貼りつき、路面電車のベルがちりん、と鳴った。 転勤——そう言えば聞こえはいいが、俺は逃げ帰ってきた。 そして今日、会いたくなかった友人から「渡すもんがある」と呼び出されている。 あいつの“渡すもん”は、だいたい食い物だ。 なのに胸がざわつくのは、そこに俺の過去が混ざっているからだ。 ——卵焼きの匂いがしたら、俺はもう戻れない。
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「潮の匂いが、謝れない言葉をほどく」

潮の匂いは、傷口みたいに開く。 転勤で戻った海辺の駅、改札を抜けた瞬間、胸の奥が鈍く鳴った。 五年前、俺はここで元恋人を泣かせた。 泣かせた、という言い方は卑怯だ。正しくは——泣いているのを見て、何もしなかった。人事の挨拶回りの途中、同僚が...
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「父の声が消えない」

ごす、ごす」と雪を踏む足音だけが聞こえる。 今朝、配達車の荷台から「きゅ」と短い鳴き声みたいな音がして、背中が冷えた。 誰も触っていないはずの荷物が、わずかにずれている。 伝票の宛名は、昨日まで空欄だった“父の部屋”。 そして差出人欄には、見慣れた父の字——いや、父の字に似せた、ゆっくりとした筆圧の文字があった。「……俺が届けるんだぞ、これ」 吐いた息が白くほどけ、荷台の冷気が肺の奥まで刺さる。段ボールは乾いて硬い。角に触れた手袋が、ざらりと鳴った。