保育園の朝は、たいてい連絡帳から始まる。
登園してきた子どもの靴をそろえ、泣いている子を抱き上げ、まだ眠そうな顔をしている子の手を引きながら、私は保護者から連絡帳を受け取る。
夜中に咳が出ました。
朝は少し機嫌が悪いです。
昨日、帰ってから熱を測ったら三十七度二分でした。
そういう小さな報告の一つひとつで、その日の保育は少しずつ形を変える。
私は保育士になって六年になる。
長いのか短いのか、自分でもよくわからない。
向いているのかと聞かれたら、まだうまく頷けない。
子どもは好きだ。
だが、好きだというだけで務まる仕事ではないことも知っている。
笑っていればいいわけでも、やさしくしていればいいわけでもない。
眠れていない親の目の下の色や、いつも元気な子の、ほんの少し遅い返事や、泣かない子が泣かないまま黙っていることに気づく。
そういう地味な注意の積み重ねで、どうにか一日ができている。
私は昔から、気をまわしすぎる癖がある。
やさしい、と言えば聞こえはいい。
けれど実際は、先回りして相手の気持ちを想像し、その想像の中で勝手に疲れてしまうだけの、少し面倒くさい性分である。
祖父は、そのことをよく知っていた。
知っていて、よく笑った。
「おまえは、人の傘まで持って歩こうとする」
と、昔から言っていた。
祖父は郵便配達員だった。
山のほうの町を長く歩き、そのあと小さな文房具店をやった。
歩くのがゆっくりで、字がきれいで、怒るときほど声が低くなる人だった。
私が子どものころ、母は介護の仕事で夜勤が多く、送り迎えを祖父がよく手伝ってくれた。
そのころ、保育園の連絡帳を書くのも祖父だった。
朝、食卓の隅で、祖父は万年筆を持ち、少し首を傾けながら静かな字を書いた。
少し鼻水があります。
朝は納豆ごはんをよく食べました。
昨夜、夢を見たようで一度起きました。
それだけだった。
余計なことは書かない。
母が夜勤続きで疲れていたことも、私が朝ぐずって泣いたことも、祖父は必要以上には書かなかった。
先生たちは、よく「おじいちゃんの字、きれいですね」と笑った。
私はそれが少し誇らしく、少し照れくさかった。
ある朝、私は祖父に聞いたことがある。
「もっといっぱい書かなくていいの」
祖父は私の髪をざっととかしながら言った。
「いっぱい書いたら、見る人が困る」
「でも、いっぱい言ったほうが親切じゃない?」
祖父はそこで少し笑った。
「親切が多すぎると、どこを見たらいいかわからなくなる」
当時の私は、その意味がよくわからなかった。
いま思えば、祖父は連絡帳のことだけを言っていたのではないのだろう。
祖父は、必要な分だけ手を出す人だった。
私が転んでも、すぐには抱き上げなかった。
泣きながらこちらを見て、本当に立てないとわかったときだけ、手を貸した。
私はそれが不満だった。
どうしてもっと早く助けてくれないのだろう、と。
けれど祖父はいつも言った。
「おまえ、自分で立てる顔してるぞ」
その言い方が、私は少し好きだったし、少し腹立たしかった。
好きなのに腹が立つ、というのは、たぶん相手の言うことが半分は当たっているときだ。
私は大人になっても、その癖を持ち続けた。
相手が困る前に動く。
泣く前に声をかける。
言いよどむ前にこちらが埋める。
それは一見、気が利くように見える。
けれど、先回りというものは、しばしば相手の時間を奪う。
私はそのことに、ずっと気づかないふりをしていた。
祖父が七十八になったころ、足腰が少し弱ってきた。
それでも一人暮らしを続けていた。
私は心配だった。
いや、心配だったのは本当だが、それ以上に、心配している自分に酔っていたのかもしれない。
仕事の合間に何度も電話をし、買い物は私がすると言い、通院も付き添うと言い、家の中の段差は危ないから片づけようとし、冷蔵庫の中身まで勝手に確認した。
祖父は最初、何も言わなかった。
けれど秋の終わり、私が傷みかけた野菜を勝手に捨て、惣菜を小分けして日付まで書いたとき、祖父はぽつりと言った。
「おまえは、わしを年寄りにしすぎる」
私はその言葉に、ひどく傷ついた。
「心配してるだけだよ」
「そうだろうな」
「じゃあ、いいじゃない」
祖父はそこで黙った。
その沈黙が、私には拒絶みたいに思えた。
ほんとうは違ったのかもしれない。
けれどそのときの私は、自分の善意だけを見ていた。
「もう少し、ありがたがってくれてもいいのに」
そう思ったことすら覚えている。
いま考えると、ずいぶん醜い。
祖父は私の親切が重たいと言ったのではない。
私が祖父の暮らしから、祖父自身の手を奪いかけていることを、静かに言っただけだったのだろう。
けれど私は、そのひと言をうまく受け取れなかった。
それきり電話の回数は減った。
会いに行くのも、月に何度かが、やがて月に一度になった。
忙しかったのも本当だ。
発表会の準備があり、新年度前で書類も多く、クラスの子どもたちは落ち着かず、私は毎日、連絡帳と保育日誌と持ち帰りの壁面作りに追われていた。
忙しさというのは便利な言葉である。
会いに行かなかった理由を、立派なものに見せてくれる。
冬の終わり、祖父は倒れた。
脳梗塞だった。
命は助かったが、右手が少し不自由になり、言葉も以前のようには出なくなった。
面会制限のある時期で、私は病室のガラス越しに祖父を見るしかなかった。
祖父は私を見ると、小さく手を上げた。
私はそのたび泣きそうになったが、泣かなかった。
泣けば、会いに来なかった日々まで一緒にあふれてしまいそうだったからだ。
退院後、祖父は施設に入った。
私は何度か顔を出したが、以前みたいには話せなかった。
祖父も多くは喋らなかった。
ただ、私の胸元についた名札を見て、かすれた声で言った。
「先生」
それだけだった。
私はそのたび、胸の奥をつねられるような気がした。
先生、と呼ばれるたび、自分がそんな立派な人間ではないことを知らされる気がした。
祖父が亡くなったのは、春のはじめだった。
桜がまだ咲ききらない、風の冷たい朝だった。
私は保育園で子どもたちに上履きを履かせている最中に連絡を受けた。
けれど、その日は泣く暇もなく一日が過ぎた。
子どもは待ってくれない。
おしっこ、と呼ばれ、先生みて、と袖を引かれ、積み木が壊れたと泣かれる。
私は笑って、拭いて、抱いて、連絡帳を書いた。
帰宅してから、ようやく声もなく泣いた。
葬儀のあと、叔母が小さな段ボールを渡してくれた。
「これ、あんたにだって」
中には祖父の万年筆、古い眼鏡ケース、何冊かのノート。
そしていちばん下に、見覚えのある薄い黄色の冊子があった。
私が子どものころ使っていた、保育園の連絡帳だった。
なぜそんなものを、祖父がまだ持っていたのかわからなかった。
私は自分の部屋で、それを開いた。
懐かしい丸い判子。
先生の短いコメント。
拙い私の絵。
そして祖父の、あの静かな字。
ページをめくるうち、途中から、見覚えのない書き込みが増えていることに気づいた。
先生へ渡した記録とは別に、余白へ小さく、祖父が何かを書き足していたのだ。
今日は朝、機嫌が悪かったが、園では笑ってくれるといい。
母さん、夜勤続きで疲れて見えた。これは書かない。
真紀は気にしすぎる。たぶん大人になってもそうだろう。
私は思わず手を止めた。
祖父はあのころから、私の性分を見抜いていたらしい。
見抜いていて、それでもそれを先生には渡さなかった。
必要なことだけを書き、必要でない心配は、自分の中で引き受けていたのだ。
さらにページをめくる。
今日、先生に「少し元気がない」と言われた。気づいてもらえてありがたい。
伝えすぎると、見る人が疲れる。真紀はたぶん、全部伝えたくなる子だ。
見守るとは、何もしないことではなく、相手が自分で立てるだけの余白を残すこと。
私はそこで、息を止めた。
ああ、と思った。
祖父はずっとそれを言いたかったのだ。
心配するな、ではない。
助けるな、でもない。
ただ、相手が自分で立つ余白まで奪うな、と。
私は祖父が倒れてからのことを思い出していた。
毎日のように電話をし、食事を記録し、冷蔵庫を片づけ、薬を並べ、買い物リストを作り、勝手に「してあげる側」に立っていた自分を。
祖父は、支配されるような親切を嫌っていたのだろう。
それなのに私は、心配という名前で、祖父の暮らしの余白をどんどん埋めていた。
連絡帳の最後のほう、卒園の近いページに、四つ折りの紙が挟まっていた。
開くと、祖父の字でこう書いてあった。
真紀へ
これは渡すつもりはなかったが、残しておく。
それだけで、もう胸が苦しかった。
メモは短かった。
おまえはやさしい。
だが、やさしい人間ほど、相手の分まで抱えすぎる。
抱えすぎると、相手の手が空かなくなる。
子どもも、年寄りも、ほんとうは自分でやりたいことがある。
それを待つのも世話のうちだ。
私はそこで泣きはじめていた。
祖父は知っていたのだ。
私が保育士になってからも、同じ失敗をしていたことを。
子どもの転びそうな足を先回りして止めてしまう。
親が言いよどむ前にこちらが埋めてしまう。
泣ききる前に「だいじょうぶ」と抱いてしまう。
それは全部、気遣いの顔をしていた。
けれど、ほんとうは私が不安に耐えられないだけだったのかもしれない。
相手が困っている時間を見ていられない。
待つあいだ、自分が無力に見えるのが嫌だ。
だから手を出す。
助けているようでいて、自分を守っている。
そのことを、祖父はずっと静かに見ていたのだろう。
メモの最後に、こうあった。
見守るというのは、冷たいことではない。
助けたい手を、一度ひざの上に置いて待つことだ。
おまえなら、その難しさがわかる。
私は連絡帳を抱えたまま、しばらく泣いた。
祖父は私を拒んだのではなかった。
「年寄りにしすぎるな」と言ったあのひと言は、私の親切を跳ね返したのではなく、私自身の不安の持ち方を、静かにたしなめた言葉だったのだ。
それを私は、自分の善意を否定されたみたいに受け取ってしまった。
いつだってそうだ。
私は自分のやさしさに酔っているときほど、相手をちゃんと見ていない。
翌週、保育園で、年中の男の子が靴を履けずに泣いていた。
以前の私なら、すぐ膝をついて履かせていたと思う。
遅れるし、ほかの子も待っているし、何より泣かれると胸がざわつくからだ。
けれど私は、一度だけ手を止めた。
「やってみる?」
その子はしゃくりあげながら頷いた。
私は隣に座ったまま、手を出さずに見ていた。
かかとは少し折れた。
マジックテープも曲がった。
それでもその子は、ずいぶん時間をかけて、自分で履いた。
履き終えたあと、得意そうでもなく、ただほっとした顔で私を見た。
その顔が、なぜだか祖父に少し似て見えた。
私は笑って、
「履けたね」
と言った。
それだけでよかった。
その日の連絡帳に、私はこう書いた。
今日は自分で靴を履こうとがんばっていました。少し時間はかかりましたが、最後までやりきれました。
書いてから、ふと祖父の字を思い出した。
必要なことだけを、静かに書く字。
帰りの更衣室で、私は祖父の連絡帳を鞄にしまい直した。
もう先生へ渡されることのない帳面だ。
けれど、その余白には、いまの私への言葉がまだ残っている気がした。
保育園の夕方は、朝より少しだけやさしい。
泣いていた子が笑い、走っていた子が眠そうになり、親を待つあいだの教室には、昼間より低い声が流れる。
私は窓のそばで、最後の一人を待つ子の背中を見ていた。
すぐに声をかけたい気持ちを、今日は少しだけひざの上に置いてみる。
その子はしばらく自分の指を見つめ、それから小さく鼻をすすって、自分で椅子に座り直した。
それを見て、私は胸の奥で、ほんの少しだけ祖父にうなずかれた気がした。
見守るとは、たぶん、相手を信じることだ。
そして信じるとは、手を出さない勇気を持つことでもある。
私は明日もまた連絡帳を書く。
書きすぎず、足りなさすぎず、その子の今日がちゃんと伝わるくらいに。
そうしてたぶん、祖父から教わったやさしさを、少しずつ、遅れて受け取り直していくのだと思う。



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