離島の夜は、思っているより静かではない。
波の音があるし、風があるし、港に繋がれた船が、眠りの浅い獣みたいに時々きしむ。
それに加えて、民宿というものは、消灯したあとも意外と気配をやめない。
廊下のきしみ、洗面所の蛇口、二階で寝返りを打つ客の布団の音、どこかの部屋で閉め損ねた窓が、風に押されてかすかに鳴る気配。
そういう小さな生活の残り香が、夜更けまで建物のどこかで薄く続いている。
私はその感じが、少し好きだった。
完全にひとりにならずに済むくせに、誰にも話しかけられない時間だからである。
人は時々、孤独そのものより、孤独に見えることのほうを怖がる。
私もたぶん、そういう種類の人間だった。
島の民宿で働いて、三年になる。
客室の掃除、夕食の配膳、港への送迎、予約の電話、たまに釣った魚の重さに感心する係まで、だいたい何でもやる。
忙しい仕事だが、都会の忙しさとは少し違う。
ここでは船の時間と天気が、人間の都合より少しだけ強い。
欠航になれば客は来ないし、海が荒れれば予定は崩れる。
台風が近づけば買い出しの船が止まり、朝食の卵の数まで空の機嫌で決まる。
そういう不便さのなかにいると、どうにもならないことを、どうにもならないまま受け取る癖が、少しずつついてくる。
私は、そういう癖を身につけたくて、この島へ来たのかもしれない。
いや、身につけたくて、というのは少しきれいすぎる。
本当は、持て余したものを、海の近くへ置きに来ただけなのだろう。
持て余していたのは、元恋人のことだった。
真帆と別れたのは、もう四年前になる。
東京で同棲していた。
私が接客業で夜遅く、真帆が広告の仕事で朝から晩まで忙しく、二人とも疲れていて、そのくせ、自分の疲れのほうが少し重いと思い込んでいた。
喧嘩の理由は、今となっては曖昧である。
洗濯物の干し方だった気もするし、食器を流しへ置くタイミングだった気もするし、連絡の頻度だった気もする。
だが、つまるところは、言い方だったのだろう。
どちらも、やさしさのある言葉を知っていたくせに、疲れると、それを使わなかった。
最後にひどいことを言ったのは、たぶん私だった。
「そんなに寂しいなら、俺じゃない誰かといたほうがいいんじゃない」
言った瞬間、取り消したくなった。
けれど言葉というものは、こちらの後悔よりいつも足が速い。
真帆は少し黙って、それから、
「そうかもしれないね」
と言った。
あの時の声を、私は今でも時々思い出す。
怒っていたのではない。
むしろ、怒るところを通り過ぎて、静かに冷えていた。
ああいう冷え方をさせたのは、たぶん私だ。
別れたあと、私は一度もちゃんと謝らなかった。
LINEは何度も打った。
打っては消し、消してはまた打った。
ごめん、も違う気がしたし、元気? は論外だった。
会いたい、などと書ける立場でもなかった。
いまさら何を言っても、自分を少し楽にしたいだけに見えるだろうと思った。
実際、その通りだったのかもしれない。
結局どれも送れず、下書きだけが古い携帯の中に溜まっていった。
古い携帯、というのは、スマホに変える前の端末ではない。
真帆と付き合っていた頃に使っていた、ひとつ前のスマホを、私は解約後も捨てずに持っていたのである。
画面の端は少し割れ、充電もすぐ減る。
ケースは黄ばんで、ストラップの金具だけが、使われない時間のせいでやけに光っていた。
けれど、そこには当時のLINEの履歴が、圏外の標本みたいに残っていた。
新しい通知は来ない。
時間だけが、あの頃のまま薄く沈殿している。
島へ来る時、それを鞄に入れた。
忘れたかったのか、忘れたくなかったのか、自分でもよくわからない。
人は手放せないものほど、荷造りのいちばん奥へ押し込む。
民宿の仕事が終わると、私は時々、その古い携帯を開いた。
真帆との最後のやりとりは短い。
生活用品の引き取り日程と、鍵を郵送したことと、それから、「体に気をつけて」という、誰にでも言える最後の一文。
その画面の下に、送られなかった私の文章が、下書きとしていくつも眠っていた。
あの言い方は違った。
ほんとうは、寂しいのは私のほうだった。
そっちの新しい生活を壊したいわけじゃない。
ただ、謝りたかった。
どれも途中で止まっていて、どれも妙にみっともなかった。
みっともないくせに、消せなかった。
未練というものは、熱ではなく、こういう半端な文章の形で残ることがある。
ある秋の終わり、島に大きな台風が近づいた。
観光客はみな前の便で引き上げ、民宿にはキャンセルの電話が何本も入った。
窓を板で補強し、植木鉢を片づけ、食材を無駄にしないよう献立を変えて、夜には宿の主人夫婦も早く寝た。
船の欠航が決まった港は、昼のうちから妙に静かで、売店のシャッターが早々に下り、島の猫だけがいつも通り堤防を歩いていた。
私はひとり、台所の隅で古い携帯を充電していた。
停電になる前に、なぜそんなことをしたのか、自分でもよくわからない。
台風の夜に守るべきものは、もっと別にあるだろうに。
だが、外が荒れる夜ほど、人は内側の古いものを確かめたくなるのかもしれない。
風が雨戸を叩くなか、私はまた下書きを開いた。
いちばん新しいものは、半年前の日付だった。
この島は、夜になると波の音が近い。
君ならたぶん、うるさいと言う。
そこまで書いて止まっている。
その少し前の下書きには、
宿の客が、海は毎日見ても飽きないんですかと聞いた。
飽きる前に、見慣れる、と答えた。
君なら、その答えはずるいと言うだろう。
とあった。
私はそれを見て、思わず笑った。
こんなものを送ったところで、どうなるというのだろう。
返事が来ても困るし、来なくても困る。
つまり私は、つながりたいのではなく、つながれなかった自分をずっと眺めていただけなのだ。
外では、風がひときわ強くなった。
次の瞬間、宿の灯りがふっと消えた。
停電だった。
非常灯だけが、廊下を薄く緑に照らした。
冷蔵庫の唸りが止むと、建物は急に、海の中に浮いた箱みたいに心細くなる。
私は古い携帯の明かりを頼りに立ち上がり、懐中電灯を探しに帳場へ向かった。
その途中で、足元に何か落ちた。
古い携帯だった。
手から滑ったのだ。
床にぶつかって、裏蓋が外れ、バッテリーがころがった。
私はしゃがみ込み、暗がりの中でそれを拾い集めた。
画面には細いひびがもう一本増えていた。
それを見た瞬間、妙にあっけなく思えた。
四年も抱えていたものが、たった一度落としただけで、こんなふうに壊れるのか、と。
けれど、壊れたのは携帯だけではなかったのだろう。
私はその場に座り込んで、しばらく波の音を聞いていた。
真帆はもう、とっくに別の季節を生きているはずである。
結婚したかもしれないし、していないかもしれない。
子どもがいるかもしれないし、都会を離れているかもしれない。
何ひとつ知らない。
それでいいのだと思った。
知らないまま、相手の人生がちゃんと続いていると想像できるなら、たぶん、それで十分なのだ。
手放すというのは、忘れることではない。
もう自分の言葉で追いかけない、と決めることなのかもしれない。
私は下書きをひとつずつ開き、消した。
ごめん、も。
元気? も。
この島は、夜になると波の音が近い、も。
全部、消した。
削除の表示が出るたび、胸の奥が少しずつ静かになった。
楽になったわけではない。
ただ、長く握りしめて痺れていた手を、ようやく開いた感じに近かった。
最後の下書きを消したあと、私は真っ暗な窓に向かって、小さく頭を下げた。
誰に対してなのか、自分でもよくわからない。
真帆にかもしれないし、あの頃のどうしようもなく未熟な私にかもしれない。
どちらにしても、ようやく言えた別れだった。
台風は明け方には少し弱まった。
翌朝、港へ出ると、海はまだ濁っていたが、空だけは不自然なくらい青かった。
流木や発泡スチロールが岸へ寄り、昨日まで整っていたものが、そこかしこで少しずつ位置を変えていた。
宿の主人が壊れた看板を直しながら、
「いろいろ飛ばされたな」
と言った。
私は、
「そうですね」
と答えた。
それ以上、余計なことは言わなかった。
言わなくても、たぶん少しは伝わる朝だった。
その日の午後、私は町の電器屋へ行って、古い携帯を処分してもらった。
店主は、こんな古いの、まだ持ってたの、と笑った。
私は笑い返して、
「なんとなくです」
と言った。
なんとなく、で持ち続けていたには、少し長すぎる時間だったけれど。
店主は手際よくデータ消去の手順を説明し、私は最後の確認画面で、ほんの少しだけ指を止めた。
それから、はい、と押した。
帰り道、港の脇を歩いていると、風の抜けたあとの空がやけに高かった。
私はポケットの軽さに、少しだけ戸惑った。
失くしたのではない。
自分で手放したのだ。
なのに、なくなった場所ばかりが妙にはっきりする。
人はたぶん、前へ進む時も、少しは喪失の形をしている。
その夜、宿にはキャンセルの穴を埋めるように、ふらりと一人の客が来た。
予約サイトの不具合で部屋が取れなかったらしい。
私は帳場で受け付けをしながら、いつもの説明をした。
風呂の時間、夕食の場所、朝の船の時刻。
客は若い女性で、チェックインのあと、海はどこから見えますか、と訊いた。
私は宿の裏手の坂を教えかけて、それから少し考え、
「もし夕方なら、港の防波堤がきれいです」
と言った。
「今日は、海がすごく明るいので」
言ってから、私は自分の声が少しやわらかいことに気づいた。
たぶん、もう大丈夫なのだろう。
忘れたわけではない。
思い出しても、追いかけなくて済むようになっただけだ。
夜、仕事を終えて外へ出ると、島の風はもう台風の名残をほとんど持っていなかった。
港の先で、波が静かにひかっている。
私はしばらくそれを見ていた。
誰にも連絡しなくていい夜だった。
誰かを待たなくていい夜でもあった。
その静けさの中で、ようやく私は、あの恋を手放したのだと思った。
手放したからといって、無かったことにはならない。
むしろ、ちゃんとあったものとして、海の向こうへ置き直せた気がした。
そしてそれは、思っていたより、少し救いに似ていた。


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