姉がいなくなってから、商店街の朝は妙に広くなった。
いなくなった、という言い方は少し大げさかもしれない。
死んだわけでもなければ、夜逃げしたわけでもない。
ただ、毎朝そこにいた人が、ある日から店に立たなくなった。
それだけのことで、シャッターを上げたときに流れこむ空気の量まで変わってしまうのだから、人の不在というものは、案外ばかにならない。
花屋の朝は早い。
アーケードの電気がまだ半分しか点いていないうちに店へ入り、前日のバケツの水を流し、冷えた床に散った葉を掃く。
水切りばさみの刃を布で拭く。
段ボールの底で湿った新聞紙をめくる。
花の茎を少し切って、新しい水を吸わせる。
そういう細々したことをやっているうちに、町はようやく目を覚ます。
豆腐屋が暖簾を出し、パン屋の窯の匂いが流れ、向かいの薬局の自動ドアが、まだ客もいないのにむだに愛想よく開く。
私はその商店街の角にある、小さな花屋で働いている。
働いている、というと少し立派すぎる。
本当は姉の店で、私はそこに転がりこんだだけだ。
勤めていた会社を辞め、つき合っていた男にも逃げられ、みっともない荷物だけ抱えて実家へ戻った私に、姉は「花ぐらい運べるでしょ」と言った。
慰めるでもなく、説教するでもなく、ただそう言った。
姉は昔から、優しさを優しい形で渡すのが下手な人だった。
言葉はぶっきらぼうで、顔つきもきつい。
客から「お姉さん、怖いねえ」と笑われても、「そうですか」としか返さない。
けれど、閉店後に売れ残った花束を近所のひとり暮らしの家の前へそっと置いてきたり、雨の中で荷物を落とした八百屋の息子を黙って手伝ったりするのを、私は何度も見てきた。
そういう人だった。
そういう人だったのに、私は最後まで、その不器用さをちゃんと読めなかった。
店の奥の棚に、白いマグカップがある。
持ち手の根元から細いひびが走り、縁も少し欠けている。
客に出せるようなものではないし、見た目だけなら捨てたほうが早い。
でも姉は、それを捨てなかった。
朝の仕入れを終えて戻ると、必ずそのマグカップにコーヒーを注ぎ、レジ横の小さな台に置いた。
冬は湯気が立ち、夏は氷がからりと鳴った。
忙しい朝でも、姉はそのカップを手に、ほんの一口だけ飲んだ。
「新しいの買えばいいのに」
昔、私がそう言ったことがある。
「これでいいの」
姉は振り向きもしなかった。
「ひび、入ってるじゃん」
「だから、こぼれないように丁寧に持つでしょ」
その言い方が、当時の私には少し癪にさわった。
丁寧に、というのは姉の口癖だった。
花も。
客も。
約束も。
丁寧に扱いなさい、とよく言っていた。
私はそのたび、そんなに上手に生きられる人ばかりじゃないよ、と心の中で悪態をついた。
私は昔から、姉にだけは妙に反発してしまうところがあった。
母に叱られるより、姉に黙って見られるほうがつらかった。
たぶん姉は、私の言い訳や甘えを、正確に見抜いてしまう人だったからだ。
中学のころ、テストの点が悪くて私が机に突っ伏していたときも、姉は「次はもう少し早く勉強しな」としか言わなかった。
高校を出て最初の職場を辞めたときも、「辞めるのはいいけど、次どうするの」とだけ訊いた。
その冷たさが嫌だった。
でも今になれば、姉は私を甘やかさなかっただけなのだと思う。
泣いている相手を、いっしょに泣いて慰める人ではなかった。
泣くなら泣けばいい、そのあと立つなら立て、という人だった。
去年の秋、姉は突然、店をしばらく休むと言い出した。
朝の仕入れから戻って、トルコキキョウの水を替えている最中だった。
商店街には古い演歌が流れ、アーケードの天井には前日の雨の名残が鈍く光っていた。
なんでもない朝だった。
だから、その言葉だけがひどく浮いた。
「少し、休むから」
「は?」
「店、あんた回して」
私は思わず笑ってしまった。
笑うしかなかった。
「無理に決まってるでしょ」
「無理じゃないように、今まで教えた」
「なんで急にそんなこと言うの」
姉は、バケツの中のカーネーションの向きをまっすぐ直しながら、「用事」とだけ言った。
その顔が、あまりにいつもどおりで、私は余計に腹が立った。
大事な話をする人の顔ではなかった。
困っているとか、頼っているとか、せめて少し申し訳なさそうにするとか、そういう気配があってもよかったのに。
姉はまるで、明日の天気でも告げるみたいな声だった。
「勝手だね」
口から先に出た。
姉の手が、一瞬だけ止まった。
でも、それだけだった。
「そう思うなら、それでいい」
その返し方が、また私を傷つけた。
言い方、というのは不思議である。
内容より先に、刃だけが届くことがある。
私はその瞬間、この人は結局いつもそうだ、と思いこんだ。
自分の都合で私を使って、肝心なことは何も言わない。
思いこむと、人間はずいぶん簡単に冷たくなれる。
「もう好きにすれば」
私はエプロンを外して、バックヤードに引っこんだ。
花の段ボールのにおいと、濡れた新聞紙のにおいがしていた。
悔しいのか、腹が立っているのか、自分でもわからなかった。
ただ、胸のあたりがひどくざらざらしていた。
その日、姉は夕方までいつもどおり店に立っていた。
年配の客に菊を包み、若い母親に小さな花束を作り、中学生の男の子が一本だけバラを買うのを見て、少しだけ口元をゆるめていた。
私はその横顔を、ほとんど見ないようにしていた。
閉店後、姉はひびの入ったマグカップを流しで洗い、水切りかごに伏せてから、「じゃあね」と言った。
その「じゃあね」が、最後だった。
翌日から、姉は本当に来なくなった。
商店街の人たちは好き勝手なことを言った。
「お姉さんどうしたの」
「喧嘩した?」
「彼氏でもできたんじゃないの」
私は「体調を崩してるだけです」と答えた。
その言葉を口にするたび、胸のどこかがちくりとした。
本当は、ただの体調不良であってほしかったのだと思う。
気まぐれでもいい。
少し休めば戻るような話であってほしかった。
大きな事情があったのだと認めてしまうと、自分のあの言葉が、あまりに薄っぺらく聞こえてしまうから。
姉がいなくなって三週間ほどしたころ、私は店の奥の棚を整理していて、小さなブリキ缶を落とした。
ドライフラワー用のリボンや、値札のタグや、使いかけの麻紐が入った缶だった。
床に散らばった紙片を拾っていると、その底に一通の封筒が張りつくように入っていた。
私の名前が書いてあった。
見覚えのある、少し右上がりの字だった。
私はしばらく、それを開けられなかった。
店の前では小学生が笑いながら通り過ぎ、隣の惣菜屋から揚げ物の匂いが流れてきた。
世界は腹が立つほど平常で、その平常さが余計に残酷だった。
ようやく便箋を広げると、姉はこんなふうに書いていた。
春子へ
たぶん、面と向かっては言えないから、置いていきます。
病院に通うことになりました。
大げさなものじゃない、と書くと嘘になるけど、すぐ死ぬわけでもありません。
ただ、手の治療をします。
しばらく花を切るのが難しくなると思います。
あんたに言うと、余計な心配をするか、怒るか、どっちかだから、ちゃんと決まるまで黙っていました。
これは私の悪い癖です。ごめん。
でも、あんたは思ってるより、店のことができます。
水揚げも、値つけも、客の顔を覚えるのも、もう大丈夫。
私がいなくても回るように、ずっと教えてきたつもりです。
使ってるマグカップ、捨てないで。
あれ、お父さんが最後にくれたやつだから。
ひびが入っても、まだ使えるものはあるって、あれを見るたび思えました。
あんたも、そうだよ。
店をお願いしたのは、押しつけじゃなくて、信じたからです。
言い方が下手でごめん。
戻れたら、また朝のコーヒーを飲みます。
もし戻るのが少し遅くなっても、商店街の花を消さないで。
それだけ、お願い。
姉より
私は、その場にしゃがみこんだ。
涙は、出そうとして出るものではない。
出たくないときほど、勝手に出る。
便箋の上にぽつりとしみが落ちて、それがにじんで文字を少し歪めた。
私はああ、ほんとうに馬鹿だと思った。
勝手だね、なんて、どの口が言ったのだろう。
勝手に傷ついたのは私で、勝手に決めつけたのも私だった。
姉は説明しなかったのではなく、説明できなかっただけかもしれないのに。
手の治療。
そういえば、あのころ姉は、ときどき右手をさすっていた。
花ばさみを握るとき、ほんの一瞬だけ眉を寄せていた。
私は見ていた。
見ていたはずなのに、見ていなかった。
人間は、自分が傷つくことには敏感なくせに、相手の痛みには案外平気で盲目になる。
困った生きものだと思う。
流しには、あのマグカップがまだ伏せてあった。
私はそれを持ち上げた。
白地に薄い青の線が一本、持ち手から腹のあたりへ走っていた。
指でなぞると、ひびは思っていたより浅かった。
欠けた縁に口をつけるのは少し怖い。
でも姉は、これをずっと使っていたのだ。
こぼれないように、丁寧に持つでしょ。
その言葉が、今になってやっと別の意味を持った。
壊れたから終わりなのではない。
壊れたものに合わせて持ち方を変える。
それが、暮らしていくということなのかもしれなかった。
翌朝、私はいつもより早く店を開けた。
シャッターを上げると、商店街の朝の匂いが流れこんできた。
パン屋の焼ける匂い。
魚屋の濡れた発泡スチロールの匂い。
古いアーケードに残る昨夜の雨の匂い。
その中に、バケツへ挿したフリージアの甘い香りが、すっと立ちのぼった。
私は姉のマグカップにコーヒーを注いだ。
ひびのところから漏れないか、少し構えて見ていたけれど、大丈夫だった。
湯気がまっすぐ上がった。
それだけで、胸の奥のどこかが少しほどけた。
開店してしばらくすると、いつも仏花を買いに来る老人が来た。
「今日は、なんだか店がやさしいねえ」
私はうまく笑えなかったけれど、「ありがとうございます」と答えた。
昼すぎには、学校帰りの女の子が一本だけカスミソウを買っていった。
部活を辞める先輩に渡すのだと言った。
私は細い紙で包み、銀色のリボンを結んだ。
受け取った女の子が、少し照れた顔で「かわいい」と言った。
その瞬間、ほんの少しだけ、姉が見ていた景色がわかった気がした。
花を売るというのは、花そのものを渡すだけではない。
言えないことの代わりを、手のひらに載せて渡すことなのだ。
謝れない人のために。
お祝いを言いそびれた人のために。
会えなくなった誰かのために。
そういう思いの隙間へ、花はすっと入っていく。
姉はたぶん、その役目を知っていた。
だから無理に愛想を作らなくても、店を続けてこられたのだろう。
夕方、店じまいをしてから、私は姉に手紙を書いた。
電話ではなく、手紙にしたのは、逃げずに言葉を選びたかったからだ。
怒ってごめん。
勝手に決めつけてごめん。
店はまだ不格好だけど開けてる。
マグカップは捨ててない。
戻ってきたら、今度は私がコーヒーを淹れる。
そう書いた。
最後に、商店街の花は消さない、とも書いた。
書き終えたころには、外は薄い夕方になっていた。
アーケードの隙間から、細い夕焼けが見えた。
ひどく大げさに言えば、それは希望というものに少し似ていた。
頼りなくて、今にも消えそうで、それでも暗くはない色だった。
姉が戻るのがいつになるのか、私はまだ知らない。
戻れない事情が増えるのかもしれない。
前みたいに軽口を叩きあえるとも限らない。
人生はそういう不親切な含みを残したまま、平気で先へ進む。
それでも明日の朝、私はまたシャッターを上げるだろう。
ひびの入ったマグカップにコーヒーを注ぐ。
バケツの水を替える。
茎を切る。
リボンを結ぶ。
そうして、少しずつ、ちゃんと待とうと思う。
壊れたものを壊れたまま抱えて、それでも手の中であたためるみたいに。
商店街の朝は、今日も少し寂しい。
けれど、もう広すぎはしなかった。


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