私が小学校二年生くらいの頃のことです。
近所の商店街の角に、小さなお肉屋さんがありました。
揚げ物の匂いがいつも店先に漂っていて、学校帰りに通るだけでお腹が鳴るような場所でした。
そこのコロッケが、とびきりおいしかったのです。
外はサクッとして、中はほくほくで、じゃがいもの甘さが広がりました。
おばあちゃんは、そのコロッケが大好きでした。
でもおばあちゃんは「塩分と油はほどほどにね」と、お医者さんに言われていて、めったに買いませんでした。
欲しそうに目を細めるのに、結局「今日はやめとこ」と笑って通り過ぎる姿を、私は何度も見ました。
だから私は、おばあちゃんの誕生日が近づいたとき、こっそり決めました。
「今日くらいなら、いいよね」って。
その日の私は、おこづかいを握りしめていました。
少しずつ貯めていた硬貨が、手のひらの中で冷たく鳴りました。
学校の帰り道、私はいつもより早足でした。
胸がどきどきして、ランドセルまで軽く感じました。
お肉屋さんの前に着くと、油の香りがふわっと鼻に入ってきました。
店の奥では、ジュウウ…と音がして、衣が揚がる気配がしました。
私は背伸びをして、精いっぱいの声で言いました。
「コロッケ、ください。
二つ。」
お店のおじさんは、私の顔を見て少しだけ笑いました。
そして紙袋に、揚げたてのコロッケを入れてくれました。
紙越しに、じんわり熱が伝わってきました。
油の香りと一緒に、その温かさが胸まで広がりました。
私はそれを落とさないように両手で抱えて、ゆっくり家に向かいました。
「おばあちゃん、喜ぶかな」
「びっくりするかな」
「でも食べすぎたらだめだから、半分こにしよう」
頭の中で、渡す瞬間を何度も練習しました。
玄関の前で一度息を吸って、引き戸を開けました。
「ただいま!」
返事より先に、家の中にも揚げ物の匂いがありました。
私の袋からじゃない匂いでした。
居間をのぞくと、おばあちゃんがいました。
そして弟がいました。
二人の手には、コロッケがありました。
おばあちゃんは、ちょうどひとくち食べたところでした。
弟は口の端に衣をつけて、得意げに笑っていました。
私はその場で、固まってしまいました。
遅かった。
先を越された。
私の“秘密の誕生日プレゼント”が、もうそこにある。
胸の奥がきゅっと縮んで、熱くなりました。
それと同時に、別の不安も押し寄せました。
「おばあちゃん、油もの食べすぎたら体に悪いかも」
「私の分まで食べたら、もっと悪いかも」
でも、誕生日に水を差すのも怖い。
子どもの私は、気持ちの整理ができませんでした。
気づいたら、涙が勝手に出ていました。
「うわぁぁん……!」
泣くつもりなんてなかったのに、悔しさと心配が一緒になって溢れました。
おばあちゃんは、箸を止めました。
そして私と、私の手の紙袋を見ました。
一瞬で全部わかったみたいに、おばあちゃんの目がやわらかくなりました。
おばあちゃんは立ち上がって、私のところまで来ました。
「○ちゃんも、買ってきてくれたのねぇ。」
そう言って、私の頭をやさしく撫でました。
その手は、揚げ物よりずっと温かかったです。
私は泣きながら首を振って、うまく言葉にできませんでした。
おばあちゃんは、にこっと笑いました。
「大丈夫。
今日はね、○ちゃんのコロッケを、○ちゃんと食べる。」
母が台所から顔を出して、少し困ったように笑いました。
「ごめんね。
おばあちゃんの誕生日だから、弟と買ってきたの。」
私はわかっていました。
でも、私だけのつもりだった気持ちが、行き場を失って苦しかったのです。
おばあちゃんは私の紙袋を受け取って、コロッケをそっと取り出しました。
まだ熱くて、湯気が少し立ちました。
おばあちゃんはそれを、きれいに半分に割りました。
「ほら、半分こ。」
おばあちゃんは、なぜか大きい方を私にくれました。
私は「おばあちゃんが大きい方」と言いました。
するとおばあちゃんは首を振って、また撫でました。
「今日はね、○ちゃんの“おめでとう”が入ってるから。
○ちゃんが大きい方でいいの。」
私はコロッケをひとくち食べました。
サクッと音がして、ほくほくのじゃがいもが広がりました。
その味が、うれしいのに、どこか切なくて。
悔しさと安心が混ざって、胸がいっぱいになりました。
おばあちゃんも小さくかじって、ゆっくり噛みました。
「おいしいねぇ。」
「○ちゃんと食べると、もっとおいしい。」
弟は途中でテレビの方へ行きました。
母は片づけをしながら、こちらを見て笑っていました。
でも私の中では、その日の時間が、そこだけ少し静かに大切になっていました。
おばあちゃんは最後に、ふっと真面目な顔をしました。
「我慢するのも大事だけどね。
うれしいときは、ちゃんとうれしいって味わうのも大事だよ。」
小学生の私は、その意味を全部はわかりませんでした。
でもその声の温度は、今でも覚えています。
それからしばらくして、おばあちゃんは前より揚げ物を控えるようになりました。
それでもお肉屋さんの前を通ると、「いい匂いだね」とだけ言って笑いました。
私はそのたびに、紙袋の熱と、あの日の涙を思い出しました。
先を越されても、気持ちは消えない。
むしろ、ちゃんと誰かに届いたとき、形が変わって残る。
今でもコロッケを見ると、胸がきゅっとします。
悲しいだけじゃなくて、やさしい記憶が一緒に入っているからです。
だから私は、あの匂いに出会うたび、少しだけ泣きそうになります。
そしていつも最後に浮かぶのは、おばあちゃんの笑顔です。
「○ちゃんの分も食べるよ」ではなくて、
「○ちゃんと食べるよ」と言ってくれた、あの声です。
あの日のコロッケは、今も私の中で、まだ温かいままです。

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