泣ける話

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砂糖のないマグカップ

その朝、僕のマグカップだけ、棚のいちばん上に戻されていた。わざわざ、届かない場所へ。マグカップの底に、乾いた砂糖の粒が二つ、貼りついている。砂糖なんて、ここ半年、家に置いていない。だから僕は、ああ、来たな、と思った。悪い知らせは、いつも甘っ...
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図書館で見つけたしおりが、10年ぶりの再会をくれた

雨の日の図書館は、少しだけ、海の底に似ている。音が、みんな丸くなる。返却カウンターに本が置かれる音も、子どもの靴音も、遠くで誰かがページをめくるかすかな気配も、水を一枚くぐって届くみたいに、角が取れてしまう。私はその感じが好きだった。好き、...
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恋人の手帳に「最終」とあった

紗季の部屋の鍵が、今夜に限ってやけに重かった。 既読のつかない画面を握り潰しそうになりながら、僕は合鍵を回す。カチ、という音が廊下に響いた。 玄関には僕のスリッパが揃い、テーブルには伏せられたスマホ。充電コードだけが揺れている。 呼んでも返...
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妻が運ばれた朝、僕は「わかった」と言った

団地の廊下に、救急車のサイレンが反射していた。 今朝、妻は「行ってくる」とだけ言って出ていった。どこへ、も、何を、も、主語がない。 私はいつもの癖で「わかった」と返し、新聞を開いた。 ——1時間後、隣の奥さんが息を切らしてドアを叩いた。「奥さん、運ばれたよ。聞いてないの?」 耳の奥が真っ白になる。
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祖母の部屋だけコーヒーの匂いがした

団地の階段を上がる途中、鼻先に焦げた匂いが刺さった。 祖母の部屋の前だけ、やけに静かで、郵便受けには新聞が刺さったまま。「また我慢してる」――そう決めつけてインターホンを押す。 返事がない。二度、三度。
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駅の倉庫で見つかった祖父の靴が、私を泣かせた話

祖父の靴が、終電のあとに見つかった。駅の倉庫の、いちばん奥。濡れた段ボールの中で、片方だけ、泥を乾かした顔をしていた。「野口くん、これ……君んちのじゃないか」そう言われた瞬間、革の匂いで、喪服の夜が戻ってきた。棺に入れるはずだった靴だ。入れ...
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亡くなった父の古い携帯を開いたら、最後の録音が入っていた

父の訃報を受けたのは、配達の途中だった。 海沿いの古い町で、私は軽バンを路肩に寄せ、ハザードをつけたまま、しばらくハンドルを握っていた。 スマホの画面には、妹の短い文面が光っていた。 ――お父さん、朝、だめだった。来られる? 
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「いい顔になったな」の意味を、私は知らなかった。

商店街の朝は、いつだって少し早すぎます。八時前だというのに、魚屋はもう氷を打つ音を響かせ、豆腐屋は白い湯気を吐き、向かいの惣菜屋のおばさんは、まだ半分しか開いていないシャッターの内側で、誰かと笑っています。私はその中を、保育園へ向かうために毎朝歩きます。園に着くころには、もう一日ぶんの気配を吸い込んでしまっている町です。商店街の真ん中あたりに、小さな文房具屋がありました。――ありました、という言い方になるのは、いまはもう店が閉まってしまって、少し傾いた看板だけが残っているからです。
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夜勤明けの介護士が見つけた、母の弁当メモの話

夜勤明けの朝というものは、どうしてあんなに人を薄くするのでしょうね。骨だけで歩いているみたいな気がします。腹は減っているのに、食べる気力がない。眠いのに、眠るまでが遠い。私は介護士で、もう十年ちかく同じ施設に勤めていますが、いまだに夜勤明けの自分には慣れません。あれは人間というより、使い終わった雑巾に近い。
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「先生の“めも”で、もう一度歩き出した」

商店街の朝は、いつも同じ匂いがする。揚げ物の油、豆腐屋の湯気、魚屋の氷。私が勤める保育園は、その端っこにあって、通園バッグを抱えた子どもたちが、八百屋の前の段差を跳びこえるのが日課みたいになっている。私がここで働くようになったのは、ひとつだ...