泣ける話

泣ける話

指輪のあとに残るもの

商店街の朝は、いつも少しだけ、嘘くさいほど明るい。 八百屋の店先には、まだ土の匂いを残した大根が並び、魚屋の氷は白く息をしていて、パン屋の窯からは、昨日までの憂鬱を焼き払うような匂いが流れてくる。 その真ん中あたりに、私の店はある。
泣ける話

春のインク

桜というものは、咲いているときより、散りはじめてからのほうが胸にくる。  それはたぶん、きれいだからではない。  終わるとわかっているものが、まだ光っているのを見ると、人は自分の言いそびれたものまで思い出してしまうからだろう。
泣ける話

春の鍵穴

小学校の朝は、子どもが来る前から、もう少しだけ子どもっぽい。  廊下の窓を開けると、夜のあいだ閉じ込められていた空気が、いっせいに校庭のほうへ逃げていく。  黒板の粉っぽい匂い、ワックスの乾いた艶、手洗い場の蛇口から落ちる最初の冷たい水、体育館の床に残った夜のひんやりした気配。  そこへまだ誰の声も重なっていない時間は、学校そのものが目を覚ます前の顔をしている。
泣ける話

名札の裏の字

病院という場所は、朝が来るのが少し早い。  まだ外の空が薄青いころから、自動ドアは開いて、受付の灯りがつき、廊下の奥では誰かの足音がもう仕事の速さで響いている。  消毒液の匂い、ワックスの乾いた光、ナースステーションの低い話し声、配膳車の遠い車輪の音。
泣ける話

終点までのあいだ

山あいの町の朝は、平地より少し遅れて明るくなる。  谷の底へ光が落ちてくるまでに、いくつもの屋根と木々の影をくぐるからだろう。  そのせいか、町全体が目を覚ますのにも、少し時間がかかる。  味噌屋の煙突から白い湯気がのぼり、郵便局の前に赤いバイクが出て、川沿いの道にだけ先に日が差す。
泣ける話

雨だれの行き先

雨の夜の路地は、昼より少しだけ本音に近い。  人通りが減るからかもしれないし、アスファルトが濡れて、町の灯りを余計に映してしまうせいかもしれない。  昼間なら見過ごせるものが、夜の雨の中では、妙にくっきり浮かぶ。
泣ける話

鍵の鳴る部屋

昼間は子どもの声や買い物袋のこすれる音で、どうにか人間の顔をしているくせに、陽が傾くころには、廊下も階段も、いっせいに古びた骨みたいな色になる。  私はその感じが、少し苦手で、少し好きだった。  苦手なのは、自分まで古くなった気がするからで、好きなのは、古いものには古いものなりのやさしさがあると、最近ようやく思いはじめたからだ。
泣ける話

うすい紙の向こう側

病院という場所は、いつ行っても、どこか朝に似ている。  夜勤明けの薄い頭でそう思うのだから、たぶん本当なのだろう。  まだ何も決まっていないような白い顔をしているくせに、そこではもう、いくつもの生死や、諦めや、持ち直しかけた希望が、勝手に始...
泣ける話

湯気のむこうの字

団地の朝は早い。  まだ空が白みきらないうちから、どこかの玄関が開いて、新聞受けの金具が小さく鳴る。  階段を下りる足音、遠くで目を覚ます給湯器の低い唸り、ベランダで干されたままの洗濯物が、夜の湿り気を含んでかすかに揺れる気配。  新しい街...
泣ける話

灯の下の秒針

商店街の時計は、どれも少しずつ違う時刻を指している。  それが私は、子どものころから好きだった。  正しい時刻はひとつしかないはずなのに、この通りでは、八百屋の壁時計が三分進み、薬局の古い振り子時計が二分遅れ、うちの店先の丸時計だけが、きっちり正午を打つ。