泣ける話

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柱の傷が、母の言葉だった

玄関の引き戸を開けた瞬間、薬の甘い匂いが、だしの残り香を押しのけて鼻の奥に入り込んだ。「ただいま」返事はない。柱時計の秒針だけが、こつ、こつと家の静けさを叩いている。廊下の柱に手を伸ばすと、木目のざらりが指に刺さった。——そこに、昨日までなかった細い傷が一本。爪で引っかいたような浅い線が、まるで「言えなかった言葉」の形をしていた。私は息を止めて、母の部屋の障子に指をかける。この家で今、何が起きた?
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雪の駅、空っぽの弁当箱が教えたこと

ありがとうございます!この話に合う幻想絵画を横向き(ランドスケープ)でご作成ください。作風は、ヒエロニムス・ボス、オディロン・ルドン、ギュスターヴ・モローを参考に、優しいトーンでお願いいたします。
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「『忙しいんでしょ』の本当の意味」

ポストが鳴った。金属が乾いた声を出して、潮の匂いの廊下に反響する。薄い封筒が一通。施設名の印字。その裏に、誰かが爪で引っかいたみたいな擦れ跡。嫌な予感が喉に張りついた。封を切る前に、指先が震えた——この中身を見たら、もう戻れない気がしたからだ。それでも俺は、開けた。
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「遅れた一回ぶん」

夜勤明けの廊下は、消毒液と湿った布おむつの匂いで喉が痛い。ナースコールが鳴るたび、俺の胸の奥で何かが小さく割れる。「すみません、今――」言いかけた瞬間、奥の個室から“いつもと違う音”がした。柵を叩く金属音じゃない。咳でもない。息が詰まるような、短い音。俺は足を止めたのに、体が動かなかった。その一秒が、取り返しのつかないものになると知らずに。扉の向こうで、誰かが俺の名前を呼んだ気がした。
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「アルバムの紙片」

雪は音を殺すくせに、あの夜だけは違った。工場の帰り、家の前で立ち尽くした俺の耳に、ストーブの上のやかんが「カタ…」と乾いた音を立てていた。父の部屋は暗い。テレビもついていない。呼んでも返事がない。嫌な予感を振り払うように、俺は押し入れを開けた。冷えた布の匂い、古い紙の匂い。指先に触れたのは、布張りのアルバムだった。ページをめくった瞬間、挟まっていた紙片が落ちた。読んだ途端、膝が抜けた。――これ、俺に向けた言葉だったのか。
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「祖母から届いた“最後のお弁当箱”」

商店街のアーケードに、揚げ油の甘い匂いが残っていた。なのに、祖母の惣菜屋の前だけが妙に冷たい。シャッターは半分、赤提灯は消えたまま。ガラスに貼られた紙が風で「カサ…」と鳴る。俺は配達の自転車を止められず、何度も通り過ぎた。忙しさを盾にして。...
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迎えに行くカバン

保育園帰り、私は走っていた。 祖母の部屋のドアが、ほんの少し開いていたからだ。廊下に漏れる灯りと、止まらない蛇口の「ぽた、ぽた」。 胸が冷える。鍵は閉まっていない。「ばあちゃん?」 返事はない。 代わりに、玄関には外靴が揃い、焦げ茶のカバン...
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母の靴音

職員室のロッカーを開けた瞬間、僕は息を止めた。 見覚えのある黒い靴が、一足だけ、きれいに揃えて入っている。――母の靴だ。 母はもう歩けないと聞いていた。なのに、どうして学校に。 靴底には、雨の日の汚れと、小さな赤茶の染み。指で触れると、革が...
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捨てるはずだった教科書

夜勤明けの更衣室で、僕は“自分の名前が書かれた教科書”を拾った。 退所者の忘れ物の箱から出てきたそれは、雪で湿って、紙がふやけている。 ありえない。あれは卒業の日、恩師に突き返したはずだ。 ページをめくると、赤ペンの跡と一緒に、薄い便箋が挟...
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「帰ってきたよ」の約束

※本作は創作(フィクション)です。実在の人物・団体とは関係ありません。「待つこと」は、時々いちばん重い。それでも人は、誰かの言葉を信じて生きてしまう。商店街の裏路地で、僕は“自分のサイン”を見つけた。配達伝票の受領欄に、確かに僕の名前がある...