「父の声が消えない」

外を眺める青年 泣ける話

「ごす、ごす」と雪を踏む足音だけが聞こえる。
 今朝、配達車の荷台から「きゅ」と短い鳴き声みたいな音がして、背中が冷えた。

 誰も触っていないはずの荷物が、わずかにずれている。
 伝票の宛名は、昨日まで空欄だった“父の部屋”。
 そして差出人欄には、見慣れた父の字——いや、父の字に似せた、ゆっくりとした筆圧の文字があった。

「……俺が届けるんだぞ、これ」

 吐いた息が白くほどけ、荷台の冷気が肺の奥まで刺さる。段ボールは乾いて硬い。角に触れた手袋が、ざわっと鳴った。

団地の階段を上る。
 踊り場の窓ガラスは白く曇り、遠くで除雪車がごろごろ唸っている。どこかの部屋から、味噌汁と洗剤が混ざった匂いが流れてきた。

 郵便受けに荷物を押し込みながら、指先の痺れが増していく。
 今日も時間が足りない。遅れたら電話が鳴る。遅れたら——父の声が、決まって頭に落ちてくる。

『時間は守れ』

 子どもの頃、門限を一分でも過ぎると、父は玄関で腕時計を見せた。
 怒鳴りはしない。ただ、低い声でそれだけ言う。
 その言葉は、いつも裁判の判決みたいに聞こえた。

 だから私は、父のあの言い方が嫌いだった。

 父が倒れる少し前もそうだ。

『家にも帰れんのか』

 電話口で言われたとき、私は息を吐き捨てるように返した。

「忙しいんだよ。わかるだろ」

『……そうか』

 それで終わった。
 あの沈黙が、雪より冷たかった。

 父が倒れたのは、その翌週だった。

 病院の廊下は白くて眩しくて、耳が痛いほど静かだった。

遠くのナースコールが、ぴっ、ぴっと水滴みたいに落ちていく。

 面会の椅子に腰を下ろすと、ビニールがきしんだ。
 父は眠っていた。頬が削げ、毛布の上の手が細い。私はその手に触れた。骨の角が手のひらに当たって、思わず指を引っ込める。

「……父さん」

 呼んだ瞬間、父の瞼がわずかに動いた。

「来たのか」

「来たよ。……遅くなって、ごめん」

 言ってから、喉が詰まった。
 謝りたかったのは、倒れる前からだ。もっと言えば、あの沈黙が積もり始めた日からだ。

 父は小さく首を振った。

「謝るな。お前は……働け」

 またそれだ。
 命令みたいに聞こえて、胸の奥がざわついた。

「なんで、いつもそう言うんだよ」
「……」
「“大丈夫か”とか、“来てくれて嬉しい”とか、ないのかよ」

 父は目を閉じたまま、息を整えるみたいに胸を上下させた。酸素の管が微かに震える。
 しばらくして、かすれた声が落ちた。

「言い方が……わからん」

「じゃあ、今、練習しろよ」
「……」
「父さん。俺、怖いんだよ」

 私の声は震えた。
 父の指先が、毛布の上で少しだけ動いた。何かを探るみたいに。
 けれど言葉は出なかった。出せなかったのかもしれない。

 翌朝、父は逝った。

 葬儀のあと、雪はさらに深く積もった。
 玄関のたたきに靴を揃えると、床から冷気が足首を舐めた。父の部屋の戸を開ける。古いストーブの灯油の匂いが、まだ残っている。新聞紙の乾いた匂い。タンスの木の匂い。——生きていた匂いだ。

「……ただいま」

 返事はない。
 代わりに、柱時計がこつ、こつ、と規則正しく鳴いた。

 机の引き出しを開ける。
 ぎ、と木が擦れる音。中から出てきたのは、黒い古い携帯だった。ボディに細かな傷。画面の端が少し欠けている。指で撫でると、傷がざらりと引っかかった。

「まだ、これ使ってたのかよ……」

 電源ボタンを押す。
 薄暗い液晶が点き、起動音が小さく鳴った。妙に生々しい。その瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。

 未送信のメッセージがいくつか。
 その中に、見覚えのある一文があった。

『集荷お願いします。宛名、父の部屋。受け取るのは息子です』

 ——父が、自分で“今になって届く荷物”を仕掛けていた。
 私の手のひらが汗ばんだ。寒いのに。

 さらに、録音フォルダに数字が並んでいる。
 父は昔から、声を残す人だった。私が小さい頃、運動会の帰り道、カセットの小さな録音機でこう言って笑った。

『今の「楽しかった」も録っとけ。忘れるからな』

 指が勝手に一番新しい日付を押す。心臓が、どくんと鳴った。

 ——ノイズ混じりの沈黙。
 次に、父の咳払い。

『もしもし。……聞こえるか。これ、録れるんだな』

 声が、そこにいた。
 病室の掠れた声じゃない。家で、ストーブの前で、いつもの調子で喋る父の声だ。

 私は畳に膝をついた。冷たさが膝に刺さり、携帯の硬さが手のひらに食い込む。

『お前に言うと、また怒るかもしれんから、先に録っとく』

 息を吸うと、灯油と畳の匂いが胸いっぱいに入ってきた。
 涙は、まだ出なかった。出していいのか、わからなかった。

『……あのな。俺は、お前の「忙しい」が嫌だったんじゃない』

 その一言で、喉の奥が熱くなった。

『忙しいのは、立派だ。荷物を待ってる人がいる。時間どおりに来るって、当たり前みたいで当たり前じゃない』

 私は思わず、声を漏らした。

「……父さん、いまさら何言ってんだよ」

 答えは返らない。録音は続く。

『俺は昔、駅で働いてたとき、遅れた電車一本で、泣いてる子を見た。待つってのは、辛い。だから、届けるってのは、強い仕事だ』

 胸のざわつきが、少しずつほどけていく。
 父は、私の仕事を褒めたことがなかった。いつも——

『無理するな』
『休め』
『帰ってこい』

 あれは命令じゃなかったのかもしれない。
 私が壊れないか、怖かっただけかもしれない。

 録音の向こうで、ストーブが「ぱち」と弾けた。

『でも、言い方が下手だ。俺は』

 父は、笑ったような息を吐く。

『お前の顔を見ると、つい昔の癖で、強く言ってしまう。お前が大きくなるほど、俺は何も教えられなくなる気がして……怖かったんだ』

 私は携帯を握り直した。爪が掌に食い込み、痛い。
 でも、その痛みが“いま”をつなぎとめた。

『この携帯な。駅の仕事辞めたとき、最初に買ったやつだ。お前がまだ小さくて、寝返りもできないころ』

 息が詰まる。
 父の声が、少しだけ柔らかくなる。

『夜勤明けで帰ると、母さんが泣きながら「やっと笑った」って言ってな。……それ、録音したのが、この携帯だ』

「……俺の、声……?」

 震える声が、勝手に出た。
 携帯の中に、私の始まりが眠っていた。父が、ずっと持っていた。

『だから、捨てるな』

 父の声が少し低くなる。まるで、背中を押すみたいに。

『お前が忙しくて、声が荒くなっても、帰れない日が続いても……どっかで一回、止まって聞け。誰かの声を。自分の声を』

 私は顔を覆った。
 涙が、ようやく落ちた。畳に、ぽた、ぽた、と小さな音がする。雪に消されない音だ。

『怒ってる声の奥にある、本当を、聞け』

 父は、短く笑う。

『俺は、うまく言えなかった。けど……誇らしい。お前が、雪の中でも走ってるのが。待ってる人のところへ、ちゃんと行ってるのが』

 咳が混じる。
 音が近くて、私は反射的に「大丈夫か」と言いそうになる。もう言えないのに。

『……それでいい』

 録音は、そこで途切れた。
 画面が暗くなっても、私は動けなかった。部屋の静けさに、柱時計の音だけが戻ってくる。こつ、こつ。

「父さん……ごめん」

 声にした途端、涙が増えた。
 怒ったまま別れたわけじゃない。
 でも、怒りの奥にあった“助けて”を、私は見ないふりをしていた。

 私は配達用の手帳を開いた。紙が乾いていて、指が少し引っかかる。
 余白に一行だけ書く。

「声を聞く。言葉の奥を見る」

 翌朝。
 いつもより十分早く家を出た。雪はまだ深い。空気は冷たく、鼻の奥がつんとする。
 配達車のエンジンをかけると、ぶるん、と腹の底に響いた。

 ダッシュボードに、古い携帯を置く。電源は入れない。
 ただ、そこにあるだけでいい。

「行ってくる」

 誰にともなく言う。
 返事はない。けれど不思議と、寂しくなかった。

 最初の荷物を抱えて団地の階段を上る。
 踊り場で、一瞬立ち止まる。遠くで除雪車の音。どこかの窓から、味噌汁の匂い。
 私は小さく息を吸って、胸の中で続けた。

「……ちゃんと、届けてくる。父さんの言葉ごと」

 雪は相変わらず音を消していたが、その静けさの底で、父の声だけが、いまも確かに私を温めていた。

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