ポストが鳴った。金属が乾いた声を出して、潮の匂いの廊下に反響する。
薄い封筒が一通。施設名の印字。その裏に、誰かが爪で引っかいたみたいな擦れ跡。
嫌な予感が喉に張りついた。
封を切る前に、指先が震えた——この中身を見たら、もう戻れない気がしたからだ。
それでも俺は、開けた。
俺は配達員で、海辺の団地を毎日歩く。コンクリートの壁は湿り気を含み、夕方になると潮と洗剤が混ざった匂いがする。
四階の角部屋。母の部屋——正確には、母が“置いていった”部屋。
去年、母は施設に入った。退院したあともふらつきが残り、医師は「一人暮らしは危険」と言った。俺はうなずいた。うなずくしかなかった。
その日から母は、俺の名前を呼ばなくなった。
面会のたび、同じ言葉が返ってくる。
「忙しいんでしょ」
「……うん。まあ、配達、混むし」
「そう。じゃあ、いいよ」
母の声は柔らかいのに、言葉の角だけが硬い。俺は何度も言い直そうとして、結局、飲み込む。
施設の廊下は消毒液の匂いが強くて、靴底が床に吸いつく音がする。そこで謝るのは、いつも格好悪い気がした。
団地に戻ると海が近い。防波堤の石を波が転がす音が、ささくれた後悔をなでるみたいに続く。
俺はそこで、何回「ごめん」を練習しただろう。
その日、ポストに入っていた封筒は「退去手続きのお願い」だった。管理会社の紙の匂い、事務的な言葉。
ページをめくった瞬間、封筒の底から、こつん、と何かが落ちた。
古い携帯。
ガラケー。角は丸く削れ、裏蓋が少し浮いている。
「……なんで、ここに」
母が使っていたやつだ。ずっと前に“もういらない”って言って、引き出しにしまったはず。
手に取ると、プラスチックが冷たく、指紋の跡がうっすら白く残る。裏蓋を外すと、ぱき、と乾いた音がした。
中に小さな紙が挟まっていた。折り目の感触が硬い。
開くと、丸い字。
『もし見つけたら よんでください』
母の字だった。
喉の奥が、いきなり苦くなる。
俺は団地の階段に座り込んだ。潮風が首筋を撫で、遠くで子どもの笑い声が跳ねる。
紙を広げる。母のメモは、まるで会話の続きみたいに始まっていた。
『あなたへ。
この携帯は、あなたがはじめてアルバイト代で買ってくれたものです。
「母ちゃん、これでいつでも連絡できるね」って、照れた顔で。
私はその時、胸がいっぱいだった。』
俺は思い出した。コンビニの前のベンチ、秋の風、母の手の皺。
母が携帯を握りしめて、「高かったでしょ」って笑った顔。
『施設に入る話をした日、あなたは「忙しいから」と言いましたね。
本当は忙しいの、わかっていた。
でも私は、言葉だけ拾ってしまった。
あなたが私を“荷物”みたいに言った気がして、悲しかった。』
「……違う」
声が漏れた。海風に消えるほど小さい声。
あの日、俺は自分を守るために言った。怖かったんだ。母が弱っていくのも、俺が支えきれないのも。
だから“忙しい”って言えば、決断が正しいみたいに聞こえると思った。
母の胸に釘を打ったのは、その“言い方”だった。
『だから意地を張りました。
「忙しいんでしょ」って、何度も。
本当は、“忙しくてもいいから会いたい”って言いたかっただけ。』
俺は紙を握りしめた。指先が熱い。
「会いに行っただろ……」
言い訳が喉に詰まる。面会の回数じゃない。母が欲しかったのは、“来た”じゃなくて、“来たい”だった。
『海辺の団地で、夜が怖いとき、あなたの足音を待っていました。
廊下を歩く音、ポストが鳴る音。
あれは、あなたが生きている音でした。』
俺の耳が、急に敏感になる。廊下の遠い足音、郵便受けのかすかな震え。
“生きている音”。
俺は、母の世界で俺がどんな輪郭だったかを、初めて知った。
『言えなかったけど、私はあなたを誇りに思っています。
あなたは誰かの荷物を運んで、暮らしをつないでいる。
それは立派な仕事です。』
胸の奥が、ほどけていく。
母は俺を責めるために書いたんじゃない。
真実を置いていったんだ。——俺が迷子にならないために。
『もしも私が、あなたの名前を忘れても。
もしも私が、あなたを見てもわからない日が来ても。
あなたが来てくれた事実は、忘れないように、この携帯に入れておきます。』
紙が、少し滲んで見えた。
俺の視界のせいだ。
『最後にお願い。
団地の退去のこと、迷惑をかけてごめんね。
でも、台所の引き出しに、あなたの弁当箱があります。
小学校のころ、毎日持たせたやつ。
蓋の裏に、小さく名前を書いてあります。
捨てないで。
あなたがつらい日に、それを開けてください。
そこに私はいます。
母より。』
俺は紙を畳めなかった。折り目が“終わり”みたいで、怖かった。
立ち上がると膝が少し笑って、携帯が手の中でかすかに鳴った気がした。——もちろん電源なんて入らないのに。
その夜、管理会社に連絡して鍵を借りた。
母の部屋の玄関は、鍵が回る音がやけに大きい。
中は静かで、海の匂いが薄くなっていた。代わりに、古いカーテンの埃と、乾いた洗剤の匂い。
台所の引き出しを開けると、レールが擦れて、しゃり、と音がした。
奥に弁当箱があった。プラスチックは少し曇り、角が丸い。
手に取ると、軽いのに重い。
蓋の裏の字を見た瞬間、息が止まった。
『ようすけ』
俺の名前。母の字。
「……まだ、俺のこと、ここに書いてるじゃん」
翌日、施設に行った。
母は窓辺で庭を見ていた。光が白く、髪の毛の細さがわかる。
俺が近づくと、母はゆっくり振り向く。
「忙しいんでしょ」
「うん。忙しい」
母の目が少し曇った、その瞬間に俺は続けた。
「でも、来たいから来た」
母が瞬きをした。
「……来たい?」
「うん。言い方、ずっと間違えてた。ごめん」
「……私も。意地張った」
俺は弁当箱を差し出した。
「これ、あった」
母の手が伸びて、蓋に触れた。指先が震えている。
「……懐かしい」
「母ちゃん、俺の名前……」
「書いたの、忘れてないみたい」
母は小さく笑って、目尻を指で拭った。
俺は携帯のメモの話をしなかった。母の“祈り”みたいなものを、言葉で薄めたくなかった。
代わりに、俺は約束だけを差し出す。
「忙しくても来る。回数じゃなくて、気持ちで来る」
母は弁当箱を抱えるみたいにして、頷いた。
「……うん。じゃあ、待ってる」
「待たせない」
「うそ。ちょっとは待つ」
母が笑って、俺も笑った。消毒液の匂いの向こうで、なぜか潮の匂いがした。
帰り際、母が小さな声で言った。
「あなたの足音、わかるのよ」
俺は立ち止まって、振り向く。
「……今も?」
「今も。生きてる音だから」
弁当箱の蓋を閉める音が、許しの形になった。


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