夜勤明けの更衣室で、僕は“自分の名前が書かれた教科書”を拾った。
退所者の忘れ物の箱から出てきたそれは、雪で湿って、紙がふやけている。
ありえない。あれは卒業の日、恩師に突き返したはずだ。
ページをめくると、赤ペンの跡と一緒に、薄い便箋が挟まっていた。
差出人の名前を見て、息が止まる。――もう会えないはずの人だった。
雪は音を食べる。
施設の裏口を出ると、頬がきしむほど冷たくて、鼻の奥に金属みたいな匂いが刺さった。除雪車の低い唸りが遠くで続いている。
夜勤明けの更衣室。消毒液と湿った制服の匂い。
僕は「処分していい忘れ物」の段ボール箱を抱えた。底が少し濡れて、段ボールの繊維が指にざらつく。
「これ、捨てでいいんだよね?」
同僚の佐藤さんが言った。
「うん。退所された方の。名前もないし」
「なんか変なもん入ってたら怖いよね」
「……怖いのは、だいたい人のほうだよ」
冗談のつもりで言ったのに、声がかすれた。
ふたを開けると、いちばん上に“学校の教科書”があった。紙の甘い古臭さ。角が丸くて、背表紙が擦れて白くなっている。
「え……」
表紙の内側。鉛筆の薄い字。
――僕の名前。
「ちょっと、待って」
僕は箱を覗き込んだまま、動けなくなった。
「どうした?」
佐藤さんがのぞき込む。
「それ、懐かしいやつ?」
「懐かしいとかじゃない。……ここにあるはずがない」
教科書は、雪で少し湿っていた。ページを指でこすると、ふにゃっと頼りない。
僕は喉の奥が痛くなった。
置いてきたんだ。雪国の中学校に。いや、置いてきた、じゃない。突き返した。
ストーブの上でやかんが鳴る音。黒板の粉の匂い。教室の窓に指で線を引くと、白い息が曇る。
そこに、山科先生がいた。
――「おまえには向いてない」
僕はずっと、その言葉だけを持って生きてきた。
だから、介護士になった。誰かの役に立てば、自分の価値が埋まる気がしたから。
でも夜勤のたび、入居者さんの「ごめんねぇ」の言い方に、自分の影が重なる。
「すみませんね、手がかかって」
「大丈夫ですよ。全然」
「あなた、いい人だねぇ」
「……いい人じゃないです」
僕は笑ってしまって、相手が困った顔をする。
その“言い方”が、僕の癖だった。
教科書のページをめくると、赤ペンがびっしり走っていた。先生の字。真っ直ぐで、容赦ない字。
さらにめくると、薄い便箋が挟まっていた。折り目が何度もついて、端が少し毛羽立っている。
「……手紙?」
佐藤さんが小声で言った。
「読むの?」
「……読まないと、戻れない」
休憩室に逃げ込む。自販機のコーヒーの甘い匂い。換気扇の唸り。椅子のビニールが、背中に冷たい。
便箋を開いた瞬間、インクの匂いがふわっと立った気がした。そんなわけないのに。
差出人の名前。
山科 恒一。
「……嘘だろ」
声が、指先みたいに震えた。
僕は先生に会っていない。卒業式も目を合わせなかった。
“会えないはず”の人の文字が、目の前にある。
――あの日。
職員室はストーブが効きすぎて暑かった。窓の隙間から冷気がすうっと入ってきて、紙の匂いが混ざっていた。
僕は進路希望票を握り潰して、言ってしまった。
「無理ですよね。俺、頭悪いし」
先生は顔を上げた。
「無理かどうかを、おまえが決めるな」
「先生は簡単に言いますけど」
「簡単に言ってない」
「どうせ、俺みたいなの期待してないでしょ」
先生の机を叩く音が、今も耳の奥に残っている。
「そういう言い方をするな!」
僕は負けたくなくて、口が先に走った。
「じゃあ、どう言えばいいんですか!」
先生の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
そして――
「おまえには向いてない」
僕は、その“刃先”だけを拾って、全部を切り捨てた。
「そうですか。じゃあ、もういいです」
僕は先生が貸してくれた教科書を机の上に置いた。赤ペンの書き込みが、僕を見ているみたいで怖かった。
「返します」
先生は、何も言わなかった。
言わなかった、じゃない。言えなかったのかもしれないのに。
現実に戻る。便箋の文字が揺れて見える。
僕は、声に出して読んでしまう。誰もいないはずの休憩室で。
「立花へ。突然こんな形で届くかもしれないと思い、教科書に挟んでおく――」
喉が乾く。唾を飲む音がうるさい。
「職員室で、俺は『おまえには向いてない』と言った。あれは本心じゃない」
「……なんで」
僕は、便箋に向かって言った。
「なんで、あのとき言わないんだよ」
手紙は続く。
「正しく言うなら、『その言い方のままでは、続けるのが苦しくなる』だ」
胸の奥が、ゆっくりほどけるようで、同時に痛い。
僕はずっと、先生に否定されたと思って生きてきた。
違った。否定されたのは、僕の自分を下げる癖だ。
「おまえは怖いときほど先に自分を下げる。そうすれば、誰にも否定されずに済むからだ」
「……ばれてたんだな」
僕は笑って、すぐ泣きそうになった。
「ばれてたのに、俺、先生のせいにしてた」
手紙のインクは淡々としているのに、そこに先生の声が乗る。
「だがそれは、挑戦する前に自分を捨てることでもある」
僕は介護の現場で、何度も同じ場面を見てきた。
痛いのに「大丈夫」と言う人。
寂しいのに「迷惑だから」と言う人。
その言い方の裏に、本当がある。
先生は、僕の“本当”を見ようとしていた。
手紙は少しだけ柔らかくなる。
「もし介護や医療の道に進んだなら、俺は嬉しい。誰かの痛みを想像できるおまえは、そういう場所で生きる」
「先生……」
僕は便箋を押さえた。紙が指先に吸い付く。
「俺、今、介護士だよ。……聞こえる?」
当然、返事はない。
でも、雪国の教室みたいに、静けさが答える。
「『どうせ』は優しいふりをして、おまえを遠ざける言葉だ」
僕は目を閉じる。
入居者さんに「ごめんね」と言われるたびに、僕は笑って「そんなことない」と返す。
その裏で、僕も自分に言っていた。
“どうせ俺なんて”
先生は、ずっと前にそれを止めたかった。
最後の段落。字が少しだけ大きい。力が入った跡。
「教科書は返さなくていい。おまえが必要なときに開け。約束だ。
次に自分を下げそうになったら、まず深呼吸して、言い方を変えろ。
『やりたい。怖い。でも、やってみたい』と」
涙が落ちて、便箋の一文字が滲んだ。
「……遅いよ」
僕は声を絞った。
「でも、ありがとう」
謝りたかったのは、先生じゃない。
先生の言葉を、勝手に短くして、勝手に傷ついた自分だ。
施設の玄関を出る。
雪は相変わらず降っているのに、冷たさの質が変わっていた。
遠くで除雪車が唸り、足元の雪がきゅっ、きゅっと鳴る。僕は教科書を胸に抱えた。紙の重みが、妙に温かい。
スマホを取り出して、連絡先を検索する。出てこない。
それでも、僕は画面に向かって言った。
「先生。俺、言い方、変える」
息を吸う。白い息がすっと伸びる。
「……やりたい。怖い。でも、やってみたい」
約束する相手はもういないのに、約束だけが、僕をまっすぐに立たせた。
僕は今日から、あの教科書を“自分を捨てないため”に開く。


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