祖母は、花の名前を人の名前みたいに呼ぶ人でした。
「この子は朝に弱いのよ」とか、
「この子は水を欲しがるから気をつけなさい」とか、
まるで店先の鉢が親戚一同であるかのように話すのです。
私はそのたびに、はいはい、と生返事をしました。
花屋の店員をしているくせに、私は花にそこまで情を移せる性分ではありません。
もちろん嫌いではないのです。
でも花というものは、あまりに正直です。
少し放っておけばすぐ萎れるし、気をかけすぎてもまただめになる。
人間関係の縮図みたいで、ときどき息が詰まります。
それでも商店街の角にあるこの花屋に勤め続けているのは、祖母がいたからでした。
正確に言えば、祖母の店だったからです。
祖父が亡くなってから一人で続けてきた小さな店を、私が二十五の春から手伝うようになり、そのままずるずる居ついた。
朝はシャッターを上げる前にバケツの水を替え、新聞紙をほどき、まだ硬い蕾を表に出す。
昼には仏花を買いに来る人がいて、夕方には部活帰りの高校生が、申し訳なさそうに一本だけガーベラを買っていく。
そういう店でした。
祖母は客あしらいがうまく、私は値段をつけるのが早い。
役割分担としては悪くありませんでしたが、問題は、祖母が人に何かを伝えるとき、肝心のところを少しだけ違えて言う癖があったことです。
「三時に来るって言ってたわよ」
と言うから待っていると、相手は四時に来る。
「白い花が好きなんですって」
と聞いて白を多めに包むと、あとから「あの人、ほんとは黄色が好きだった気もする」と祖母が首をかしげる。
悪気はないのです。
むしろ、人より先に親切を差し出したい気持ちが強すぎて、話を少しだけ急いでしまう。
私は何度もその後始末をし、そのたびに、もう黙ってて、と思いました。
思うだけでは済まない日もありました。
「ちゃんと聞いてって言ってるでしょ」
「曖昧に伝えられたら困るの」
私がそう言うと、祖母は小さく肩をすくめて、
「ごめんねえ、年だから」
と笑う。
その笑い方が、私は嫌いでした。
許してもらうための笑い方みたいで。
ほんとうは、許したくないのはこちらのくせに。
秋の終わり、商店街に冬の飾りが下がり始めたころでした。
午後の光が早く冷えるようになって、店の前のシクラメンだけが、妙に元気な顔をしていた時季です。
一人の男の子が店に来ました。
小学校高学年くらいで、紺色のダウンを着て、手袋を片方だけなくしたような顔をしていました。
落ち着かないのに、泣きはしない。
そういう顔です。
その子は店先の花を一通り見てから、祖母に向かって言いました。
「おかあさんに、花をあげたいんです」
私はレジのところで伝票を書いていて、その声だけを聞いていました。
祖母はしゃがんで目線を合わせ、
「まあ、やさしい子」
と、いつもの調子で言いました。
男の子は少し恥ずかしそうにして、それから財布を出しました。
中は小銭ばかりでした。
祖母は代金を少しまけて、白と薄い桃色の小さな花束を作りました。
私はリボンを結びながら、その子の指先が少し震えているのを見ました。
寒さのせいだけではない気がしました。
そのとき、店の隅の便箋を、その子がじっと見ているのに気づきました。
うちの店では、花に添える一言用に、小さな便箋を何種類か置いていたのです。
祖母が言いました。
「メッセージつける?」
男の子は少し黙ってから頷きました。
そして便箋に何かを書き、折って、祖母に渡しました。
祖母はそれを花束に差し込みながら、うんうん、と何度も頷いていました。
そのあとで、祖母が私に言ったのです。
「お母さん、きっと退院祝いで喜ぶわねえ」
私は手を止めました。
「退院祝い?」
「そうよ。そんな感じだったじゃない」
でも私は、その子の口からそんな言葉は聞いていませんでした。
聞いていなかったというより、祖母が勝手にその先を受け取ったのだろうと思いました。
嫌な予感がして、私は店を出かけた男の子を追いかけました。
商店街の端で呼び止めると、その子は驚いた顔をしました。
「お母さん、退院したの?」
そう訊くと、その子は首を振りました。
「まだです」
私は胸のあたりが冷たくなりました。
「じゃあ、あの花は」
男の子は少しうつむいて、
「きょう、手術だから」
と言いました。
それから少し間を置いて、
「もし、終わったあと、すぐ話せなかったらいやだから」
と続けた。
その言い方が、あまりにまっすぐで、私はしばらく何も言えませんでした。
私は店へ戻って、祖母を責めました。
「どうして勝手に決めつけるの」
「もし変な伝わり方したらどうするの」
祖母は驚いたように目を丸くし、それからしょんぼりと椅子に座りました。
「ごめんね」
そう言ったきり、黙りました。
私は苛立ったまま、その日の店じまいをしました。
閉店後も、さっきの男の子の顔が頭から離れませんでした。
あの子の母親が便箋を読んで、そこに込められた不安より先に、祖母の勝手な明るさが伝わってしまったらどうするのか。
いや、そんな理屈よりも、もっと単純に、あの子の覚悟みたいなものを、祖母が軽くした気がして腹が立っていたのです。
翌朝、店に行くと、祖母はまだ来ていませんでした。
珍しいことでした。
嫌な予感がして家へ電話をすると、近所の人が出て、祖母が夜のうちに転んで、念のため入院したと告げました。
大事ではないが、しばらく安静だという。
私は受話器を置いて、しばらく何も考えられませんでした。
こういうとき、人は大きな悲しみより先に、昨夜きつく言ってしまった言葉の細部ばかり思い出すものです。
祖母が目を丸くした顔。
椅子に座るときの小さな音。
「ごめんね」の軽さ。
あれは軽かったのではなく、軽く言うしかなかったのかもしれない、と、そのとき初めて思いました。
昼すぎに病院へ行くと、祖母は思ったより元気そうでした。
額に小さな絆創膏を貼って、白い布団の上で少し所在なげにしている。
私は安心したくせに、うまく笑えませんでした。
祖母が先に言いました。
「店、大丈夫?」
私は、うん、とだけ答えました。
それから、しばらく沈黙がありました。
祖母は窓のほうを見たまま、
「昨日の子、どうだった」
と訊きました。
私は答えました。
「手術だったんだって」
祖母は目を閉じました。
「そう」
私はそのとき、責めるつもりで来たのではないはずなのに、なぜかまた少し怒っていました。
いや、怒りに似た、行き場のない後悔だったのでしょう。
「おばあちゃん、ちゃんと聞いてよ」
「勝手に良いほうに考えないで」
そう言うと、祖母は小さく笑いました。
「良いほうに考えてるんじゃないのよ」
「じゃあ何」
祖母は枕元の引き出しから、一通の封筒を出しました。
白い、何の変哲もない便箋でした。
宛名は、私。
「これ、もしものとき渡そうと思ってたの」
私は受け取って、すぐには開けられませんでした。
祖母は言いました。
「伝言ってね、うまくいかないのよ」
「言いたいことと、相手に届くことは、いつも少し違うの」
「だから手紙にしたの」
私は封を切りました。
中の字は、いつもの祖母の丸い字でした。
――あなたは、私が人の話をちゃんと聞かないと思っているでしょう。
――半分は当たりです。
――でも半分は違います。
――私はね、聞こえた言葉の先を、つい先に想像してしまうのです。
――あの人には、こうあってほしい。
――この子には、そうなってほしくない。
――その願いが、伝言を少しだけ曲げます。
そこまで読んで、私は息を止めました。
祖母は病室の白い布団の上で、ひどく小さく見えました。
手紙の続きには、こうありました。
――あなたが店に残ってくれたときも、私はほんとうは、ありがとうより先に、ほっとしました。
――けれど、ほっとしたと言うと、あなたの人生を縛る気がして言えませんでした。
――だから、余計な世話ばかり焼きました。
――花に便箋を添えるのが好きなのは、言いそびれたことを紙に逃がせるからです。
――あなたは私よりずっと正確で、ずっとまっすぐです。
――でも、少しだけ正確すぎます。
――人はたまに、事実より先に希望を受け取って、生きのびることもあるから。
私はそこで、昨日の男の子の花束を思い出しました。
退院祝いではなかった。
たしかに違った。
でも祖母は、あの子の言葉を軽くしたかったのではなく、その先にある「帰ってきてほしい」を、先に聞いてしまったのかもしれません。
最後の行には、こうありました。
――あなたが怒るのは、まじめだからです。
――でも、花屋は、まじめだけでは少し足りません。
――咲くかもしれない、を信じる人が一人くらいいないと、店が寒くなるから。
私は手紙を持ったまま、声もなく泣きました。
祖母は困ったように笑って、
「ほらね、だから口で言うより手紙がいいの」
と言いました。
その言い方があまりに昔のままで、私はなおさら泣けました。
三日後、私はあの男の子のもとへ、小さな花を届けに行きました。
商店街の人づてに病院と部屋番号を聞いたのです。
押しつけがましいかと思いましたが、行かずにいられませんでした。
病室の前でその子に会うと、彼は私を見るなり、小さく頭を下げました。
「この前は、ありがとうございました」
「お母さん、どう?」
と訊くと、その子は少しだけ笑いました。
「まだ痛そうだけど、花、よろこんでました」
それから照れたように続けました。
「便箋も、何回も読んでた」
私はその瞬間、胸のどこかにあたたかい水が静かに満ちるのを感じました。
伝言は、ときどき間違う。
言い方は、たいてい足りない。
けれど、願いまでが間違うわけではないのだと、ようやく分かったのです。
祖母が退院して店へ戻ってきた日、私は店先のバケツを一つ増やしました。
白いスイートピーと、薄い桃色のガーベラを少し多めに入れた。
祖母はそれを見て、
「まあ、春みたい」
と笑いました。
私は手紙をエプロンのポケットに入れたまま、水を替えました。
商店街には夕方の光が斜めに差して、通りすがりの人の影を長くしていました。
高校生が一本だけカーネーションを買っていき、年配の男の人が仏花を選び、赤ん坊を抱いた若い母親が店先の鉢植えをのぞいていました。
祖母はまた何かを少し言い違え、私はそれを聞いて、前より少しだけゆっくり訂正しました。
それで十分な気がしました。
希望というのは、正しい言葉でだけ届くものではないのでしょう。
少し曲がって、少しにじんで、それでも誰かの手に渡ることがある。
今、レジの横には小さな便箋が置いてあります。
花束に添えるためのものです。
祖母はそこへ、相変わらず余計な一言を勧めたがります。
私はもう、前ほどそれを嫌だと思いません。
たぶん、花屋には必要なのです。
事実を確かめる人と、咲くかもしれない先を信じる人、その両方が。
店じまいのあと、私は売れ残った白い花を少しだけ包んで、祖母の自転車のかごへ入れました。
祖母はそれを見つけて、
「あら、だれにもらったのかしら」
と、とぼけたことを言いました。
私は笑って、
「伝言ミスじゃない?」
と言いました。
祖母も笑いました。
その笑い方は、前より少しだけ、許しを乞うものではなくなっていました。
夜の商店街は静かで、街灯の下を、花の匂いだけがかすかに残っていました。
私はシャッターを下ろしながら思ったのです。
明日もきっと、誰かが花を買いに来る。
言いそびれたことや、間に合わなかった言葉や、それでもまだ渡したい気持ちのために。
そのたびに便箋を一枚、そっと添えればいい。
小さな希望というのは、たぶん、そのくらいの手つきで生き残るのです。


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