母が倒れたと連絡を受けたのは、三者面談の最終日だった。
午後六時を少し回っていた。
職員室の窓の外はもう暗く、校庭の端にある桜の枝だけが、街灯にうすく照らされて白く浮いていた。
私は中学校で国語を教えている。
言葉を扱う仕事だ。
なのに、いちばん大切な相手に対してだけ、私はいつも言葉を節約した。
いや、節約なんて上品なものではない。
面倒だったのである。
説明するのも、やさしく言うのも、相手の寂しさに気づいたふりをするのも、何もかも。
忙しい、の一言で済ませるほうが、ずっと楽だった。
その日も、面談が終わってから保護者への記録をまとめ、明日の小テストを印刷し、学年主任に頼まれた書類を一つ返し、ようやく椅子に座り直したところだった。
スマートフォンが震えた。
妹からだった。
嫌な予感というものは、たいてい鳴る前から胸のどこかにいる。
「お母さん、救急車で運ばれた」
それだけだった。
私はすぐに立ち上がったはずなのに、次の瞬間には机の前で立ち尽くしていた。
ペンをキャップにはめ、散らばったプリントをそろえ、パソコンを閉じ、引き出しに鍵をかけた。
ばかみたいだと思う。
母が倒れたと聞いたその直後に、私はいつも通りの後始末をしていた。
けれど人間というのは、ほんとうに怖いことに触れた瞬間、かえって日常の手順にしがみつくものらしい。
そうでもしなければ、自分が崩れてしまうのだろう。
タクシーに乗ると、住宅街の夕暮れが窓の外をすべっていった。
狭い道を、自転車に乗った親子が帰っていく。
買い物袋をぶら下げた女の人が、坂の途中で立ち止まって、家の鍵を探している。
どこかの家から味噌汁の匂いが漂ってきそうな、そんな時間だった。
母は、ああいう灯りの一つだったのだと思う。
帰れば、当たり前みたいに点いている灯り。
消えることなど考えたこともない灯り。
病院の廊下は、やけに白かった。
白い床、白い壁、白い照明。
清潔というより、余分なものを削ぎ落として、人をただの不安にしてしまう白さだった。
妹は待合の椅子に座っていて、私の顔を見るなり立ち上がった。
「脳梗塞だって。命は助かった。でも、しばらく入院」
その「助かった」という言葉だけが、まるで遠くの部屋で誰かが言っているみたいに聞こえた。
間に合った、と思うべきなのに、私はうまく頷けなかった。
病室に入ると、母はベッドに横たわっていた。
酸素の管、点滴、白い布団。
それらに囲まれているせいか、母はいつもよりずっと小さく見えた。
あんなに大きな声で私を叱っていた人が、こんなふうに静かになるものかと、私は妙なところで腹を立てた。
母は目を開けて、こちらを見た。
何か言おうとして、うまく言えないらしかった。
唇だけが少し動き、眉がかすかに寄る。
責めているようにも、安心しているようにも見える、曖昧な顔だった。
私は、その曖昧さに耐えられなかった。
はっきり怒ってくれたほうが楽だった。
おまえは冷たい息子だ、と。
忙しいを言い訳にして、歩いて十五分の実家にもろくに顔を出さない薄情者だ、と。
だが母は、そういうことを言わない人だった。
昔から、そうだった。
私が高校で遅く帰れば、「先に食べてるね」とだけ書いたメモが食卓に置いてあった。
大学受験に失敗したときも、「次があるでしょ」としか言わなかった。
慰めるでもなく、責めるでもなく、ただこちらが自分の情けなさに気づく余白だけを残す。
あの静けさは、優しさだったのだろう。
若いころの私は、それを物足りないと思っていた。
勝手なものである。
親にはいつだって、自分の欲しい形の愛情だけを求めてしまう。
母とは、ここのところまともに話していなかった。
実家は同じ住宅街にあるのに、私は仕事を理由に何週間も寄らなかった。
「近いんだから、たまには晩ごはん食べに来なさい」
母は電話でそう言った。
私は決まって、「今ちょっと忙しいから」と返した。
忙しい。
なんと便利な言葉だろう。
相手を切り捨てているのに、切り捨てていない顔ができる。
しかも教師という仕事は、その言い訳に妙な正当性を与えてくれる。
生徒のため、学校のため、保護者のため。
立派な看板はいくらでもある。
だが、その看板の裏で、私はただ、自分の疲れを誰にも触らせたくなかっただけだ。
家に帰ってまで誰かの気持ちを受け止める余裕がなかった。
だから母の「来なさい」は、いつの間にか「無理しなくていいよ」に変わった。
私はそれを、理解だと思っていた。
今にして思えば、あれは諦めだったのだ。
入院して四日目、私は母の着替えを取りに実家へ寄った。
鍵を開けると、冷えた台所の匂いがした。
醤油と洗剤と、少し古くなった布巾の匂い。
生活の匂いというのは、不思議なもので、そこに人がいないほど濃く感じられる。
母の家なのに、母だけがいない。
その事実が、部屋の隅々にまでしみていた。
食卓の上には、几帳面に畳まれた買い物袋と、飲みかけの麦茶のコップがあった。
窓際には、小さな鉢植えのしおれかけた葉。
流しには、すすいだだけの茶碗が伏せてある。
倒れる直前まで、母はいつも通りに暮らしていたのだろう。
いつも通りの途中で、人は急に倒れる。
それが怖かった。
引き出しから下着を取り出そうとして、私はふと食卓の端に目をやった。
花柄の便箋があった。
母が昔から使っていたものだ。
特別高い品でもないのに、「これ、書きやすいのよ」と言って長年買い足していた。
その便箋の下に、白い封筒が半分はさまっていた。
表には、私の名前。
――啓介へ。
胸の奥が、鈍く鳴った。
封はされていなかった。
中の便箋を開くと、母の字があった。
『このあいだ、忙しいのに電話してごめんね』
最初の一行だけで、私はもう先へ進めなくなった。
わざわざ謝らせたのは私だった。
私は台所の椅子に座り直した。
冬の光が、レースのカーテンを通して白く床に落ちている。
その明るさだけが、やけに残酷だった。
便箋の続きを読む。
『お母さん、少しさびしかっただけです』
その「少し」が、胸に刺さった。
人はほんとうに寂しいときほど、大げさに言わない。
むしろ、少し、とか、たまに、とか、そんな控えめな言葉に身を隠す。
『先生のお仕事は大変なんだろうと思います。子どものことも、親御さんのことも、いろいろ考えて、疲れて帰ってくるのでしょう。だから責めるつもりはありません』
私は目を閉じた。
責めないでくれることが、こんなにも苦しいとは思わなかった。
子どもの頃、私は弁当箱の蓋を開けるのが少し好きだった。
母の弁当は、別に洒落ていたわけではない。
茶色いおかずが多く、見栄えも地味で、今の時代ならSNS映えとは正反対だろう。
けれど真ん中に入った卵焼きだけは、いつも妙に明るかった。
甘い卵焼きだった。
私はそれが好きだった。
だが中学に上がったころ、友達に「おまえんちの卵焼き、甘いやつ?」とからかわれて、急に恥ずかしくなった。
ある朝、台所で私は母に言った。
「もう甘いのやめてよ。子どもっぽい」
言った瞬間、母はフライパンの前で一拍だけ黙った。
それから、「そう」と答えた。
次の日から、卵焼きはしょっぱくなった。
私はそのことを、長いあいだ忘れていた。
忘れていた、というより、自分のほうから思い出さないようにしていたのだろう。
便箋には、こう続いていた。
『今度、時間ができたら、卵焼きを作るから来てください』
そこで、私はとうとう泣いた。
声は出なかった。
ただ、鼻の奥が熱くなって、視界だけがぼやけた。
卵焼きなんて、どこにでもある。
母のほうだって、たいした意味は込めていなかったのかもしれない。
それでも、私は知ってしまった。
あの人はまだ、私のために卵を割るつもりでいたのだ。
自分も年を取り、体も思うように動かなくなってきたのに、それでも台所に立って、私のために何かを作ろうとしていた。
親というのは、つくづく損な生き物である。
報われるかどうかも分からない相手のために、いつまでも台所の火を消しきれない。
私は涙のにじむ目のまま、なんとなくスマートフォンを開いた。
母とのメッセージ履歴は、驚くほど味気なかった。
『今日は行けない』
『今週も無理そう』
『また連絡する』
そればかりだった。
まるで宅配便の再配達みたいな文面だな、と私は思った。
人の心を、ここまで事務連絡にできるものか。
その履歴の下のほうに、送っていない下書きが一通残っていた。
先月の日付だった。
深夜一時二十七分。
私はしばらくそれを見つめ、それから開いた。
『今度の日曜、そっち行く。卵焼き食べたい』
未送信メールだった。
書いた記憶さえ、ほとんどなかった。
たぶんその晩、私は珍しくひどく疲れて、少しだけ家に帰りたくなったのだろう。
帰る家は自分のアパートなのに、それとは別に、母のいる家へ帰りたかったのだろう。
けれど私は、送らなかった。
たったそれだけのことができなかった。
誇りとか遠慮とか、そんな立派な理由ではない。
翌朝になって、恥ずかしくなったのだと思う。
三十を過ぎた男が「卵焼き食べたい」なんて送るのは、間が抜けている気がしたのだ。
私は大人になってからのほうが、よほど臆病だった。
病院へ戻ると、母は起きていた。
窓の外はもう薄暗くなっていた。
冬の夕方は早い。
私は黙ってベッドのそばに座り、便箋を見せた。
母は一度目を伏せた。
照れたのか、見られたくなかったのか、その両方かもしれない。
「読んだ」
私はそれだけ言った。
母は小さく頷いた。
それから私は、スマートフォンを開いて、あの未送信メールの画面を母に見せた。
「これも、あった」
母は画面をじっと見つめた。
字を追うのに少し時間がかかった。
やがて、その口元がほんの少しだけ緩んだ。
笑った、のだと思う。
ほんとうにわずかな変化だった。
けれど、私はその笑いで駄目になった。
声を立てないように唇を噛んだのに、肩が勝手に震えた。
情けないと思った。
母の前で泣く年でもない。
教師が、こんなふうにぐずぐず泣いてどうする。
けれど、そのときの私は教師でも何でもなく、ただ母親に優しくされ損ね続けた息子でしかなかった。
「ごめん」
ようやく出た言葉は、それだった。
「忙しいって、何回も言って。ほんとは、そんなに会えないわけじゃなかった」
母は静かに聞いていた。
責める顔をしなかった。
その代わり、布団の上に出ている右手を、少しだけ持ち上げた。
私はその手を握った。
昔、熱を出したときに額へ触れてくれた手より、骨ばって軽かった。
「退院したら」
私は言った。
「日曜、行くよ」
一度息を飲み、続けた。
「毎週は無理かもしれない。でも、月に二回は必ず行く。ちゃんと行く。今度は送るだけじゃなくて、行く」
母は瞬きを二度して、それから布団の上を、とん、とん、と指先で叩いた。
子どもの頃、私が泣いて帰ってきたとき、背中をあやすように叩いてくれたのと同じ調子だった。
約束、というものは、守るためにするのだと思っていた。
もちろん、それはそうだろう。
けれどあの日、私は少しだけ別のことを思った。
約束とは、過去を消せない人間が、それでも未来に向かって差し出せる、いちばん小さな赦しなのかもしれない、と。
言いそびれた言葉は戻らない。
行かなかった日曜日も戻らない。
母が一人で食べた夕飯の時間も、私が知らないまま過ぎた寂しさも、もう取り返せない。
それでも次の一回を決めることはできる。
それだけが、私たちに残された救いなのだろう。
春の初め、母は退院した。
まだ長く立っているとふらつくから、台所仕事はほとんど私がやることになった。
卵焼きも、私が作る。
最初はひどいものだった。
砂糖を入れすぎて甘ったるくなったり、火が強すぎて表だけ焦がしたり、巻こうとして真ん中から破れたりした。
母は横の椅子に座って、それを見て笑った。
「不器用」
退院してから初めて、母がはっきり言った悪口だった。
私はなぜか、ものすごく救われた。
「そっちが教えないからだろ」
そう返すと、母はもう一度笑った。
その笑い声は、病室で聞いたかすかな息みたいな笑いより、ずっと生きていた。
住宅街の夕方は、相変わらず静かである。
どの家の灯りも、それぞれの事情を抱えながら点いている。
しあわせそうに見える家にも、きっと言いそびれた言葉や、飲み込んだ後悔があるのだろう。
それでも人は、食卓に湯気を立て、誰かを待ち、待ちきれずに先に食べ、また次の日を迎える。
たぶん、暮らすというのは、その繰り返しだ。
私は今でも、ときどきあの未送信メールを開く。
『今度の日曜、そっち行く。卵焼き食べたい』
もう送る必要のない文だ。
けれど消せない。
あれは、送れなかった恥ではない。
私がようやく母に向かって歩き出す前の、最初の下書きだったのだ。
今では日曜になると、私は卵を三つ割る。
母は横で、「砂糖はその半分」と口を出す。
私は「分かってる」と言いながら、たいてい少し多く入れてしまう。
甘すぎる、と母は言う。
でも、ちゃんと食べる。
私はそのたび、ああ、まだ間に合っている、と思う。
そして、次の日曜もまた来ようと、静かに約束するのである。


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