海辺の町で配達員をしていると、時間というものが、潮みたいに満ちたり引いたりするのがわかる。
朝はパン屋と魚屋と学校が町を急がせ、昼は少し緩み、夕方になると今度は、仕事帰りの惣菜や、病院帰りの薬や、酒屋の缶ビールが、それぞれの暮らしの重さで人を急かす。
私はその急かされ方に、もうだいぶ慣れてしまった。
慣れた、というのは便利な言葉で、だいたいの場合、ほかにやりようがないことを、どうにか生活へ馴染ませた時に使う。
この町に戻ってきたのも、たぶんそういう種類の慣れだった。
父が倒れた、と聞いたのは三年前の冬だった。
東京で働いていた私は、その時ちょうど、何者にもなれない自分を、都会のせいにするのにも疲れていた。
営業の仕事は向いていなかったし、人に頭を下げること自体が嫌だったわけではないが、頭を下げたあとで、自分がだんだん薄くなる感じだけはどうにも好きになれなかった。
上司の機嫌を読み、客先の顔色を見て、毎晩、帰りの電車でだけ少し黙る。
ああいう暮らしを続けていると、人は疲れるより先に、自分の輪郭が曖昧になる。
そんな時、実家の近所のおばさんから電話があった。
父が港で倒れて、しばらく入院したのだという。
命に別状はないけれど、一人暮らしは少し心配だとも言われた。
私は戻った。
親孝行だったとは思っていない。
あの頃の私は、自分の失敗に、ちょうどよく「家族」という名前の理由をかぶせたかっただけかもしれない。
人間はときどき、情の厚さではなく、逃げ道の都合でやさしい顔をする。
私はそういう種類の息子だった。
父は昔から無口で、言い方の悪い人だった。
漁師ではなく、港の荷役を長くやっていたくせに、手はごつごつしていて、声も無駄に低かった。
私が子どもの頃、運動会に来ても、頑張れなどと気の利いたことは言わない。
「転ぶなよ」
とか、
「弁当こぼすな」
とか、そういうことしか言わない。
中学生になって反抗期らしい反抗期が来た時も、怒鳴るでもなく、ただ私の部屋の前で、
「飯が冷める」
と言っただけだった。
今なら、それがあの人なりの気遣いだとわかる。
だが当時は、もっとちゃんとした父親の台詞がほしかった。
息子というものは、親の不器用さを、ずいぶん長いあいだ怠慢だと誤解する。
私もそうだった。
実家は海から歩いて五分の、古びた平屋だった。
潮風で網戸がすぐ錆び、洗濯物にはいつもうっすら塩の匂いが移る。
夏には畳が湿気を吸って重くなり、冬には隙間風が廊下を細く走った。
台所の窓からは港のクレーンが見え、早朝には船のエンジン音が低く響いた。
父は退院してからも足腰が弱り、前みたいに重いものは持てなくなっていた。
それで私は、町の配送会社に入った。
軽ワゴンで、食料品や書類やネット通販の段ボールを配る仕事だった。
向いているとも、向いていないとも思わなかった。
ただ、荷物を決まった場所に運ぶ、という仕事は、私には少しだけ救いだった。
何をすればいいかが明確で、終わればちゃんと空になる。
人間関係みたいに、渡したあとまでぐずぐず尾を引かない。
もっとも、家へ帰れば父がいたから、結局、人生の尾はそこでいくらでも引いたのだけれど。
父は退院後、妙に古い携帯電話を大事にしていた。
折りたたみ式の、角がすり減った銀色の携帯だった。
画面は小さく、着信音も時代遅れで、ボタンの数字は長年の指の癖で少し薄くなっていた。
私がスマホに変えたほうがいいと言っても、
「これで足りる」
の一点張りだった。
実際、電話をかける相手など、通院先と町内会の連絡網くらいしかなかったはずである。
それなのに父は、その携帯をいつも枕元へ置き、風呂へ入る時まで脱衣籠の上に乗せていた。
私はそれを、年寄りの変な執着くらいに思っていた。
もしかすると、古い機械に自分の時間が残っている気がしたのかもしれないが、当時の私は、そんなことまで想像する余裕がなかった。
ある春の夕方、私は仕事から戻って、父にきつい言い方をした。
配達の途中で、父から着信が三回入っていたのである。
その日は朝から荷物が多かった。
不在票を入れたばかりの家から十分後に再配達を頼まれ、坂の上のアパートではエレベーターが故障していて、二リットルの水を箱ごと四階まで運んだ。
途中で雨まで降ってきて、コンビニで買ったおにぎりは車のシートの上でぐしゃりと潰れた。
忙しさというものは、人を立派にするどころか、たいてい、声だけを荒くする。
私はその日も見事に荒かった。
折り返しても父は出ず、急いで帰ってみれば、父は何事もなかったように茶を飲んでいた。
窓の外には夕方の海が少し光っていた。
その静けさが、私は妙に癪だった。
「何だったの」
と私が訊くと、
「いや、ちょっとな」
と父は曖昧に言う。
「ちょっとじゃわからないよ」
父は黙っていた。
「仕事中なんだよ、こっちは。急ぎでもないのに何回も電話しないでくれないか」
言い終わったあとで、少しだけ言いすぎたと思った。
けれど人は、少しだけ思った程度では、なかなか謝れない。
父は湯呑みを持ったまま、しばらく海のほうを見ていた。
それから、
「そうか」
と言った。
それだけだった。
その「そうか」が、妙に冷たく聞こえて、私はさらに腹が立った。
腹が立つというのも、ずいぶん怪しい感情である。
ほんとうは、相手を傷つけたかもしれないと気づいた時の居心地の悪さを、怒りの形へ塗り替えているだけのことが多い。
私もたぶん、そうだった。
それから父は、あまり私に電話をしなくなった。
必要なことはメモに書き、通院の日も自分でタクシーを呼んだ。
冷蔵庫に「牛乳」とだけ書いた紙が貼られ、居間の卓袱台には「薬飲んだ」と走り書きが残るようになった。
私はそれを、こちらに気を使うようになったのだろう、と軽く考えていた。
いや、軽く考えようとしていた。
深く考えると、自分の言葉のまずさまで掘り当ててしまうからである。
夏の終わり、父はまた倒れた。
今度は夜中だった。
トイレへ立ったあと、廊下でうずくまっているのを私が見つけた。
裸足の足先が、妙に小さく見えた。
救急車を呼び、病院へ運ばれ、入院になった。
大事には至らなかったが、心臓がかなり弱っているのだと医師は言った。
私はうなずきながら、白い説明室の机の木目ばかり見ていた。
人は本当に嫌な話を聞く時、相手の顔より、どうでもいい細部へ逃げる。
父は入院してから、前よりさらに無口になった。
私は仕事のあと病院へ寄ったが、会話は長く続かなかった。
水は足りているか、痛みはどうか、明日また来る、そんなことしか言えない。
父も、ああ、とか、別に、とか、そういう返事しかしない。
家族というものは、長く一緒にいるわりに、肝心な時ほど素人になる。
ある日、看護師さんに呼ばれて、父の荷物を整理してほしいと言われた。
ベッド脇の棚に、あの古い携帯があった。
充電器と一緒に、小さなビニール袋へ入れられている。
私は何気なく電源を入れた。
パスコードも何もない、昔の携帯である。
待ち受けは、波打ちぎわの写真だった。
よく見ると、子どものころの私が写っていた。
砂浜でしゃがみこんで、たぶん貝でも拾っている。
半ズボンの膝が砂だらけで、海は後ろで白く光っていた。
私はその写真を見た瞬間、息が止まった。
こんなもの、知らなかった。
さらに操作していると、録音データの一覧が出てきた。
何本もあった。
日付はばらばらで、短いものが多い。
私はためらった。
見てはいけない気もした。
だが、見てはいけないと思った時点で、人はもう半分見ている。
私はいちばん新しい録音を再生した。
雑音のあと、父の声がした。
低くて、少し掠れた声だった。
『……もしもし』
そこで少し沈黙があった。
『いや、出んでもいい。仕事中だろうから』
私は、その一言で、胸の奥がひやりとした。
録音は続いた。
『別に急ぎじゃない。ただな』
また沈黙。
『今日は海がきれいだったから、おまえにも見せたかっただけだ』
私は再生を止めた。
止めて、もう一度最初から聞いた。
出んでもいい。仕事中だろうから。
今日は海がきれいだったから。
たったそれだけのことを、父は電話しようとして、出なかった息子に向かって、録音に残していたのである。
ほかの録音も聞いた。
『薬、飲んだから心配するな』
『この前くれた魚の煮つけ、しょっぱかったが、まあ食えた』
『港の猫がまた子ども産んでた』
『おまえ、寝不足みたいな顔してたぞ』
『雨が強いから、帰り気をつけろ』
どれもこれも、用件というほどの用件ではなかった。
ただ、言葉にしておきたかっただけの、小さな日常だった。
そして、そのどれもが、私へ向けられていた。
私が忙しいから出ないかもしれないと、最初からわかったうえで。
私は病室の椅子に座ったまま、動けなくなった。
父はうるさく電話していたのではなかった。
話したかったのだ。
いや、話すというより、私のいない時間へ、自分の声を少しだけ置いておきたかったのかもしれない。
私はそれを、邪魔だと思った。
そう思って、あんな言い方をした。
言葉というものは、一度相手に届いてしまうと、あとからこちらだけ後悔しても、なかなか回収できない。
私は泣いた。
病院の廊下では、面会時間の終わりを知らせる放送が流れていた。
誰かのスリッパの音が近づいて、遠ざかった。
そういうありふれた音の中で、私は父の録音を何度も聞いた。
海がきれいだったから、おまえにも見せたかっただけだ。
その不器用な一言が、胸のいちばんやわらかいところへ、妙にまっすぐ入ってきた。
翌日、私は父の病室へ行って、携帯をベッド脇へ置いた。
父は私の顔を見て、少しだけ眉を動かした。
「聞いた」
と私は言った。
父はしばらく黙っていた。
「勝手に」
「うん」
「そうか」
またその言い方だった。
けれど今度の私は、その「そうか」の中に、照れくささが混じっているのを、ちゃんと聞いた。
私は椅子に座って、手を膝の上で握った。
「この前、ごめん」
父は窓の外を見た。
海はここからは見えない。
見えないくせに、夕方の光だけが、海のある町の色をしていた。
「仕事中に電話されるの、嫌だったんじゃない」
私は言った。
「たぶん、ちゃんと出られない自分が嫌だった」
父は何も言わなかった。
だが、黙ったまま、親指だけが布団の上で少し動いた。
私は続けた。
「でも、もう少し、出る」
「無理して出んでいい」
父は低い声で言った。
「いや、出るよ」
私は笑った。
「海がきれいだった時くらいは」
父はそのとき初めて、少しだけ笑った。
ひどく小さい笑いだった。
笑ったというより、口元の意地が一瞬ほどけただけかもしれない。
それでも私には、十分だった。
退院してから、父は前より弱った。
坂道を歩く速度も遅くなり、湯呑みを持つ手も少し震えるようになった。
けれど私たちは、ときどき短い電話をするようになった。
仕事中で出られない時は、あとで折り返した。
急ぎの用事は少なかった。
今日の海が明るいとか、港の猫がまた魚をもらっていたとか、庭の朝顔がひとつ咲いたとか、その程度のことばかりだった。
ある日、配達の途中で車を停めて、私は防波堤の向こうの海を見ながら父に電話をしたことがある。
「今日は、そっちも青いよ」
と言うと、父は受話器の向こうで、
「海はだいたい青い」
と言った。
私は笑ってしまった。
あの人は最後まで、そういう言い方しかできなかった。
だが、そういう言い方の奥にあるものを、私はようやく拾えるようになっていた。
父が亡くなったのは、その翌年の初夏だった。
朝、配達へ出る前に、父の部屋をのぞいたら、眠るように息をしていなかった。
苦しんだ様子はあまりなかった。
窓が少し開いていて、潮の匂いが、部屋の中へ静かに入っていた。
枕元の携帯は閉じられたまま、いつもの場所にあった。
私は救急へ連絡し、母方の叔母へ電話し、それから、何をしたらいいのかわからなくなって、父の携帯を握った。
折りたたみの角が、掌にあたって少し痛かった。
葬儀が終わったあと、私は海辺へ行った。
子どもの頃、父に連れられてよく歩いた防波堤だった。
携帯には、最後の録音が残っていた。
亡くなる二日前の日付だった。
私は波の音を聞きながら、それを再生した。
『もしもし』
少し息が荒かった。
『今日は、風が強い』
沈黙。
『まあ、おまえは仕事だろうから、聞けたらでいい』
また沈黙があって、それから、ひどく小さな声で、
『また、海、見に行くべ』
と入っていた。
その「べ」という言い方が、子どものころのままだった。
私はもう、それで駄目だった。
海辺で、いい大人が、古い携帯を握って泣いているのである。
ずいぶん間の抜けた光景だと思う。
けれど人を泣かせるのは、立派な遺言ではない。
こういう、言いそびれた約束のほうが、よほど長く残る。
私は泣きながら、空へ向かって小さく言った。
「行くよ」
誰に聞かせるでもなく。
「今度はちゃんと出るし、ちゃんと行く」
風が強くて、言葉はすぐ波のほうへ流れた。
それでも、約束というものは、相手がもういなくても、こちらの中では生きるらしい。
今でも配達の途中、海が妙にきれいな日がある。
そういう日は車を止めて、ほんの少しだけ眺める。
父へ電話をかけることは、もうできない。
けれど私は、ポケットの中のスマホに触れながら、あの古い携帯の着信音を思い出す。
忙しさの中で払いのけてしまった、小さな呼びかけの音を。
人は、愛されている時より、愛されていたとわかった時のほうが、深く泣くのかもしれない。
だが、その涙のあとでしか見えない海も、たしかにある。
波は今日も、何事もない顔で寄せては返す。
私はその前に立って、少しだけ待つ。
いつかまた、海がきれいだからと、誰かに電話をかけたくなる日のために。


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