父に進路を言えなかったのは、反対されるのが怖かったからではない。
本当は、少し違う。
反対されるのが怖いというより、反対されたときに、私はたぶん傷ついた顔をするだろうと思っていた。
その顔を父に見せるのが、嫌だったのだ。
中学校の教師になって十年になる。
教科は国語だ。
教室の後ろで腕を組み、思春期の子どもたちが、わざと乱暴な言葉で自分を守るのを見ていると、ああ、人は若いころからこんなふうに下手なのだなと思う。
好きなものほど茶化し、大切なことほど黙る。
進路の話になると、なおさらだ。
私はいま、三年生の担任をしている。
教室には受験の空気が張りつき、廊下には進路希望調査の紙の匂いまで漂っている気がする。
子どもたちは「別にどこでもいい」とか「親がうるさい」とか言いながら、本当はだれよりも、自分のこれからに怯えている。
その顔を見るたび、私は十七歳の春先を思い出す。
桜並木の下を、自転車を押して帰った、あの夕方のことだ。
父は、口数の少ない人だった。
町工場で長く働き、油のにおいを身につけて帰ってくる。
夕飯の席でも、こちらの話をふんふんと聞いているのかいないのか分からない顔をして、味噌汁を飲む。
怒ると怖い、というより、沈黙が重い人だった。
言葉で殴る人ではない。
ただ、何も言わないことでこちらを黙らせてしまうような、そういう父だった。
母は私が中一のときに亡くなった。
それから父と二人になった家は、ずいぶん静かになった。
静か、というのは便利な言い方で、要するに会話が減ったのだ。
父は弁当を作るような器用な人ではなかったから、朝はいつも千円札を食卓に置いて仕事へ行った。
その横に、たいてい短いメモが添えてあった。
『昼ちゃんと食え』
とか、
『帰りに牛乳』
とか、そんなものだ。
私はそれを定期券入れの裏にしまい、学食か購買で済ませた。
父なりに困らせまいとしてくれていたのだろうが、当時の私は、その千円札の薄さにばかり傷ついた。
弁当のある友達が羨ましかった。
「今日、卵焼きしょっぱい」とか笑っている声を聞くたび、どうしようもなく惨めになった。
父が悪いわけではない。
そんなことは分かっていた。
分かっているのに、私は家へ帰ると、必要以上に無愛想になった。
父もまた、私のそういう顔に、何も言わなかった。
言えなかったのだろう。
母がいたころは、家の中の言葉の柔らかい部分を、たいていあの人が受け持っていたからだ。
進路の話が出たのは、高校二年の冬だった。
担任は、国立大学を勧めた。
成績的には狙える、と。
私は国語が好きで、教師にも少し憧れていた。
授業がうまくいった日の先生の背中が、ずっと格好よく見えていたのだ。
けれど、大学へ行くには金がかかる。
奨学金という手もあるにはあったが、私はそれを父に言い出せなかった。
言えば、きっと父は困った顔をするだろうと思った。
その困った顔を見るくらいなら、最初から自分で諦めたほうがましだと、十七歳の私はずいぶん安い英雄気取りをしていた。
だから私は、父に何も言わず、地元の採用が決まっていた市役所の事務補助の求人票を持ち帰って、そこを受けるつもりでいた。
進学の話は、先生にも、友達にも、曖昧に笑ってごまかした。
「まあ、家のこともあるし」
そう言うと、大人たちはたいてい黙った。
家のこと、という言葉は便利だ。
本音を隠すための、少し汚い毛布みたいなものだ。
三学期の進路面談の日も、父は来られなかった。
仕事だと言っていた。
本当に仕事だったのだろう。
でも私は、少しだけ、逃げられたような気持ちになった。
母がいたころは、学校のことも、進路のことも、あの人が間に入ってくれていた。
父と私は、真正面から大事な話をするには、少し不器用すぎたのだ。
卒業が近づくころ、学校で卒業文集を書く時間があった。
将来の夢、三年後の自分、家族への言葉。
そういう、恥ずかしくて誰にも見せたくない欄がたくさんあった。
私はそのとき、なぜだか「将来、中学校の先生になりたい」と書いた。
書いてから、しまったと思った。
そんなもの、叶う見込みもないくせに、と。
だが書いてしまったものは消せず、文集はそのまま製本された。
卒業式の日、私は担任からそれを受け取り、鞄の底へ突っ込んだ。
家に帰っても開かなかった。
開けば、そこに書いた自分の本音を見なければならないからだ。
あの春、私は結局、市役所の補助職ではなく、県外の私立大学を受けた。
黙って受けた。
担任に強く背中を押されたのと、母方の伯母が少しだけ学費を貸してくれると言ってくれたからだ。
それでも父には言えなかった。
合格通知を鞄に入れたまま、何日も家の中をうろうろした。
夕飯のあと、父が新聞をたたむたびに、いま言うべきかと考えた。
だが、いざ喉元まで来ると、言葉は引っ込んだ。
父は何も聞かなかった。
聞かないことが、当時の私には無関心に見えた。
どうせ期待されていないのだと思った。
だから私は、進学先も、上京の日取りも、ぎりぎりまで黙っていた。
言ったのは、出発の三日前だった。
夕飯のあと、湯呑みの横に大学の書類一式を置いて、
「これ、受かったから」
とだけ言った。
父はしばらく黙っていた。
その沈黙があまりに長く感じられて、私はすぐに後悔した。
やはり困らせた、と思った。
けれど父が言ったのは、予想と違う一言だった。
「そうか」
それだけだった。
怒りもしない。
驚きもしない。
嬉しそうでもない。
ただ、いつもの低い声で「そうか」と言って、書類を一枚ずつ見た。
私はその淡々とした様子に、ひどく傷ついた。
ああ、この人には、私がどこへ行こうが、たいして関係ないのだと思った。
その夜、風呂上がりに居間を通ると、父が一人で書類を読み返していた。
けれど私は声をかけなかった。
向こうも何も言わなかった。
私たちはたぶん、そのとき二人そろって、言うべきことを取り逃がしたのだ。
だから出発の朝も、私はほとんど喋らなかった。
駅まで送る、と父は言ったが、断った。
断ったというより、
「いい」
とだけ言った。
父はそれ以上、何も言わなかった。
私はその沈黙を、また勝手に冷たさだと受け取った。
桜並木を一人で歩いて駅へ向かった。
春の朝で、風が少し冷たかった。
定期券入れの中には、高校までの通学定期がまだ入っていた。
もう使わないのに、捨てられなかった。
改札の前でそれを指で押しながら、私は少し泣いた。
だれにも見られたくない泣き方だった。
ホームへ上がる階段の途中で、一度だけ振り返った。
父はいなかった。
その不在が、若い私には決定的なものに思えた。
東京へ出て、大学へ通い、奨学金を返し、教師になった。
父とは、年に数回会うだけの関係になった。
電話も短かった。
元気か。
まあな。
そんなものだ。
悪くはないが、近くもない。
私はずっと、あの日の「そうか」を引きずっていた。
肯定でも反対でもない、あの薄い返事を。
父が死んだのは、一昨年の春だった。
心臓だった。
あっけない、という言葉は死に際してよく使われるが、本当にそうとしか言いようがなかった。
工場を退いてから少し丸くなった背中が、もう二度と玄関から入ってこないのだと思うと、現実のほうが現実らしくなかった。
葬儀を終え、実家を片づけていたとき、押し入れの衣装ケースの奥から、私の卒業文集が出てきた。
見覚えのある、安っぽい青い表紙だった。
どうして父がこんなものを取っていたのか、最初は分からなかった。
私は居間に座り、その文集をぱらぱらとめくった。
友達の将来の夢、担任の寄せ書き、下手なイラスト。
そして自分のページで、手が止まった。
「将来の夢 中学校の先生」
その見出しの横に、細い鉛筆の書き込みがあった。
父の字だった。
右下の余白に、たった一行。
『知っていたら、もっとちゃんと送ったのに』
私はそれを見た瞬間、息ができなくなった。
文集を持つ手が震えた。
父は知っていたのだ。
少なくとも、私が先生になりたかったことを、この文集で知ったのだ。
そして、あの出発の日にはもう、遅かったのだろう。
私はその一行を何度も読んだ。
知っていたら。
もっとちゃんと。
送ったのに。
その「送る」が、何を意味していたのか、私は考えた。
駅まで行くことだったのか。
金のことを何とかすることだったのか。
頑張れと一言、言うことだったのか。
たぶん全部なのだろう。
そして私は、その全部を父から奪ったのだ。
黙っていたからだ。
傷つきたくないという、あまり立派でもない理由で。
文集のあいだから、古い定期券が一枚落ちた。
私の高校時代の通学定期だった。
期限の切れた、擦り切れた一枚。
裏に、父の字で小さく駅名が書いてあった。
上京前、乗り換えの確認でもしたのかもしれない。
あるいは、私がいつも通っていた路線を、あとで見返したかったのかもしれない。
父はそれまで取ってあったのだ。
私はそこでとうとう泣いた。
父のいない居間で、文集と定期券を抱えたまま、声を殺して泣いた。
あの日、駅へ行かなかったのは父の無関心ではなかった。
私が断ったからだ。
「そうか」が薄かったのではない。
それ以上を言う間合いを、私が与えなかったのだ。
不器用なのは父だけではなかった。
いや、たぶん私のほうが、よほどひどかった。
春になり、卒業式が来た。
私はいまの教え子たちの文集を読む立場になっていた。
将来の夢、まだ決まっていない不安、家族への言葉。
どれも青くて、痛々しくて、でも本当だった。
その中に、ある男子生徒が書いた一文があった。
「本当は県外の高校へ行きたいけど、父にまだ言えていない」
私はしばらくそのページを見ていた。
そして文集を閉じ、放課後、その子を呼んだ。
窓の外では、校庭の桜が夕方の風に揺れていた。
「言いにくいよな」
と言うと、その子はうつむいたまま頷いた。
私は少し笑った。
「でも、黙って出発すると、たぶん一生ちょっと残るぞ」
その子は驚いたように私を見た。
私はそれ以上、うまいことは言えなかった。
ただ、職員室の窓の向こうに並ぶ桜を見ながら、父の一行を思い出していた。
知っていたら、もっとちゃんと送ったのに。
あれは後悔だった。
けれど同時に、遅れて届いた愛情でもあった。
その日の帰り道、私は鞄に入れていた古い定期券を、桜並木の下でそっと取り出した。
もう使えない紙切れだ。
けれど、私にとっては、言えなかったことと、送れなかった人の気持ちが、薄く重なったまま残っている。
私はそれを捨てなかった。
手帳のポケットに入れた。
これから先、進路に迷う子どもたちと向き合うとき、自分が何を言い損ねてきたかを忘れないために。
出発というのは、家を出ることだけではないのだろう。
言えなかったことに、ようやく言葉を与えること。
遅れて届いた誰かの思いを、次の誰かへ渡し直すこと。
それもまた、出発なのだと思う。
桜は毎年、少し残酷なくらいきれいに咲く。
私はその下を歩くたび、あの朝を思い出す。
けれど昔のようには泣かない。
もう知っているからだ。
父はあのとき、無関心だったのではない。
送る言葉の出し方が、ただ私たち二人とも、下手すぎただけなのだ。
春の端まで来ると、風が少しだけやわらぐ。
私は教室へ戻り、子どもたちの進路調査票を開く。
そこには、まだ言えていない夢が、拙い字でいくつも並んでいる。
私は赤ペンを持つ。
そして今度は、だれかの出発が沈黙で曇らないように、できるだけちゃんと見送ろうと思う。


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