人を励ます仕事をしているくせに、私は、励まし方が下手だった。
理学療法士になって七年目になる。
病院の回復期病棟で、私は毎日、誰かの「もう無理です」と向き合っていた。
立ち上がる練習。
歩く練習。
階段を上る練習。
転ばないための練習。
人が失ったものを、そっくりそのまま返せるわけではない。
それでも、昨日より五歩、今日より一段、そうやって小さな回復を拾い集めるのが、私たちの仕事だった。
言葉も、その道具のひとつである。
だから私は、いつも明るく、前向きで、はっきりした言い方を心がけていた。
「大丈夫です」
「まだいけます」
「ここでやめたらもったいないですよ」
そういう言葉は、たしかに役に立つこともある。
けれど、役に立つ言葉が、いつもやさしいとは限らない。
そのことを、私はある患者さんに教わった。
その人は、佐伯さんという七十代の男性だった。
脳梗塞のあと、右足に軽い麻痺が残り、長く歩くと足先がうまく上がらなくなる。
退院後は自宅へ戻る予定だったが、奥さんに先立たれ、今は一人暮らしだという。
初めて担当した日のことをよく覚えている。
病院のリハビリ室は、午前中の光がいちばん白い。
平行棒の金属、窓際の観葉植物、床に映る車椅子の影まで、妙にきっぱり見える時間がある。
佐伯さんはその光の中で、無表情に椅子へ座っていた。
足元には、古い革靴が置かれていた。
焦げ茶色の、ずいぶん履き込まれた靴だった。
踵は少し擦り減り、つま先には薄い傷がいくつもあった。
いまどき珍しいくらい手入れのされた靴で、私はそれを見て、几帳面な人なのだろうと思った。
けれど、本当は違った。
几帳面というだけでは足りない、もっと個人的な執着が、あの靴にはあったのだ。
「今日は立つところからやってみましょうか」
そう言うと、佐伯さんは小さくうなずいた。
けれど動きは遅かった。
いや、遅いというより、慎重だった。
足を床につける角度まで確かめるような動きだった。
私はつい、言ってしまった。
「怖がっていると余計に歩けなくなりますよ」
佐伯さんはそのとき、ほんの少しだけ私を見た。
その目の感じを、私はしばらく忘れていた。
責められた人の目でも、反抗する人の目でもなかった。
もっと静かな、しかし確かにどこかを閉じた目だった。
それでも訓練は進んだ。
立位はなんとか取れる。
平行棒の中なら十メートルほど歩ける。
でも、歩幅が小さい。
疲れると、右足が前へ出にくくなる。
私は毎回、励ました。
励ましているつもりだった。
「あと二往復いきましょう」
「ここでやめたらもったいないです」
「できないと思わないでください」
佐伯さんは黙って従った。
嫌がりもせず、怒りもせず、ただ、黙っていた。
私は、その黙り方を、協力的なのだと勝手に解釈した。
ほんとうは、黙るしかなかったのかもしれないのに。
ある日の訓練のあと、看護師さんが何気なく言った。
「佐伯さん、昔はよく奥さんと散歩してたんですって」
私は「そうなんですね」と返しただけだった。
その時点で、もう少し立ち止まって聞けていればよかった。
けれど私は、次の訓練の時間を気にして、話を深くしなかった。
忙しい、というのは便利である。
こちらの想像力が足りないことまで、まるで仕方のないことのように見せてくれる。
ある雨の日、佐伯さんは靴を履こうとして、手を止めた。
指先が、靴紐の上で少し震えていた。
「大丈夫ですか」
と聞くと、
「少し、面倒でね」
と笑った。
私はまた、余計なことを言った。
「面倒でもやらないと、戻れませんよ」
戻れませんよ。
いま思えば、なんて乱暴な言葉だろうと思う。
どこへ戻るのか。
いつの自分へ戻るのか。
そもそも人は、病気の前へ、そんな簡単に戻れるものではない。
それなのに私は、回復を一本の線みたいに話してしまった。
佐伯さんはその日は、訓練のあと、珍しく疲れた顔をしていた。
それでも「ありがとうございました」と言った。
こちらのほうが、ありがとうございましたと言うべきだったのだ。
自分の未熟さに、何も気づいていなかった。
数日後、佐伯さんが訓練を拒否した。
病室へ迎えに行くと、ベッド脇の椅子に座ったまま、窓の外を見ていた。
「今日は休みます」
と、それだけ言った。
私は少し驚いた。
「体調悪いですか」
「いえ」
「じゃあ、少しだけでも」
「今日は、いいです」
私はそこで、正しい対応を選べなかった。
相手の沈黙を、そのまま置いておくことができなかった。
「佐伯さん、このままだと歩けなくなりますよ」
その瞬間、佐伯さんは初めて、はっきりと嫌な顔をした。
「先生は」
と、低い声で言った。
「歩けるか歩けないか、そればかりですね」
私は何も返せなかった。
「私はね、足だけじゃないんです」
そこまで言って、佐伯さんは口を閉じた。
それ以上は、話してくれなかった。
私は病室を出た。
出てから、妙に腹が立った。
こちらは一生懸命やっているのに、と思った。
忙しい病棟で、時間をやりくりして、少しでもよくなってもらおうとしているのに、何がそんなに気に入らないのだと。
けれど、その腹立ちは、たいていの腹立ちと同じで、自分の未熟さから目を逸らすためのものだった。
夕方、担当看護師の人が、私に一冊の大学ノートを持ってきた。
「佐伯さんが、これ、先生にって」
表紙の端が擦れた、紺色のノートだった。
「日記みたいです。見てほしいって」
私は休憩室でそれを開いた。
整った字で、日付が並んでいた。
『入院十日目。歩く練習。若い先生は熱心でありがたい』
『入院十五日目。歩けるようになりましょうと言われる』
『歩けるようになる、という言い方が少し苦しい』
そこで、私は手を止めた。
続きを読む手が、急に重くなった。
『歩きたいのは本当だ』
『家へ帰りたいのも本当だ』
『だが、帰った先で靴を履いて出かける相手は、もういない』
『妻が死んでから、靴はただの履き物ではなくなった』
『毎朝、先に玄関で待っていた人がいない靴は、思ったより重い』
胸の奥が、静かに冷えた。
さらにページをめくると、奥さんのことが少しずつ書いてあった。
『妻は出かける前、私の靴のつま先をよく見ていた』
『汚れていると、今日はその靴なのねと言って笑った』
『私はそういう細かいことを面倒だと思っていた』
『面倒だったくせに、いなくなってからは、その面倒さが家の灯みたいだったのだと気づいた』
私はそこで、息をついた。
家の灯、という言葉が、胸に引っかかった。
病気や麻痺の話より、その一語のほうが、はるかに深く人を動かすことがある。
『先生は悪くない』
『熱心で、まっすぐで、よく見てくれる』
『でも、戻ると言われるたび、私はどこへ戻れと言われているのかわからなくなる』
『妻のいた朝には戻れない』
『元気だった頃の脚には戻れない』
『それでも、歩く練習をする意味を、私は見失いたくない』
『歩くのは、失ったものへ戻るためではなく、まだ残っている灯のところへ行くためであってほしい』
私はその文章を、何度も読み返した。
灯、という言葉だけが、妙に明るく見えた。
さらに後ろのページに、こうあった。
『今日は靴を履くのが嫌だった』
『あの靴は、妻と出かける時にいつも履いていた靴だ』
『退院したらもう一度あれを履いて、墓まで歩いて行きたい』
『だが、先生にそう言うと、きっとまた、歩きましょう、頑張りましょう、と返される気がして言えなかった』
私はノートを閉じた。
閉じても、文字は目の裏に残った。
私が見ていたのは、佐伯さんの足だけだった。
歩行距離、筋力、バランス、疲労度。
もちろんそれは必要だ。
けれど、その足がどこへ行きたいのかを、私は一度も聞いていなかった。
それは理学療法士として、たぶん一番先に聞くべきことだったのに。
翌日、私は病室へ行った。
佐伯さんは窓際に座っていた。
外は晴れていて、中庭の木が少しだけ揺れていた。
「昨日、ノートを読みました」
そう言うと、佐伯さんはしばらく黙ってから、
「すみません、勝手なことを」
と言った。
「すみませんは、私のほうです」
私は頭を下げた。
病室で患者さんに頭を下げるなんて、学生の頃の自分なら考えなかっただろう。
けれど、そのときはそうするしかなかった。
「私は、佐伯さんがどこへ行きたいのかを聞かずに、ただ歩かせようとしていました」
佐伯さんは何も言わなかった。
「戻るって言葉も、軽く使っていました」
「若い人は」
と、佐伯さんが言った。
「戻れると思ってるんですよ」
責める口調ではなかった。
むしろ、少し笑うような、諦めを含んだ声だった。
「はい」
私は答えた。
「たぶん、思っていました」
そこでようやく、佐伯さんは私を見た。
あの日みたいな閉じた目ではなかった。
疲れてはいたが、少しだけこちらへ開いた目だった。
「先生」
と言った。
「退院したら、墓まで歩きたいんです」
その一言で、私の中の何かが静かに崩れた。
たったそれだけの願いだったのだ。
旅行でもない。
山登りでもない。
ただ、奥さんの墓まで、自分の足で行きたい。
そのための歩行だったのだ。
どれだけ回復するかではなく、どこまで届きたいかだったのだ。
それから私たちは、訓練の内容を少し変えた。
ただ歩くのではなく、段差をまたぐ練習を増やした。
屋外歩行を想定して、少し硬い靴底での重心移動も見た。
砂利道を想定して、リハビリ室の隅にマットと小さな凹凸を作ってもらった。
あの革靴を履く練習もした。
佐伯さんは、靴紐を結ぶとき、まだ少し時間がかかった。
けれど前ほど嫌そうではなかった。
私は言葉も変えた。
「頑張りましょう」ではなく、
「今日は墓までの何メートル分、進めそうですか」
と聞いた。
すると佐伯さんは、ときどき笑った。
「今日は門の手前までですかね」
とか、
「供花を持つ余裕はまだなさそうだ」
とか、そんなふうに。
私たちは、回復を励ますのではなく、行き先を一緒に確かめるようになった。
ある日、訓練の休憩中に、佐伯さんがぽつりと言った。
「妻は、玄関の灯を早めにつける人でした」
私は黙って聞いた。
「冬なんか、まだ明るいうちからつけるんです。もったいないだろって言うと、帰ってきた時に暗いのは嫌でしょうって」
佐伯さんは少し笑った。
「私はそういうの、ずっと贅沢だと思ってた」
その横顔を見ながら、私は日記の中の「灯」が、単なる比喩ではなかったのだと知った。
帰りを待つ灯。
家に人がいる証拠の灯。
失ってからようやく、その明るさの値段がわかる灯。
退院の日、佐伯さんは例の革靴を履いていた。
窓の外は春の終わりの光で、病院の玄関前の花壇だけが妙に明るかった。
「先生」
と、佐伯さんは言った。
「灯は、消えたわけじゃなかったみたいです」
私はうまく返事ができなかった。
喉の奥が、少し痛かった。
「今度は、自分で行ってきます」
私はただ、頭を下げた。
その後、ひと月ほどして、病棟宛てに封筒が届いた。
差出人は、佐伯さんだった。
中には短い手紙と、写真が一枚入っていた。
墓前に立つ後ろ姿の写真だった。
少し傾いていたが、たしかにあの革靴で、まっすぐ立っていた。
靴の先には、細い影がきちんと伸びていた。
手紙には、こうあった。
『先生へ』
『先日、妻の墓まで歩いて行けました』
『途中で一度休みましたが、転ばずに行けました』
『墓の前で、ずいぶん長く立っていました』
『何を話したのかは、うまく言えません』
『ただ、来られたよ、とだけは言えた気がします』
私はそこで、もう一度、便箋を持ち直した。
『帰り道、靴の底に小石が挟まりました』
『若い頃なら舌打ちしたと思います』
『でもあの日は、その小石の違和感まで、歩いている証拠のようで、少しうれしかったです』
『人は失った灯を探して歩くのではなく、残った灯を次へ渡すために歩くのかもしれません』
『先生も、どうか急ぎすぎずに』
私は手紙を読み終えてから、しばらく動けなかった。
急ぎすぎずに。
それはたぶん、リハビリのことだけではなかった。
人に届く言葉のことだ。
支えるということの速さのことだ。
こちらが正しいと思っている励ましの、その押しつけがましさのことだ。
私はその日、仕事のあと、更衣室で一人になって泣いた。
ひどく静かな泣き方だった。
悲しいというより、恥ずかしかった。
そして、恥ずかしいのに、どこか救われてもいた。
自分の未熟さが、誰かを傷つけたまま終わらなかったことに。
その未熟さを、ちゃんと手渡しで返してくれる患者さんに出会えたことに。
いまでも、ときどき新人に指導をする時、私は佐伯さんのことを思い出す。
歩けるかどうかの前に、その人がどこへ行きたいのかを聞くこと。
戻る、という言葉を軽々しく使わないこと。
靴を履く動作ひとつにも、その人だけの記憶があること。
数字に表れない願いのほうが、むしろ人を動かすことがあること。
そういうことを、なるべく忘れないようにしている。
病院の廊下は、夜になると少し暗い。
ナースステーションの灯りだけが、遠くまで細く伸びる。
その光を見るたび、私は思う。
回復とは、失った昨日へ戻ることではない。
誰かが残してくれた小さな灯を、消さずに次へ運ぶことだ。
あの日、佐伯さんの靴の底に挟まった小石みたいに、痛みはたしかに残る。
けれど、その違和感ごと歩いていけるなら、人はまだ、誰かのところへ辿りつけるのだと思う。
だから私も、今日またリハビリ室で、誰かの靴紐が結ばれるのを待つ。
急かさずに。
決めつけずに。
その人の灯が、どこにあるのかを、今度はちゃんと聞きながら。


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