返却口の底で、いちばん軽い文庫が鳴った。
乾いた紙が擦れる音。
『銀河鉄道の夜』——その本だけ、濡れていないのに妙に冷たい。
開いた瞬間、しおりの代わりに“写真”が落ちた。
裏に鉛筆で一行。
「返事、遅くなってごめん。ここで待ってる。」
差出人の名前を見たとたん、僕の指が震えた。
返却口の底で、いちばん軽い文庫が鳴った。
乾いた紙が擦れる音。
金属の箱に、角が小さく当たる。
『銀河鉄道の夜』。
背表紙の角が白く擦れていて、指先にざらりとした記憶がつく。
——航(わたる)の本だ。
そんな確信が、理由もなく胸に落ちた。
カウンターの奥は、消毒液と古い紙の匂いが混ざる。
閉館前の空調は、遠くで小さく唸っている。
僕は司書で、毎日、本の背中を整えている。
人の話を聞くのが仕事なのに、返事だけが遅い。
丁寧に遅れる。
遅れれば遅れるほど、傷が薄まる気がしていた。
薄まるのは、だいたい僕の勇気のほうだ。
本を開いた。
ぱさ、と落ちた。
しおりじゃない。
写真だ。
小学生の僕と航が、図書館の入口で肩を寄せて笑っている。
僕は笑っているのに、目の奥だけ泣きそうだ。
航は、笑っているのに、踏ん張っている顔だ。
写真の裏に、鉛筆の薄い字。
「返事、遅くなってごめん。ここで待ってる。航」
待ってる。
その言葉は、静かなのに刺さる。
待つ人間は、待たせた人間の罪を、音を立てずに育てる。
三年前。
航から、たった一通だけメッセージが来た。
《久しぶり。元気?》
僕はスマホを握ったまま、返信欄に何度も書いた。
「元気だよ」
「ごめん、忙しくて」
「会える?」
全部、消した。
忙しかったのは本当だ。
本当の言い訳は、よく効く毒になる。
翌日も、翌週も、返信しなかった。
画面の上で航の一文が乾いていく。
乾いていくたび、僕の中の“会いたい”が濁っていく。
会ったら、昔の僕らに今の僕らが勝てない気がした。
負けるのが怖かった。
だから返事を遅らせた。
それを、臆病と言う。
写真の「ここで待ってる」が、喉の奥の蓋を外した。
ここ?
この図書館?
この席?
僕は、息が浅くなるのを感じた。
閉館のチャイムが鳴った。
短い電子音が、書架の間に吸い込まれていく。
利用者が帰り、床をモップが滑る音だけが残る。
僕はカウンターの内側で、ほんの一歩だけ規則をまたいだ。
規則では、貸出記録を個人のために追わない。
司書の手は、人の秘密に触れすぎるから。
でも写真は、僕の秘密だった。
窓際の席。
結露が白く曇る席。
冬になると、航が指で丸を描いて「雪だ」と笑った席。
そこに、誰かが座っていた。
背中。
肩。
少し丸まった首。
——航だ。
僕の口は、勝手に動いた。
「……航」
自分の声が、思ったより掠れていて情けない。
三年分の返事が、二文字に潰れた。
航は振り向いた。
目を細めて、確かめるみたいに僕を見る。
「……やっと、来た」
責める音じゃない。
息を吐いた人の音だった。
僕は立ったまま、両手の置き場を失った。
司書の癖で、本を胸に抱えてしまう。
『銀河鉄道の夜』が、妙に温かい。
「ごめん」
僕が言うと、航は小さく笑った。
「うん。遅い」
「……怒ってる?」
「怒ってたら、来ないよ」
航は机の上を指で軽く叩いた。
こつ、こつ。
その音が、昔の呼び出しみたいに響く。
「座りなよ。立ってると、逃げるみたいだ」
僕は椅子に座った。
座るだけで、膝が少し震える。
航は、封筒を一つ置いた。
「これ、返して」
「返す?」
「君のもの」
封筒の中は、もう一枚の写真。
団地の駐輪場。
僕が泣いている。
鼻の頭が赤い。
その横で航が笑いながら、僕の髪に紙片を挟んでいる。
しおりみたいに。
写真の裏に、言葉。
「……読んで」
航が言う。
僕の指が、写真の角を撫でる。
紙は古いのに、まだ硬い。
裏。
「返事が遅れてもいい。
でも、いなくならないで。航」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
僕が想像していたのは、航の失望だった。
本当は、航の心配だった。
僕はそれを、勝手に勘違いして逃げていた。
「ねえ」
僕は息を整えながら言った。
「……三年前、あのメッセージ。見てた。ずっと」
航は頷いた。
「うん」
「返せなかった。忙しいとか、そういうのもあった。けど——」
航が口を挟む。
「怖かった?」
僕は黙って、頷いた。
航は目を伏せて、机の木目を見た。
「僕も、怖かったよ」
「航が?」
「うん。返信がないってことはさ、君が“もう要らない”って言ってるみたいで」
言葉が、喉に刺さる。
僕は首を振った。
「違う。逆」
「逆?」
「君が要るから、怖かった。会ったら、僕がダメってバレる気がして」
航は、ふっと笑った。
「バレていいじゃん」
その言い方が、昔のままだ。
軽くて、でも逃げない。
「返事ってさ」
航が言う。
「正しいことを書くためじゃなくて、“生きてる”って知らせるためにあるんだよ」
僕は、何かが解ける音を聞いた気がした。
鍵穴に差し込まれて、回らなかった鍵が、やっと回る音。
静かで、確かな音。
「……僕、返事が遅いんだ」
僕が言うと、航は眉を上げた。
「知ってる。昔から」
「昔?」
「夏休みの自由研究。君、提出日すぎてから、僕に『手伝って』って言った」
僕は思わず笑ってしまう。
「うわ。最低」
「でもさ」
航は机の上の写真を、指先でそっと押さえた。
「遅い返事ほど、嬉しいときもある」
僕は、写真の裏の言葉を見た。
許しみたいな字。
祈りみたいな字。
「……じゃあ」
僕は声を小さくした。
「今から返事してもいい?」
航は首を傾げる。
「どの返事?」
「三年前の」
「うん」
「それと——」
僕は息を吸った。
紙の匂いが肺に入る。
「……いなくならないって返事」
航は、少しだけ目を潤ませて笑った。
「それ、遅すぎ」
「ごめん」
「でも、欲しかった」
その一言で、僕は泣いた。
派手じゃない。
声も出ない。
ただ、目の奥が熱くなって、静かに溢れた。
航はハンカチを投げてよこした。
「ほら。司書さん、静かに泣いて」
僕は笑いながら、涙を拭いた。
布の繊維が頬にざらりと触れる。
生きてる手触り。
窓の外、団地の灯りが点々とついている。
昔より数は減って、隙間が増えた。
でもその隙間に、今夜は風がちゃんと通っていた。
匂いが、冷たい。
冷たいのに、嫌じゃない。
僕は『銀河鉄道の夜』を開いた。
「しおり、返す」
航が言う。
「返さなくていい」
「じゃあ、挟んどく」
航は写真を、ページの間にそっと滑り込ませた。
紙と紙が擦れて、ちいさく鳴る。
それは、約束の音だった。
その夜、帰り道で僕はスマホを取り出した。
三年前の航の《元気?》が、まだそこにいる。
僕は打った。
《元気じゃなかった。ごめん。
でも今日、会えた。
明日も、図書館に行く》
送信。
指が震えた。
震えは、臆病の残り火じゃない。
火が点いた証拠だ。
家に着いて、玄関の匂いを吸う。
コンクリートと洗剤と、少し古い畳。
僕はコートを脱ぎながら、独り言みたいに呟いた。
「遅い返事でも、届くんだな」
そして、もう一つだけ、胸の中に継いだ。
——いなくならない。
たぶんそれが、僕が航から受け取った“しおり”だ。
ページが風でめくれても、戻ってこられるように。
最後に、机の上のペンを握る。
明日の自分へ、逃げないための一行を書く。
短く。
「返事は、今夜のうちに。」


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