駅の倉庫で見つかった祖父の靴が、私を泣かせた話

駅でのシーン 泣ける話

祖父の靴が、終電のあとに見つかった。
駅の倉庫の、いちばん奥。濡れた段ボールの中で、片方だけ、泥を乾かした顔をしていた。
「野口くん、これ……君んちのじゃないか」
そう言われた瞬間、革の匂いで、喪服の夜が戻ってきた。棺に入れるはずだった靴だ。
入れなかったのは、私だ。
箱の底には、祖父の字で折りたたまれたメモが一枚、挟まっていた。

祖父の靴が、終電のあとに見つかった。

駅の倉庫の、いちばん奥。濡れた段ボールの中で、片方だけ、泥を乾かした顔をしていた。

「野口くん、これ……君んちのじゃないか」

佐伯さんに言われた瞬間、革の匂いで、喪服の夜が戻ってきた。棺に入れるはずだった靴だ。

入れなかったのは、私だ。

箱の底には、祖父の字で折りたたまれたメモが一枚、挟まっていた。

雪国の駅は、朝より夜のほうが静かに荒れる。

風が吹くと、ホームの端で雪がさらさら鳴る。ほうきで掃いても、また白くなる。レールは黒く冷えて、信号だけが赤く生きている。

私は駅員になって八年になる。

改札、案内、遅延の謝罪、雪かき、忘れ物の整理。毎日だいたい同じだ。

祖父は昔、それを聞いて言った。

「おまえは、こういう仕事が向いてる」

十九の私は、それを褒め言葉だと思えなかった。

「つまり、他に何もできないってこと?」

そう返したとき、祖父は靴底に釘を打ちながら、顔も上げなかった。

「そういう言い方をするな」

「先に言ったの、じいちゃんだろ」

金槌の音だけが、店の奥で小さく続いた。

あの店は商店街の外れにあった。古い暖房の灯油の匂い、革を磨くクリームの甘い匂い、湿った木の床。私はその匂いが嫌いで、嫌いなくせに、外で嗅ぐと少し落ち着いた。

祖父は靴屋だった。

客の足を見て、黙って寸法を取る人だった。しゃべらないくせに、帰る客はみんな少し安心した顔をしていた。子どもの私はそれが不思議だった。

父が家を出てから、家のことはだいたい祖父が決めた。

進学も、就職も。

母は働きづめで、疲れていて、私は反抗する相手を間違えた。

祖父にばかり刺々しくなった。

「忙しいから」

その言葉を覚えてから、私はずっとそれで逃げた。

店に寄れないのも。

電話しないのも。

見舞いに行かないのも。

去年の春、祖父は店を閉めた。

「足、悪くしたって。もう座ってるのもしんどいみたい」

母は夕飯をよそいながら言った。味噌汁の湯気で眼鏡が曇っていた。

私は制服のまま、茶碗を持って、「ふうん」とだけ言った。

「顔、出してやって」

「今週、夜勤続き」

「来週でいいから」

「うん」

行かなかった。

来週も、再来週も、雪が降る前も。

本当は、何を話せばいいのか分からなかっただけだ。

店に行けば、たぶん祖父は言う。
「遅い」か、
「仕事どうだ」か、
そのくらいだ。

そのくらいの言葉が、私はいちばん苦手だった。

優しくされるより、叱られるより、困った。

秋の終わりに祖父は死んだ。

通夜の晩、線香の匂いが濃くて、喉の奥がひりついた。

私は泣かなかった。

受付を手伝って、親戚に頭を下げて、僧侶の時間を確認して、まるで駅で遅延対応をしているみたいに動いた。やることがあると、人は泣かなくて済む。

棺に入れるものを選ぶとき、母が棚から黒い革靴を抱えてきた。

祖父が最後まで磨いていた一足だった。

灯りを吸うみたいに、つやがあった。

「これ、入れてあげようか」

母が言った。

私は、なぜだか腹が立った。

「もったいないよ」

母が黙った。

私は言い足した。

「そんなきれいなの、燃やすの」

母は靴を抱いたまま、しばらく何も言わなかった。

それから、静かに言った。

「……あんた、ほんとに似てるね」

「誰に」

「おじいちゃんに。言い方が」

私は笑ってごまかそうとして、できなかった。

その夜、雪の前の冷たい雨が降っていた。祖父の店の前まで行って、シャッターを触った。鉄がひどく冷たくて、手のひらがしびれた。

「じいちゃん」

呼んでみたが、当然、返事はなかった。

私はそこで、泣けなかった。

それが、いちばん嫌だった。

そして冬になって、祖父の靴が駅の倉庫から出てきた。

佐伯さんは段ボールをのぞき込んで、首をかしげた。

「なんでこんなとこにあるんだろな。だいぶ前の整理漏れかな」

私はうなずいたが、声が出なかった。

手袋をしたままでも分かる。あの革の硬さ。つま先の細い傷。祖父の親指の癖で少しだけ沈んだ甲。

箱の底のメモを開く。

青いボールペン。角ばった字。

かすれたところもある。

――野口駅長さんへ
夜分すみません。孫が世話になっております。
この靴、底がもうだめで、捨てるつもりでした。
ただ、雪のホームで滑ると危ないので、すべらん底の見本になればと思い、持ってきました。
ついでに孫のことですが、寒がりなのに平気な顔をします。
厚い靴下をはいているか、見てやってください。
口のきき方が下手で、損をします。
でも、悪いやつではありません。
よろしく頼みます。
靴屋 野口

最後の「野口」のところだけ、にじんでいた。

雪か、雨か、指か。

私はそこで、ようやく分かった。

祖父は、私に何も言わなかったんじゃない。

言えなかったのだ。

いや、違う。

言えないなりに、言っていた。ずっと。

靴を直して。
仕事を勧めて。
駅長に頭を下げて。
私の靴下のことまで気にして。

喉がつまって、息を吸う音が自分でもうるさかった。

佐伯さんが横で言った。

「野口くん、座るか?」

私は首を振った。

「……すみません」

「謝るなって」

「いや、違うんです」

違うのに、言葉が続かなかった。

祖父に言うはずのことを、ずっと別の人に漏らしている気がして、みっともなかった。

私はメモを胸ポケットに入れた。紙が少し湿っていて、体温でふにゃっと曲がった。

終電のあと、ホームに出た。

雪は細かく、横に流れていた。ベンチの木にうっすら積もって、街灯の下だけ白く浮く。遠くでポイントが切り替わる音が、金属の咳みたいに鳴る。

私は祖父の靴を、ベンチの上に置いた。

隣に座る。

革から、古いクリームの匂いがした。店の匂いだ。子どものころ、ランドセルのまま店の隅にしゃがんでいた夕方の匂い。金槌の音。ラジオの雑音。祖父の咳払い。

「……じいちゃん」

声にすると、白い息がちぎれた。

「俺、あんたのこと、ずっと怒ってた」

雪が、靴の先に薄く積もる。

「勝手に決めるし」

「言い方きついし」

「褒めてんのか、けなしてんのか、分かんないし」

言っていて、少し笑ってしまった。泣きながら笑うのは、たぶん品がない。けれど、そのくらいしかできなかった。

「でも」

私は手袋を外して、靴の甲をなでた。冷たくて、固くて、傷のところだけざらついていた。

「俺も同じだった」

「言えなかった」

「ありがとう、も」

「ごめん、も」

風が吹いて、頬が痛くなった。

「悪いやつではありません、って」

思わず嗤うみたいに息が漏れた。

「子どもじゃないんだよ、もう」

ホームの向こうで、除雪車の低い音がした。

私は靴に向かって、頭を下げた。改札でやるみたいに、きれいにはできなかった。

「……遅くなって、ごめん」

やっと言えた。

その一言を言うのに、ずいぶん年を取った。

それから、私は祖父の店の道具を少しだけ引き取った。

小さな木箱。釘、太い糸、使いかけのクリーム、擦り減ったブラシ。蓋を開けると、いまも革と油の匂いがする。

詰所のロッカーに入れてある。

始発前に一度、蓋を開ける。

匂いを吸って、閉じる。

それだけで、不思議と背筋が伸びる。

新人が雪かきで指を真っ赤にしていたら、私は言う。

「おい、手、出せ。カイロある」

年配の乗客が階段で滑りそうなら、前より一歩近くで言う。

「ゆっくりで大丈夫です。手すり、使ってください」

母には、この前、電話で言えた。

「今度、店のこと、教えて」

受話器の向こうで、母は少し黙ってから、笑った。

「急にどうしたの」

「別に」

「その言い方も似てる」

「……うるさい」

「はいはい。今度、おじいちゃんの型紙も見せる」

切ったあと、台所の湯気の匂いまで浮かぶ気がした。

雪は、今日も音を食べる。

朝のホームは白く、列車の灯りだけが遠くから近づいてくる。人は急いで、転びそうになって、また何事もない顔で改札を抜ける。

私は立っている。

うまく言えない日は、まだある。

忙しさに逃げる日も、たぶんまたある。

それでも、せめて足元だけは見ようと思う。

誰かが滑らないように。
誰かがちゃんと帰れるように。

祖父が、言えない言葉の代わりに、ずっと靴を直していたみたいに。

私は今日も、雪の駅で、それを続ける。

それがたぶん、あの人に返せる、いちばん遅い祈りだから。

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