商店街の朝は、いつも同じ匂いがする。揚げ物の油、豆腐屋の湯気、魚屋の氷。私が勤める保育園は、その端っこにあって、通園バッグを抱えた子どもたちが、八百屋の前の段差を跳びこえるのが日課みたいになっている。
私がここで働くようになったのは、ひとつだけ理由がある。商店街の角の文具店、その奥にある小さな塾で、私に「言葉で人を守れる」と教えた人がいたからだ。恩師——野田先生。
先生は厳しかった。けれど、怒鳴るのではなく、黙って私のノートの余白を指でなぞった。「ここ、書けるはず」と。私はその指先が怖くて、でも、どこかあたたかくて、何度も鉛筆を握り直した。
保育士になってからも、先生に一度だけ会った。商店街の福引きの列で、私が小さな子の手を引いていたときだ。「似合ってるな」先生はそれだけ言って、笑った。私は照れて、まともに返事ができなかった。
そのあと、先生は病気で倒れたと噂で聞いた。私はお見舞いに行けなかった。忙しさ、というより、私はずるかった。会ったら何か言わなきゃいけなくなる。あのとき返せなかった「ありがとうございます」を、今度は返さないといけない。返した途端に、私はもう先生の生徒ではなくなる気がした。
そんな言い訳を抱えたまま、先生の訃報が来たのは、春の終わりだった。
商店街のアーケードに、細い雨が叩きつける日。園の行事の準備で、私は残業をしていた。スマホが震え、知らない番号が表示された。出ると、低い声が言った。
「野田の者ですが。塾の荷物を片づけていて、あなたの名前が出てきました。来られますか」
私は反射で、「すみません、今ちょっと——」と言いかけた。忙しい。行けない。いつもの逃げ道が舌の上に乗った。
けれど、相手は言葉を遮らず、淡々と続けた。
「先生が残した“めも”がありまして。あなた宛てです。捨てるには、ちょっと」
“めも”。それだけで、胸の奥がきゅっと縮んだ。先生は、何でもめもを取る人だった。授業中、ふと窓の外を見て何かを書きつける。私が悩みを打ち明けた夜も、先生は私の言葉をそのまま、紙に写した。「忘れないため」と言って。
「……行きます」私は言った。保育園のカレンダーを見て、行事の赤い丸が目に刺さった。でも、今日は雨だ。子どもたちも早く帰る。私は自分にそう言い聞かせた。
塾は、文具店の二階。階段は昔のままで、木が湿ってきしんだ。ドアを開けると、紙と埃と、少しだけ古いインクの匂いがした。机が並び、黒板があり、私の座っていた席もそのまま残っている気がした。
先生の家族だという女性が、段ボールを指さした。「これです」
段ボールの上に、小さな封筒が置いてあった。私の名前が、あの癖のある字で書かれている。封筒は厚くない。中に入っているのは、紙一枚か、二枚。私は、そんな軽さに安心して、同時に怖くなった。
その場で開けていいと言われ、私は封筒を開いた。中に入っていたのは、折りたたまれた“めも”が数枚と、古い手帳の切れ端だった。便箋ではない。授業用のプリントの裏や、レシートの余白に、細い字が走っていた。
一枚目には、こうあった。
——あいつは「ありがとう」を言う前に逃げる。癖だ。責めるな。俺もそうだった。
私は息を止めた。まるで見られていたみたいに、胸が熱くなった。二枚目。
——保育士になると言った日、目がまっすぐだった。まっすぐすぎて、いつか折れる。折れたら、立てればいい。立て方は、子どもが知っている。
三枚目は、短かった。
——会いに来なくていい。来たら、君は謝る。謝らなくていい。君はちゃんと、生きてる。
私は、そこまで読んで、紙が滲んだ。雨のせいではない。こらえようとして喉が鳴り、奥歯が痛くなった。
でも、まだ一枚残っていた。手帳の切れ端。日付が書いてある。先生が倒れる少し前。そこに、たった二行。
——園の前の商店街、雨の日に傘がぶつかる。子どもの声が、救急車の音を押し返す。
——君がいる場所は、君が作った“再出発”だ。
私はその二行を指でなぞった。紙がざらついて、指先に小さな砂が残った。先生は、私が返せなかった言葉を、先に受け取ってしまっていた。だから私は、謝らなくていいと言われた。だから私は、会いに来なくていいと言われた。優しさというより、先生の不器用な配慮だった。
女性が、静かに言った。「先生、最後まで、あなたのこと気にしてました。勘違いしてたんです。あなたが嫌いで来ないんじゃないかって」
私は首を振った。違う、と言いたいのに、声が出ない。嫌いなはずがない。ただ私は——恩師に会うと、自分の未完成が露わになるのが怖かった。先生の前では、いつまでも生徒のままでいたかった。そんな子どもみたいな勘違いで、私は時間を捨てた。
段ボールの中から、私の昔のノートが出てきた。表紙の角が丸くなっている。余白に先生の小さな字がある。「ここ、書けるはず」私はページを開き、そこに新しい余白を見つけた。
私はその場でペンを借り、めもの裏に書いた。たった一行。
——先生、私は今日、逃げずに来ました。
声に出さない代わりに、字にして残した。先生がそうしてくれたみたいに。紙を折り、封筒に戻した。塾を出ると、雨は少し弱まっていた。アーケードの下、八百屋の前の段差で、園児が母親の傘から飛び出しそうになり、私は反射で手を伸ばした。
「危ないよ」
小さな手が、私の指をぎゅっと握る。ぬくい。油と湯気の匂いの中で、子どもの笑い声が響いた。救急車の遠い音が、それに負けていく。
私は、先生のめもを胸に入れたまま、園へ向かった。歩くたびに紙がわずかに擦れて、そこにいるはずのない人の気配がした。
そして私は知った。再出発は、大げさな決意じゃない。逃げない一歩を、今日も踏むことだ。


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