朝五時半、工場のシャッターの向こうで機械が唸り、靴底が濡れたアスファルトをきゅっと鳴らした。
そのときスマホが震える。画面には「親父」。
俺は、出ない。——出られない。
留守電を再生すると、怒鳴り声じゃない低い声が一言だけ落ちてきた。
「おまえは、逃げてばっかやな」
そして次の瞬間、母から“入院”の文字が届く。
“来れるときでいい”が余計に刺さる。工場の白い壁、冷たい蛍光灯。腕の産毛が立った。行かない言い訳は作れる。けど、その瞬間、弁当のふたを開けたときの匂いが蘇った。
生姜焼き。甘辛いタレに生姜の辛さが立って、湯気に混じって鼻の奥をくすぐる匂い。
高校の頃、夜勤明けの父が台所に立つ音が好きだった。フライパンが「じゅっ」と鳴り、換気扇がごうっと回る。父は無言で生姜をすりおろし、タレを絡め、弁当箱の角まできっちり詰めた。その背中に「ありがとう」と言えないまま、俺は家を出た。
——行くか。
休憩室の椅子をきしませて立ち上がり、上司に頭を下げた。
「すみません、午後抜けます」
「家のことか」
「……はい」
「行ってこい。代わりは回す」
外へ出ると鉛色の空。潮の匂いが遠くから運ばれ、頬が冷えた。富山の冬は海と山の間にある。
病院の廊下は白い。消毒液の匂いが鼻に刺さり、点滴の金具がかちゃ、と鳴る。ナースステーションの前で母が小さく手を振った。目が赤い。その赤さが俺の背中を押した。
病室のドアを開ける。カーテンの隙間から冬の光が差し、父の顔を薄く照らしていた。痩せた。手の甲の血管が青い。けれど目だけは昔のままだ。
「……来たか」
第一声がそれかよ、と喉まで出て飲み込む。俺は椅子に座り、膝の上で手を握った。汗ばんでいる。
「入院って聞いた」
「大げさに言うな。検査や」
「電話……出てなかった」
「知っとる」
「怒ってる?」
「怒っとらん」
「嘘だ」
「嘘じゃない。……諦めとっただけや」
“諦めとった”。肋骨の内側を叩かれたみたいに痛い。
ベッド脇の引き出しに、見覚えのある弁当箱が置いてあった。角が少し欠けて、ゴムが伸びた、昔の弁当箱。
「……それ、まだ」
「捨てられん」
「なんで」
「おまえの腹が鳴る音、よう覚えとる」
父がほんの少し笑った。その笑いが、逆に怖い。いつもの父じゃない。
母がそっと紙袋を渡してきた。袋の口から生姜の匂いがふわっと立つ。
「母さんが作ったの?」
「……お父さん」
父が咳払いをする。
「味、落ちたぞ。手が言うこと聞かん」
「……」
「食え。まずいなら残せ」
俺は弁当箱のふたを開けた。湯気はない。でも匂いだけは温かい。不揃いに重なった豚肉、照りは弱い。それでも生姜が鼻の奥を押した。
一口食べる。甘辛い。生姜が効いて喉の奥が熱くなる。目が痛い。
「……うまい」
「そりゃよかった」
「なんで、作ったんだよ」
「……話がある」
父は枕元の小さな手帳に手を伸ばしかけて、いったん止めた。
「母さんに言われた。口で言うと俺は、怒鳴るって」
「……」
「看護師さんにもな、“書けばええ”って。……情けない話や」
小さく笑って、咳に変わる。俺は何も言えない。
「これ、読め」
「手帳?」
「手紙みたいなもんや」
手帳を開く。紙が乾いて指に引っかかる。最初のページに乱れた字。
『言い方が下手で、すまん』
それだけで胸が崩れた。父が“すまん”を書くなんて。
ページをめくる。
『電話した。出んかった』
『怒りそうになってやめた』
『怒ると、また遠くなる』
『「元気か」と言えばよかった』
父は怒っていたんじゃない。怒りそうな自分を止めていた。
最後のページに太い字で一行。
『生姜焼き、もう一回だけ作る。食べに来い』
俺は顔を上げられなかった。涙が落ちるのが嫌で、見られるのが怖くて、意地が最後に抵抗する。
「なんで、こんな回りくどいことするんだよ」
「言えば、おまえが刺さるやろ」
「……刺さるよ」
「せやから書いた。俺は口が悪い」
父の声が少し震えた。その震えが、初めて父の弱さとして届いた。
「俺、怖かった」
「何が」
「父さんの声。怒られるのが」
「怒ってばっかの親父で、すまん」
「……俺も。意地張って、ごめん」
病室の機械がぴっ、ぴっと鳴る。窓の外で枝がこすれる音がした。
父は俺の弁当箱を見た。
「その弁当箱、持って帰れ」
「いいの?」
「約束や」
父は少しだけ口角を上げた。
「退院したら、家で生姜焼き作る。おまえは、ちゃんと来る」
「……行く」
「途中で逃げんな」
「逃げない」
父は、そこで一拍置いて言った。
「……じゃあ、俺からは電話せん」
「え」
「来るのは、おまえが決めろ。約束ってのは、そういうもんや」
一瞬、怖くなった。逃げ道が消える怖さ。でも、その先にしか俺の人生はない。
「わかった。次は……俺が行く」
「嘘つくなよ」
「嘘じゃない。今度は出る。電話も」
父が短く頷いた。それは判決じゃなく、受け入れに見えた。
帰り道、自動ドアが開いた瞬間、冷たい潮風が頬を撫でた。弁当箱の底が手のひらに当たり、空なのに少し温かく感じた。
ポケットのスマホを握る。画面は暗い。
でも次に鳴ったら、ちゃんと出る。
富山の冬の匂いの中で、俺は静かに約束を抱えた。


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