「卵焼きがほどく、言えなかったごめん」

喫茶店にいる二人 泣ける話

富山の冬は、立山と青空が目に映る。

駅を出た瞬間、湿った冷気が頬に貼りつき、路面電車のベルがちりん、と鳴った。
 転勤——そう言えば聞こえはいいが、俺は逃げ帰ってきた。
 そして今日、会いたくなかった友人から「渡すもんがある」と呼び出されている。
 あいつの“渡すもん”は、だいたい食い物だ。
 なのに胸がざわつくのは、そこに俺の過去が混ざっているからだ。
 

駅前の喫茶店は、窓ガラスが白く曇っていた。ドアベルがからん、と鳴り、焙煎した豆の匂いが鼻に刺さる。暖房の熱でコートの裏が少し汗ばみ、手のひらが湿った。

「おまえ、顔が紙みたいになっとるぞ」

 航平は、笑いながら言った。
 笑いながら、目だけは笑っていない。逃げ道を許さない目。

「そんなことない」
「ある。ほら、ここ。目が死んどる」
「死んでねえ」
「じゃあ何で帰ってきたんけ」
「……転勤」
「“転勤”って便利やな」

 俺はガラスのコップを握った。冷たくて、指先が少し痛い。
 言い返そうとして、言葉が出ない。出ないのに、意地だけは出てくる。

「……ちょっと疲れた」
「“ちょっと”も便利や」
「おまえ、今日なんで呼んだ」
「渡すもんがある言うたやろ」

 航平が紙袋をテーブルに置いた。
 茶色の、よくある袋。なのに、それだけで胸がざわつく。紙がこすれる、ささ、という音が妙に大きい。

「何それ」
「開けてみ」

 俺は袋の口に指を入れた。紙の縁がささくれていて、指先がちくっとした。
 次の瞬間、ふわっと甘い匂いが立つ。だしと砂糖の匂い。胸の奥の古い扉が、音もなく開く。

「……卵焼き?」

 航平は頷いた。

「母ちゃんの」
「……なんで」
「焼いたがよ。『あの子、帰ってくるって聞いた』言うて」

 容器のふたが薄くきしんだ。
 黄色い卵焼きが、冬の光の中でやけにあたたかい。

 俺は喉が詰まって、言葉が乱れた。

「俺、連絡……返してなかった」
「知っとる」
「忙しかった」
「知っとる」
「……ごめん」
「まだ早い」

 航平は笑わなかった。
 コーヒーを一口飲み、眉をしかめる。

「苦っ」
「砂糖入れろよ」
「意地でも入れん。苦いまま飲む」
「それ、ただの意地だろ」
「ほら。おまえも分かるがやろ。意地って癖になる」

 胸が痛い。
 俺の意地は、人を遠ざける癖だ。言い方で守って、言い方で刺す。

「母ちゃん、去年から手、震えるがよ」
「……え」
「巻くん、前みたいに上手くできん。せやけど『焼けるうちは焼く』言うてな」

 俺は卵焼きを見つめた。
 不揃いで、巻きが少し緩い。
 なのに、その不揃いが、泣けるほど真っ直ぐだった。

「食べ」
「……ここで?」
「ここで。逃げる前に」
「逃げるって……」
「おまえ、逃げる顔しとる」

 俺は割り箸を割った。ぱき、と乾いた音。
 一切れつまむと、ふわっと柔らかい。箸先から伝わる温度に、なぜか目が熱くなる。

 口に入れる。
 甘い。だしの香り。端の少しだけ焦げた苦み。
 昔と同じ味なのに、どこか不揃いで——それが、今の時間みたいだった。

「……手、震えとるんやな」
「そう。せやけどな」

 航平は声を落とした。

「母ちゃん言うとった。『形は悪いけど、渡す気持ちは減らん』って」
「……」
「『人に渡すもんは、形より気持ち』って」

 俺は噛みながら目を閉じた。
 喉が熱い。
 逃げてたのは仕事じゃない。弱いって言うことだ。助けてって言うことだ。
 そして、言い方で人を傷つけた自分を認めることだ。

「航平」
「ん」
「俺……ずっとおまえのこと、下に見てた」

 言葉が落ちると、テーブルの上が一瞬で静かになった。
 スプーンがカップの縁に当たり、ちん、と鳴る。
 その音が、区切りみたいに響いた。

「田舎に残って、同じ町で……って。勝手に。最低だ」
「……」
「それで連絡も返さんかった。忙しいフリして」

 航平は、しばらく俺を見た。
 その沈黙が怖くて、俺は先に言った。

「ごめん」

 声が掠れた。
 外で、路面電車のベルがちりん、と鳴った。
 まるで、今の言葉に合図を打つみたいに。

 航平は、ふっと笑った。

「おまえ、謝れるんやな」
「……今さら」
「今さらでええ」
「怒ってないのか」
「怒っとる。けど、捨てん」

 捨てん。
 その一言が、胸に落ちた。赦しは、派手じゃない。捨てない、という形で残る。

「母ちゃんにも、言うてやって」
「……会える?」
「会える。今日、家おる」
「怖い」
「怖いまま行け。意地張るな」

 喫茶店を出ると、冷気が頬を打った。港のほうから潮の匂い。遠くでカモメが鳴く。
 航平の家の引き戸は、昔と同じ音でがらりと開いた。

「ただいまー」
「おかえり。……誰け?」

 奥から、少し弱った声。台所の匂い。だしと焼いた卵の匂い。
 胸がきゅっと縮む。

 母ちゃんが出てきた。腕は細くなり、手元が少し震えている。
 それでも俺を見た瞬間、目尻がふわっと上がった。

「あんた……帰ってきたがけ」
「……はい」
「大きなったねえ。顔、疲れとるけど」

 俺は笑えなかった。
 代わりに、頭を下げた。

「卵焼き、ありがとうございました」
「うん」
「俺、勝手に離れてた。言い方も、態度も、最低だった」
「……」
「ごめんなさい」

 沈黙。
 母ちゃんの手が揺れながら止まる。
 その揺れに、俺の涙がつられて落ちた。

「……謝らんでいいがいね」

 母ちゃんは首を振った。
 そして、台所のほうを指した。

「お腹、すいとるやろ。座りまっし。形は悪いけど、もうちょいある」


 俺は畳に座り、膝に手を置く。畳の感触が昔より硬い。俺のほうが硬くなっただけかもしれない。

 航平が横で言った。

「ほらな。赦してくれたぞ」
「……うるせえ」
「“うるせえ”言えるなら、元気や」

 卵焼きが皿にのる。箸を置く音が、こつ、と鳴る。
 俺は一口食べた。不揃いで、少し崩れていて、でも確かに温かい。

「……うまい」
「そりゃよかった」

 母ちゃんが笑う。
 航平が笑う。
 俺は泣いたまま、笑った。

 その日から、俺は一つだけ決めた。
 意地が出そうになったら、一回息をして、本当を短く言う。

「怖い」
「助けて」
「ありがとう」
「ごめん」

 その小さな言葉が、次の誰かを赦すための種になる。

 富山の冬の匂いの中で、卵焼きの甘さが、静かにそれを教えてくれた。

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