潮の匂いは、傷口みたいに開く。
転勤で戻った海辺の駅、改札を抜けた瞬間、胸の奥が鈍く鳴った。
五年前、俺はここで元恋人を泣かせた。
泣かせた、という言い方は卑怯だ。正しくは——泣いているのを見て、何もしなかった。
人事の挨拶回りの途中、同僚が何気なく言ったのが引き金だった。
「この町、海の清掃やってる人いるでしょ。白いパーカーの人。真面目でさ」
その“白いパーカー”に、俺は反応してしまった。
休日の夕方、海へ出た。
コンビニの紙コップは手汗で湿り、ふたの縁が指に当たって少し痛い。砂が靴の中に入り、歩くたび擦れる。波が防波堤の下で砕け、どん、と腹に響く。
遠くで子どもが笑い、犬が吠え、釣り人のバケツががちゃんと鳴った。
その先に、白い影があった。
白いパーカー。濡れた髪をひとつに結び、膝まで海に入っている。
小さな袋に空き缶を集め、波にさらわれた漂流物を拾っていた。
美咲だ。
息が止まった。
会いたかったのに、会ってはいけない気もした。
逃げる言い訳を探して、足が固まる。
彼女が顔を上げる。目が合う。
「……久しぶり」
声は記憶より少し低くて、落ち着いていた。
俺のほうが、子どもみたいに固まった。
「……うん。久しぶり」
波の音が会話の隙間を埋める。
彼女は袋の口をきゅっと結び、砂を払った。指先に小さな傷。手首に薄い跡。
「それ、何の跡」
「点滴。ちょっと前に、倒れて。寝不足が続いた」
「……そういうの、言えよ」
「言ったら、あなた責めるでしょ。自分を」
図星で、息が詰まった。
「戻ってきたんだ」
「転勤で」
「そっか。……顔、固いね」
「お前も変わらない」
「それ褒めてる?」
「……わかんない」
俺は紙コップを握り直す。ふたがきし、と鳴った。
言葉の出し方が分からないくせに、負けたくない気持ちだけは出てくる。
「元気そうだね」
「普通」
「“普通”って便利だよね。逃げ道になる」
彼女の目が、逃げ道を許さない色だった。
胸の奥で、意地が起き上がる。
「美咲は?」
「私も普通」
「……嘘くさい」
「失礼」
潮風が強く吹き、コーヒーの匂いが消えた。
残ったのは、五年前の苛立ちだけ。
『もう無理』
『は? いまさら何だよ』
『あなたって、ほんと……』
彼女は言い切らず、俺は追いかけず、どちらも意地で終わらせた。
俺は、口が勝手に動くのを止められなかった。
「俺、あのとき待ってたんだよ。理由」
「……」
「でもお前、勝手に終わらせて」
言った瞬間、胸のどこかがひゅっと縮んだ。
責めたいわけじゃない。
ただ、負けたくない言葉が先に出る。
彼女は波を見た。波は何度も砕けて、何度も戻る。
それから、静かに言った。
「負けたくなかったの、私も」
「……え」
「だから言えなかった。あなたに“助けて”って」
心臓が、ひとつ遅れて鳴った。
「家がぐちゃぐちゃだった。父が倒れて、借金が出て、毎日どこかに頭下げて」
「……」
「あなたの前だけは、ちゃんとしていたかった。弱いって思われたくなかった」
俺は、濡れた砂と乾いた砂の境目を見た。
同じ場所なのに、触れた感触が違う。
「でもあなた、忙しそうで。疲れた顔で、強い言葉で……」
「俺は……」
「分かってる。分かってるのに、私は意地を張った。嫌な言い方して、先に刺した」
彼女は自分を笑うみたいに言った。
「最低だよね」
「……俺も最低だ」
口にした瞬間、喉が少し楽になった。
“俺が悪かった”の入口は、こんなに小さかったのか。
砂浜の端で子どもが転び、泣いた。
母親が抱き上げ、「大丈夫、大丈夫」と背中を叩く。泣き声は嗚咽に変わり、やがて止む。
美咲が、その背中を見ながら言った。
「泣いても、助けてって言っても、いいんだよね」
「……言えなかったの?」
「言ったら、負けると思ってた。私も、あなたも」
胸が痛む。
俺は、彼女の“助けて”に気づけなかったんじゃない。
気づいても、怖くて触れなかったんだ。
「ごめん」
「……うん」
「俺、怖かった。謝るのが。弱いって言うのが」
「私も。だから似てた」
「似てたから、壊れた」
「うん。似てたから、いま分かる」
潮が足首を撫で、骨まで冷える。
その冷たさが、嘘をつけない感じだった。
彼女は袋を持ち上げた。中の空き缶が、からん、と乾いた音を立てる。
「これ、私の罰じゃないよ」
「……え」
「忘れないため。意地で人を傷つけたってことを。もう繰り返さないため」
罰、という言葉が嫌だった。
でも、彼女の声は罰じゃなく、誓いだった。
「ねえ。ひとつだけ、提案していい?」
「なに」
「意地が出そうになったら、一回だけ息するの」
「……それだけ?」
「それだけ。で、本当のことを言う。短くでいい。『怖い』とか『さみしい』とか」
俺は、笑いそうになった。
こんな簡単なルールを、俺たちは知らなかった。
「……やる」
「できる?」
「できるようにする」
彼女は小さく頷き、目を細めた。
「じゃあ、来年もここに来ていい?」
「……どうして」
「確認するため。私が変われてるか。あなたが変われてるか」
「採点かよ」
「うん。採点。優しい採点」
俺は息を吐いた。潮の匂いが胸に入る。
そして、五年前の続きを、初めて自分の口で言った。
「……美咲」
「なに」
「好きだった。……だから怖かった」
彼女の目が揺れた。
泣かなかった。笑いもしなかった。
ただ、受け取るみたいに頷いた。
「私も」
「……」
「私も、好きだった。だから意地張った」
夕日が海に溶け、波の縁が金色に光る。
彼女は手を振り、砂浜の出口へ歩き出した。
俺は追いすがらなかった。
その代わり、足元の砂を踏みしめ、胸の中で静かに祈った。
来年、またここで。
今度は意地より先に、ちゃんと本当が言えますように。


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