母は、約束を大げさに言わない人だった。
「今度どこか行こうね」とか、「落ち着いたらゆっくり話そうね」とか、そういう便利な言葉をあまり使わない。
使わないくせに、一度口にしたことは、案外きちんと覚えている人だった。
だから私は長いこと、母に対してだけ妙に安心していたのだと思う。
この人は、待っていてくれるのだと。
私が少し遅れても、少し雑でも、少し冷たくしても、最後にはきっと、ちゃんとそこにいるのだと。
人は、失うまでは、その安心を愛情だと思わない。
ただの背景みたいに使ってしまう。
いま私は塾で働いている。
中学生相手の国語と英語を担当していて、夕方から夜にかけてがいちばん忙しい。
授業をして、小テストを配って、面談をして、進路の相談にのって、授業後には親からの電話に出る。
塾講師という仕事は、教えることより、焦っている人を前にして平気な顔をすることのほうが大事なのかもしれない。
このままで間に合いますか。
うちの子、大丈夫でしょうか。
志望校、下げたほうがいいですか。
そんな問いに、その場ではひとつずつ答える。
でも本当のところ、誰かの将来を断言できる人間なんていない。
ただ、断言できないまま隣に座るしかない。
私はその仕事が嫌いではなかった。
もともと勉強より、勉強にうまく乗れない子の沈黙のほうに興味があった。
問題集の余白に描かれた落書きとか、丸つけのないプリントとか、答えを書く前に何度も消された跡とか、そういうものを見ると、こちらまで少し息が詰まった。
ああ、この子も言えないのだな、と思う。
言えないまま、時間だけが先に進んでしまうのだな、と。
その意味では、私はたぶん、母に似ていた。
母もまた、言えない人だった。
ただ私と違うのは、母は言えないかわりに、よく書く人だった。
台所のテーブルにはいつもメモ帳があり、買い物のこと、電気代のこと、病院の予約時間、私への伝言、なんでもそこに書いた。
急ぎのときほど字は丸くなって、余裕があると妙に丁寧になる。
冷蔵庫には、母の書いた紙がよく貼ってあった。
「牛乳きれてます」
「ごはん、冷凍してあります」
「雨。洗濯中へ」
そんなものばかりだ。
私は子どもの頃、そのメモが少し嫌だった。
話せばいいのに、と思っていた。
家に帰れば顔を合わせるのに、わざわざ紙に書くなんて、どこかよそよそしい気がしたのだ。
でも今思えば、母はたぶん、言葉にするとこぼれてしまうものを、紙の上でなら整えられたのだろう。
私はそういう母を見て育ったくせに、忙しくなると、いちばん先に母への返事を雑にした。
「あとで」
「今日は無理」
「ごはんいらない」
そういう短い文を、スマホで打つようになってからは、ますますひどくなった。
仕事が忙しかったのである。
夕方から授業が立て込み、土曜は模試、日曜は面談、受験期になれば帰宅はいつも十時過ぎだった。
塾の窓から見える夜の道路は、だいたい毎日同じで、コンビニの白い灯りと、迎えの車のブレーキランプばかりが規則正しく並んでいた。
私はその光景を見ながら、若いころの自分は、もっと自由な仕事をするつもりだったのに、と思うことがあった。
でも、疲れているときの「ほんとうは」は、たいてい少し大げさだ。
母は団地で一人暮らしをしていた。
父が亡くなってから、引っ越すかどうか何度か話したが、母は「ここでええ」と言った。
古びた五階建ての団地だった。
ベランダにはいつも誰かの洗濯物が揺れていて、階段の踊り場には季節外れのサンダルが置かれていて、夕方になると味噌汁と洗剤の匂いがまざる。
私はあの団地が、少し窮屈で、少し安心する。
狭い場所というのは、ときどき人を守る。
そのかわり、失ったものの声もよく響く。
母は私に、しょっちゅう来いとは言わなかった。
ただ、週に一度くらい「時間あったら寄って」とメモの写真を送ってきた。
テーブルに置かれた紙切れの写真である。
青いペンで書かれた、「肉じゃが作った」「みかんある」「クリーニング受け取ってほしい」みたいな短い字。
それが、母なりの呼び方だった。
私はそれに、たいてい「また今度」と返した。
また今度。
なんとも便利で、なんとも薄情な言葉である。
今度は来ないかもしれないのに、人はよくそれを使う。
その約束を、いちばん先に破るのはいつも未来のほうなのに。
去年の冬、母から珍しく電話が来た。
授業の直前だった。
私は出られず、休み時間にかけ直したが出なかった。
そのあと、メッセージが一件入っていた。
写真ではなく、文字だけだった。
「今度の日曜、話したいことある。時間ちょうだい。」
私はその文を見て、少しだけ胸がざわついた。
でも、その週末はちょうど中三の直前対策講座が入っていた。
休める空気ではなかった。
私の代わりがいない、というのはたぶん思い上がりだが、そのときは本気でそう思っていた。
思いたいだけでもあったのだろう。
仕事を理由にしていれば、向き合わなくていい話というものがある。
私は考えた末に、こう返した。
「ごめん、今月ちょっと無理。また落ち着いたら行く」
すぐに既読がついた。
返事はなかった。
私はそこで、少しだけ嫌な気持ちになった。
でも嫌なのは、母の無言にではなく、それを見てしまった自分の後ろめたさに対してだったのだと思う。
だから見ないふりをした。
次の日、母からまた写真が来た。
団地の台所のテーブルに、小さなメモ帳が置いてある。
青いペンで一行だけ。
「じゃあ、春になったら」
私はその写真を見て、なぜか腹が立った。
春になったら、なんて。
そんなふうにこちらの返事を受け入れたような書き方をされると、余計に責められている気がしたからだ。
人は勝手だ。
責められても嫌なくせに、許されても苦しくなる。
私は返信をしなかった。
春は、結局来なかった。
正確に言えば、季節としては来たのだが、母との約束としては来なかった。
母が倒れたのは、二月の終わりだった。
団地の階段で、近所の人に見つけられたらしい。
脳梗塞だった。
命は助かったが、右手が少し不自由になり、言葉も前ほど滑らかに出なくなった。
病院へ駆けつけたとき、母はベッドの上で妙に小さく見えた。
いつもきっちりしていた髪が少し乱れていて、それだけで私は泣きそうになった。
「来たよ」
と言うと、母はゆっくりうなずいた。
「ごめんね」
最初にそう言ったのは、母のほうだった。
私はその瞬間、自分の胸のどこかがひどく醜くなるのを感じた。
謝るのは私のほうだった。
でも、そう思えば思うほど、言葉は出てこなかった。
母はそれ以上、何も言わなかった。
いや、言えなかったのかもしれない。
見舞いに通ううち、私は少しずつ、母の不自由になった右手を見るようになった。
箸を持つのに時間がかかること。
ボタンを留めるのに指先が迷うこと。
ペンを持つと、前より字が震えること。
そのたび、私は団地の台所のメモを思い出した。
青いペンの字。
丸い「春」の字。
私は母の書くあの字を、ずっと背景みたいに見ていたのだ。
退院のめどが立ったころ、私は団地の部屋を少し片づけることになった。
テーブルの引き出しに、いつものメモ帳が何冊も入っていた。
使いかけのもの、表紙のへたったもの、百均の花柄のもの。
そのなかに、一冊だけ、ページの端が折られたものがあった。
開くと、そこには見覚えのある青いペンの字で、たくさんの短いメモが並んでいた。
買い物のメモではなかった。
私の名前が、何度も書いてあった。
「真帆に渡す」
「真帆に言う」
「真帆が来たら聞く」
そして、折られたページのところに、こう書いてあった。
「春になったら、一緒に団地の桜を見たい。父さんの話もしたい。真帆、最近つかれている顔。仕事やめたいなら、やめてもいいと言いたい。」
私はその場で動けなくなった。
母が話したいと言っていたことは、それだったのだ。
私はもっと現実的なことだと思っていた。
お金のこととか、介護のこととか、住み替えのこととか、そういう重たい相談だと勝手に決めつけていた。
だから逃げたのだ。
仕事を理由にして。
でも本当は、母はただ、桜を見たいと言いたかっただけだった。
父の話をしたかっただけだった。
そして、私に「やめてもいい」と言いたかったのだ。
私は畳の上に座り込んで、メモ帳を握った。
泣くつもりはなかったのに、涙が先に落ちた。
忙しかった、は本当だ。
でもそれは、言い訳としても便利すぎた。
忙しさの陰にいれば、見たくないものを見なくて済む。
私はたぶん、母とちゃんと向き合うことから逃げていたのだ。
塾では毎日、生徒に「先延ばしにすると苦しくなるよ」と言っているくせに、自分はいちばん大事な約束を、きれいに先延ばしにしていた。
母が退院してきたのは、四月のはじめだった。
団地の前の桜は、ちょうど咲き始めていた。
私は仕事を早めに切り上げ、母の部屋へ寄った。
テーブルの上には、新しいメモ帳と、青いペンが置いてあった。
母はそれを見て、少し笑った。
「もう、字、へたになった」
私は首を振った。
「好きだよ、その字」
母は驚いた顔をした。
私がそんなことを言うのは、たぶん初めてだった。
私は鞄から、あのメモ帳を出した。
折られたページを開いて、母の前に置いた。
母はしばらく黙って見ていた。
それから、小さく言った。
「言おうと、思ってた」
「うん」
「言えんかった」
「うん」
私はそこで、ようやく言えた。
「ごめん。春になったら、って書いてくれたのに」
母は首を横に振った。
「春、来た」
その言い方が、昔と同じで、少しだけぶっきらぼうで、私は泣きながら笑ってしまった。
窓の外では、団地の桜が風に揺れていた。
満開ではない。
まだ少し早い、頼りない咲き方だった。
でも、だからよかった。
約束というのは、たぶん、完璧に守られることだけを言うのではない。
遅れても、かたちを変えても、もう一度そこへ行こうとすることも、約束のうちなのだろう。
私はその日、母と一緒に団地の下まで降りた。
歩くのはゆっくりだった。
母は手すりに触れながら、一段ずつ慎重に降りた。
昔なら、そういう歩き方を見るのはつらかっただろう。
でも今は、その遅さのなかにしか見えないものがある気がした。
外へ出ると、団地の敷地の端にある桜が、夕方の光のなかでやわらかく揺れていた。
母は見上げて、「咲いたね」と言った。
それだけだった。
私はその隣で、父のことや、仕事のことや、これからのことを、少しずつ話した。
塾をやめたいと思う日があること。
子どもは好きなのに、数字ばかり追いかける空気に疲れること。
誰かの将来を励ますたび、自分の将来はどこにあるのか見えなくなること。
母は黙って聞いていた。
ときどき、うなずいた。
それから、少し時間を置いて言った。
「やめても、いい」
私はまた泣きそうになった。
たったそれだけの言葉を、私はどれほど待っていたのだろう。
待っていたくせに、その機会を自分で何度も先へ送っていた。
帰り際、母は新しいメモ帳を開いて、震える手で何か書いた。
青いペンの先が、少しだけ紙にひっかかる。
それから、そのページを破って私に渡した。
「次は、ちゃんと夏に」
私はその字を見て、笑った。
「うん。今度は先に延ばさない」
母は小さくうなずいた。
その表情は、約束を大げさに言わない昔のままだった。
でも今の私には、それで十分だった。
夜、塾へ戻る前に、私は財布のなかへそのメモをしまった。
お守りみたいに、というと少し安っぽいが、実際そういうものだった。
人は、とても大きな言葉では生き直せない。
「人生」とか「家族」とか、そういうものではなく、青いペンで書かれた、たった一行の約束で、ようやく明日へ行けることがある。
教室に戻ると、中三の生徒が一人、質問を待っていた。
「先生、この問題、もう無理かも」
私はそのプリントを受け取って、少しだけ笑った。
「無理って決めるの、まだ早いよ」
そう言いながら、自分にも同じことを言っている気がした。
春は遅れて来た。
でも来たのだ。
なら、たぶん、ほかのこともまだ間に合う。
私は生徒の隣に椅子を引いて座り、赤ペンではなく、自分の青いペンを取り出した。
母の字に少し似た、やわらかい線が引ける気がしたからだ。


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