2026-03

泣ける話

しおりの挟まった日々

商店街の朝は、店ごとに違う匂いで目を覚ます。  魚屋は潮の匂いを引きずってくるし、豆腐屋は湯気の中に白い静けさを浮かべている。  八百屋の店先には濡れた段ボールが並び、花屋の前では、まだ半分眠ったみたいな色のカーネーションが水を吸っている。  うちの店――いや、うちのではなく、勤め先の小さな書店は、紙とインクと、少し古びた木の棚の匂いがする。
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波打ちぎわの着信音

海辺の町で配達員をしていると、時間というものが、潮みたいに満ちたり引いたりするのがわかる。  朝はパン屋と魚屋と学校が町を急がせ、昼は少し緩み、夕方になると今度は、仕事帰りの惣菜や、病院帰りの薬や、酒屋の缶ビールが、それぞれの暮らしの重さで人を急かす。  私はその急かされ方に、もうだいぶ慣れてしまった。
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まだ乾かないインク

古いアパートというものは、住んでいる人間の事情まで、壁紙の裏に薄く吸いこんでいる気がする。  私の部屋は二階のいちばん奥で、廊下を歩く足音が、雨の日になるとやけに湿って聞こえた。  隣の部屋の戸の開け閉めも、下の階で鍋を置く音も、夜更けにはまるで紙の裏から響くみたいに、ぼそぼそと伝わってくる。
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すり減ったつま先

商店街の朝は、いつだって少し寝ぼけている。  八百屋の前では、まだ若い店員が無造作に水を撒いていて、その水がアーケードの薄い光をはね返していた。  魚屋の親父は開店前から咳をしていて、向かいの豆腐屋は、湯気の向こうで白い四角を静かに並べている。  どの店にも、それぞれの朝の癖があった。
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紺色のマグカップと、明日の一口

病院の朝は、いつも少しだけ冷たいのです。夜のあいだに拭かれた床は白く光っていて、蛍光灯の下を歩く靴音まで、どこか遠慮がちに響く。そのくせ、ナースステーションの奥ではもう一日分の忙しさが静かに沸きはじめていて、白衣の擦れる音や、カルテをめくる...
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母の眼鏡と、手帳の余白

商店街というものは、夕方になると、急に人の本音に似てきます。昼のあいだは威勢のよかった八百屋の声も、魚屋の包丁の音も、夕暮れが近づくと少しだけやわらぐ。揚げものの油の匂いが通りへこぼれ、花屋の前には水を替えたばかりの冷たい桶が並び、どこかの...
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終電後、祖父の切符を拾った夜

終電が出たあとの駅というのは、昼の駅とはまるで別の顔をしています。人に使われるための場所だったはずなのに、人がいなくなると、急に何かを待つ場所に変わるのです。長いホームの先で風が鳴り、蛍光灯が白々とレールを照らし、ベンチだけが誰かの帰りをまだ信じているように見える。私はその静かな駅を巡回する警備員です。
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春の端まで

父に進路を言えなかったのは、反対されるのが怖かったからではない。本当は、少し違う。反対されるのが怖いというより、反対されたときに、私はたぶん傷ついた顔をするだろうと思っていた。その顔を父に見せるのが、嫌だったのだ。中学校の教師になって十年になる。
泣ける話

灯の先で書く字

あの子のことを、私は長いあいだ誤解していた。いや、正しく言えば、誤解していたのは、あの子ではなく、私の役目のほうだったのかもしれない。塾講師になって十一年になる。郊外の駅前にある、雑居ビルの三階の小さな進学塾だ。
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置いていかれた時刻

父の腕時計が止まった時刻を、私はまだ知らない。知らないままでいたかったのかもしれない。港町の朝は、いつも少し湿っている。潮の匂いは、洗っても落ちない。黒い礼服の裾にまで、静かにしみ込んでくる。葬儀社に勤めて七年、私は人の最後の支度ばかり覚えて、自分の家のことは少しも分からなくなった。父が死んだのは、二月の終わりだった。