鍵を閉めた日のこと

先生と私 泣ける話

校舎というものは、子どもがいなくなると、急に年を取る。

昼のあいだ、あれほど騒がしく笑っていたくせに、放課後の廊下は、嘘みたいに静かになる。

窓ガラスに西日が差し、床のワックスだけが、薄く金色に光っている。

私は、その時間が嫌いではなかった。

いや、好きだったと言うと、少し気取って聞こえるかもしれない。

正しくは、その静けさの中にいると、自分がようやく、誰にも期待されていない小さな人間に戻れる気がして、ほっとしたのである。

私は町の小学校で用務員をしている。

四十七歳。

壊れた蝶番を直し、緩んだねじを締め、雨どいの詰まりを取り、冬になれば石油ストーブを各教室へ運ぶ。

運動会の前にはラインカーを整え、入学式の前には花壇の雑草を抜き、卒業式の朝には、演台のぐらつきを確かめる。

誰かの思い出の真ん中に立つ仕事ではない。

思い出の端のほうで、目立たず、少しだけ支えているような仕事だ。

それで充分だと、私は長いこと思っていた。

そういう役目のほうが、自分には似合っていると思っていた。

だが、あの春だけは違った。

三月の終わりだった。

六年生が卒業して、校内の空気がすこし軽く、そしてすこし空っぽになっていた頃だ。

私は職員室の脇の廊下を歩きながら、卒業文集の束を会議室へ運んでいた。

担任の先生が印刷室に置き忘れたものを、代わりに届けるだけの、いかにも私らしい地味な仕事だった。

紙の匂いには、いつも少しだけ胸を締めつけられる。

子どもの書く文章というのは、まだ上手に嘘をつけない。

大人ならうまく誤魔化すような感情が、乱れた字のまま、そこに置き去りにされている。

束のいちばん上にあった一冊が、歩く拍子にぱらりと開いた。

いけない、と思った。

見てはいけないものを見たような気がして、すぐ閉じるつもりだった。

けれど、その開いた頁の中に、自分のことが書かれているのが目に入り、私は足を止めた。

――用務員の坂井さんは、いつも冷たい。

その一文だけで、喉の奥に硬いものがつかえた。

続きには、こうあった。

――忘れ物を取りに行きたいと言ったとき、「鍵はもう閉めたから明日」と言った。

――あの日、ぼくはあの教室に、最後に言いたいことがあった。

私は、その場でしばらく動けなかった。

誰が書いたのか、すぐわかった。

蓮だった。

六年二組の、背の高い、少し不器用な男の子だ。

人前では平気そうな顔をして笑うくせに、叱られると、すぐ唇をきつく噛む癖があった。

泣き虫ではない。

むしろ、その逆で、泣けないほうの子どもだった。

二年前の雨の日、昇降口でひとり、ぐしゃぐしゃになった上履きを持って立っていた姿を、私は覚えている。

洗っても泥が落ちず、乾かしても茶色い染みが残っていた。

まわりの子は笑って通り過ぎたが、蓮は何も言わず、ただそれを見下ろしていた。

私は職員室の倉庫から古い新聞紙を持ってきて、靴の中へ詰めてやった。

「乾くまで我慢しろ」

そう言っただけだった。

礼も言わずに、蓮は小さくうなずいた。

だが、翌朝、その上履きはきれいに乾いていて、かかとの破れたところに、不器用な糸で補修がしてあった。

たぶん家で自分で縫ったのだろう。

子どもの縫い目というのは、妙に胸にくる。

もうひとつ、覚えていることがある。

図工室の裏の流しで、蓮が一人、鼻をすすっていた夕方だ。

まだ三年生だったと思う。

私は掃除道具を片づけに行っただけだったが、あの子は顔を隠したまま、こちらを見ようとしなかった。

理由は聞かなかった。

聞けば、子どもは大人に合わせて「なんでもない」と言うに決まっているからだ。

私はほうきで床を掃きながら、ただ言った。

「泣くなら、水飲んでからにしろ。」

ひどく不器用な励ましだったと思う。

けれど蓮は、蛇口をひねって一口だけ水を飲み、それから小さく笑った。

「なんでですか。」

「干からびるからだ。」

そう言うと、あの子は少しだけ、ちゃんと笑った。

だから私は、嫌われているとは思わなかった。

いや、思いたくなかったというほうが、たぶん正しい。

その文集の一文は、思ったより早く子どもたちのあいだに広がった。

坂井さんは冷たい。

六年二組の蓮を泣かせた。

卒業前なのに、最後のお願いも聞かなかった。

子どもの噂は、風より早い。

そして大人は、そういう噂を知らないふりで聞いている。

先生たちは何も言わなかったが、私を見るときの目の奥に、かすかなためらいが混じった。

説明を待たれているような気がした。

けれど、説明できるような立派な事情もなかった。

あの日、放課後。

蓮は昇降口まで走ってきて、息を切らしながら、教室に忘れ物をしたと言った。

私は見回りを終え、各教室の戸締まりを済ませ、中央玄関の鍵も閉めたあとだった。

その日は来客用の机を会議室に運ぶ仕事が残っていて、職員会議の開始も迫っていた。

校長は几帳面な人で、会議の準備が一つでも遅れると、あからさまに顔に出した。

私は、そういうものを面倒だと思いながらも、結局は従ってしまう人間だった。

忙しかったのである。

その一言で片づければ簡単だが、忙しさというのは、ずいぶん卑怯な言葉だ。

それを口実にすれば、人の気持ちを踏んでも、自分だけは悪くないような顔ができる。

「明日にしろ。」

私はそう言った。

蓮は、珍しく食い下がった。

「今日じゃないとだめなんだ。」

私は苛立った。

疲れていたのもある。

会議の準備もあった。

それに、子どもの“今日じゃないとだめ”という訴えを、大人はしばしば軽く見積もる。

どうせ大したことではない、と思ってしまう。

私は鍵束を腰で鳴らしながら、少し強い声で言った。

「鍵は閉めた。」

その言い方が、だめだった。

言葉そのものより、言い方が。

蓮は何か言いかけて、やめた。

唇だけが、少し動いた。

それから頭も下げず、こちらも見ずに、夕方の校庭へ走っていった。

西日の中を走るその背中だけが、妙に小さかった。

私は翌日には、その出来事を半分忘れていた。

人は、自分がつけた傷の痛みには、驚くほど鈍い。

卒業式の日、蓮は私に声をかけなかった。

私は体育館の入口で来賓用のスリッパを並べ、式が終われば折りたたみ椅子を片づけた。

蓮は母親と並んで、校門の桜の下で写真を撮っていた。

その横顔だけが、やけに大人びて見えた。

ただ、それだけだった。

四月になり、新学期が始まっても、私はあの文集の一文を忘れられなかった。

用務員室で古いポットの湯を沸かしながらも、花壇のホースを巻きながらも、頭のどこかでずっと引っかかっていた。

あのとき、蓮は何を取りに行こうとしていたのだろう。

ほんとうに忘れ物だったのか。

いや、違う。

忘れ物と言いながら、ほんとうに取りに戻りたいのは、物ではないことが多い。

物にくっついた、気持ちのほうだ。

ある夕方、私は誰もいない旧六年二組の教室へ入った。

もう新しいクラス札がかかっていて、机も椅子も別の子どもたちのものになっている。

それでも、夕日の差し方だけは、あの日と変わらなかった。

黒板の前に立つと、空の教室の広さがやけに胸に響いた。

子どもがいない教室というのは、静かというより、置いていかれた感じがする。

教卓の下の引き出しが、少しだけ浮いていた。

鍵はかかっていなかった。

私はそっと開けた。

奥に、薄いノートが一冊残っていた。

表紙の端に、かすれた字で「文集下書き」と書いてある。

その時点で、胸が嫌なふうに鳴った。

中を開くと、何枚か書き直しの跡があった。

消しゴムで消された言葉。

書いてはやめた線。

書けなかったことの跡が、そこに残っていた。

やがて私は、自分の名前を見つけた。

――ほんとうは、坂井さんにお礼を言いたかった。

その一文を読んだ瞬間、私は教卓の横に手をついた。

立ったままでは読めなかった。

続きには、こうあった。

――ぼくは二年のとき、お父さんがいなくなって、靴のかかとも何度もつぶれていたけど、坂井さんは何も聞かずに直してくれた。

――図工室の流しで泣いていたときも、「泣くなら水飲んでからにしろ」と言ってくれて、あれで助かった。

――卒業する前に、ほんとうは教室に置いた手紙を取りに行きたかった。

――坂井さんに渡すつもりだった。

――でも、はずかしくて、うまく言えなかった。

そこから先は、水滴の跡で滲んでいた。

たぶん、書きながら泣いたのだろう。

子どもの涙というものは、ひどくまっすぐで、あとから見ると、他人の胸にまで沁みこんでくる。

ノートの最後のページに、便箋が一枚はさまっていた。

封はされていなかった。

私宛だった。

そこには、不揃いな字で、こう書いてあった。

「坂井さんへ。」

「ぼくは用務員さんになりたいです。」

「みんなは変だと言うけど、ぼくは、学校にいる人をいちばん助けてるのは坂井さんだと思います。」

「目立たないけど、こわれたものを直してくれる人がいると、こわれた人も少しなおる気がします。」

「ぼくも、そういう大人になりたいです。」

読み終えたとき、私はしばらく息ができなかった。

泣くというのは、もっと派手なものだと思っていた。

声が出て、肩が震えて、顔がぐしゃぐしゃになるものだと。

けれど、そのときの涙は違った。

古い蛇口の締まりが悪くなったみたいに、ただ静かに、止まらなかった。

私は、あの子の「今日じゃないとだめなんだ」を、自分の都合で押しつぶしたのだ。

会議の準備だの、戸締まりだの、そんなものは、いくらでもあと回しにできたかもしれない。

少なくとも、一緒に教室まで戻るくらいは、できたはずだった。

たった数分のことだった。

たった数分を惜しんだせいで、私はあの子の大切な勇気を受け取り損ねた。

それでも蓮は、私を完全には悪く書かなかった。

冷たい、と書いたのも本当。

感謝していたのも本当。

その二つが、あの子の中で一緒にあったのだろう。

子どもは単純だと思っているのは、大人の怠慢である。

ほんとうは、子どもの心のほうが、ずっと複雑で、ずっと正直だ。

翌週、私は蓮の家を訪ねた。

駅前から少し離れた、古い団地の二階だった。

階段の踊り場には、去年の風で欠けたプラスチックの植木鉢がまだ置いてあり、玄関の脇には、くたびれた運動靴が二足並んでいた。

呼び鈴を押すと、母親が出てきた。

少しやつれた、けれど感じのいい人だった。

事情を話し、手紙のことを伝えると、彼女は玄関先で口元を押さえた。

「この子、家では何も言わなかったんです。」

そう言って、目を潤ませた。

「でも、坂井さんのことは、ずっと好きだったんだと思います。」

好きだった、という言葉が、私にはもったいなかった。

蓮は奥の部屋から出てきた。

もう中学の制服を着ていた。

肩幅が少し広くなって、声もわずかに低くなっていた。

人はこんなにも早く、子どもから先へ行ってしまう。

「この前は、悪かった。」

私は頭を下げた。

すると蓮は、困ったような顔をして、耳を赤くした。

「ぼくも、文集に変なこと書いて、ごめんなさい。」

私は首を振った。

「いや。」

「変じゃない。」

「気づくのが遅かったのは、こっちだ。」

蓮はしばらく黙っていた。

それから、目を伏せたまま言った。

「俺、学校の仕事、やっぱり好きです。」

その“俺”という言い方に、私は少しだけ笑ってしまった。

子どもが大人に近づくとき、まず言葉づかいから変わる。

けれど、その照れくさそうな顔は、まだちゃんと小学生のままだった。

私は持ってきた小さな包みを差し出した。

中には、古い合鍵を模した真鍮のキーホルダーが入っていた。

校舎の倉庫に眠っていた廃材を、私が磨いて作ったものだった。

「本物の鍵じゃない。」

「でも、持ってろ。」

蓮は両手で受け取り、しばらく黙って見つめていた。

「なんの鍵ですか。」

そう聞くので、私は少し考えてから答えた。

「閉めるためじゃない。」

「いつか、おまえが何かを開けるための鍵だ。」

蓮は、その意味を半分わかったような顔をして、小さく笑った。

春の風が吹いて、団地の前の桜を、少しだけ揺らした。

校舎に戻ると、いつものように、誰もいない廊下が長くのびていた。

私はモップを持ち、窓を閉め、昇降口の鍵を回した。

金属の触れ合う音が、その日だけは少しやわらかく聞こえた。

目立たなくてもいいのだ、と私は思った。

拍手をされなくてもいい。

名前を覚えられなくてもいい。

それでも、自分のしてきたことが、誰かひとりの心に残り、その誰かがまた別の誰かを支えるなら、それでいいのだ。

壊れたものを直す手つきは、きっと人から人へ継がれていく。

言葉にできなかった感謝も。

受け取り損ねたやさしさも。

いつか別の形で、ちゃんと届く。

鍵とは、閉めるためだけにあるのではない。

誰かが、もう一度ひらけるようにするためにある。

そして私は、そのことを、ひとりの教え子から教わったのである。

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