商店街の朝は、油の匂いとシャッターの音で始まる。
僕は弁当屋の店員で、まだ誰にも名を覚えられていない程度の男だ。
店の看板は「まるや弁当」。
赤い提灯が風に鳴る。
その小さな鈴みたいな音が、父の咳に少し似ている。
父はこの店の店主だった。
正確には、店主「だった」。
今は奥の事務机に座って、帳簿を眺めるふりをしている。
ふり、というのは意地悪な言い方だろう。
けれど父は昔から、「できる」と「できない」の境目を人に見せない人だった。
できない瞬間を見せるくらいなら、黙って耐える。
そういう生き方が、父の生き様だった。
僕がエプロンを締めると、背筋が少し伸びる。
白い布に油が染みて、洗っても完全には落ちない。
その染みが店の年月みたいで、嫌いじゃない。
それでも父の前で紐を結ぶと、胸の奥が微妙に冷える。
認められたい、というより、父の「黙り方」に飲まれたくない。
そんな気分になる。
父は僕に、褒め言葉を言わない。
「助かった」とか「ありがとな」とか、そういう単語が父の口から出るところを、僕はほとんど見たことがない。
その代わり父は、黙って僕の分のまかないを大盛りにする。
黙ってレジ下の小銭を補充する。
黙って、のれんの端を指で整える。
黙り方で、全部言う人だ。
だから僕も、言わなくなった。
言えば届くはずの本音を、わざと喉の奥で潰した。
昼のピークが来る。
唐揚げの揚がる音がパチパチ弾けて、卵焼きの甘い匂いが鼻を撫でる。
商店街の人は、忙しいふりをしながら、実は店の味も店の空気もちゃんと覚えている。
「今日は鮭、いい?」
「いつもの、から揚げ二つね」
そんな声が波みたいに押し寄せては引いていく。
その波の合間に、父の咳が混じる。
小さく、乾いた咳。
誰にも聞こえないふりをしている咳。
父が倒れたのは、去年の冬だった。
派手に倒れたわけじゃない。
閉店後、卵焼きの鍋を洗いながら、急に手を止めた。
そして、いつもの顔で言った。
「ちょっと、目が回る」
その「ちょっと」に、僕は騙された。
救急車の中でも父は「たいしたことない」を繰り返した。
医者は、たいしたことがある顔をしていた。
軽い脳梗塞。
後遺症はほとんど出なかった。
ただ、父は以前より少し「遅く」なった。
歩くのも、手を動かすのも、決断するのも。
そして父は、その遅さを誰にも見せたがらない。
だから僕が、前に出るしかなかった。
エプロンを締めて、レジの前に立って、声を張って。
「いらっしゃいませ」
「ありがとうございます」
父の代わりに、父のぶんまで。
最初のうちは、妙に誇らしかった。
僕が店を支えている、という感覚が、胸の中で灯った。
でも灯りは、ずっと点けっぱなしにすると煤が出る。
僕は疲れてきた。
父が奥で黙っているのが、だんだん腹立たしくなった。
父は感謝も言わず、褒めもせず、ただ僕に背中を預けてくる。
そんなふうに見えてしまった。
僕は、言ってしまった。
言い方を間違えた。
「……俺だけが回してるみたいじゃん」
声は低かった。
低い声ほど、刃になる。
父は卵焼きの鍋を見ていた。
返事をしなかった。
その沈黙が、僕の胸をいちばん傷つけた。
その夜、父は奥の布団に入ってから、ひとことだけ言った。
「悪かったな」
それが謝罪なのか、何なのか、僕にはわからなかった。
わからないまま、僕も黙った。
黙ってしまえば、父と同じ場所に立てる気がした。
父の言葉の少なさを、僕は誇りみたいに扱っていた。
本当は、怖かっただけなのに。
翌朝。
商店街はいつも通りにうるさかった。
魚屋が氷を砕き、八百屋が値札を投げるように貼る。
僕らの店も、いつも通りに揚げ物の音を鳴らす。
人は、日常が続くと思っているときほど、日常を雑に扱う。
僕もそうだった。
その日の昼過ぎ、父がレジに出てきた。
珍しいことだった。
父は客に向けてではなく、僕に向けて言った。
「レシート、貸せ」
「え?」
父は眉を寄せた。
その顔が、昔の父に少し戻って見えた。
「裏が白いやつ」
僕はレジ横から、真新しいレシートを一枚抜いた。
父は受け取って、奥へ引っ込んだ。
何をするのかと思ったが、すぐに客が来て、僕はまた油の匂いの中へ戻った。
夕方、常連の小学生が駄菓子屋帰りに覗いていった。
「おじちゃん、今日はいる?」
僕は、父を「おじちゃん」と呼ばれるのに少しむず痒くなって、曖昧に笑った。
「奥にいるよ」
子どもは「よかった」と言って、から揚げを一つだけ買っていった。
父は、そういう「ちょっとだけの顔見せ」を、密かに支えにしているのだと、その時気づいた。
気づいたのに、僕は何も言えなかった。
閉店後。
床を拭き、鍋を洗い、エプロンの紐をほどく。
父は奥の机で、何かを探すように引き出しを開け閉めしていた。
そして、僕の前にレシートの束を置いた。
一枚だけ、端が少し折れている。
父は言った。
「……それ、読め」
声が、いつもより遅い。
遅い、というより、重い。
レシートの裏。
鉛筆の薄い字で、短い文が並んでいた。
父の字だった。
ひらがなが、ところどころ丸い。
父の字はもっと角ばっていたはずなのに。
丸さが、弱さみたいで、僕は目を逸らしたくなった。
「おまえが いて たすかってる」
「いそがしいのに すまん」
「ほんとは こわい」
「おまえが いなくなったら このみせは おわる」
僕は、息を吸うのを忘れた。
父が「怖い」と書いている。
父が「すまん」と書いている。
父が、僕が欲しかった言葉を、紙の裏側に、こっそり置いている。
まるで、客に見えないところにだけ本音を隠すみたいに。
いや、父はずっとそうだった。
本音は表じゃなくて、裏に書く人だった。
父は小さく咳をした。
提灯の音に似た咳だった。
「口で言うと、うまく言えん」
父は机の角を見ながら言った。
「遅くなった」
その「遅くなった」は、歩く速度の話じゃない。
僕はそう思った。
言う速度。
気持ちを差し出す速度。
父は、それが遅い。
遅いくせに、間に合ったふりをする。
だから、届かなかった。
僕はレシートを握った。
薄い紙が、汗で柔らかくなる。
「……俺も」
と、言いかけて、喉が詰まった。
僕の本音も、ずっと言えなかった。
父に似たくて、黙った。
黙ることで、強いふりをした。
でも、本当はただ、褒めてほしかった。
「よくやってる」って。
「ありがとう」って。
その一言で救われるくらい、僕は簡単な息子だった。
「俺さ」
僕は、笑ってしまった。
情けない笑い方だったと思う。
「親父のこと、強い人だと思ってたわ」
父は顔を上げなかった。
けれど、肩がほんの少し下がった。
重たい荷物を床に置いたみたいに。
僕はエプロンを畳んで、父の膝の上に置いた。
白い布。
油の染み。
取れない匂い。
それを父は両手で押さえた。
押さえる手が、少しだけ震えていた。
「……ありがとな」
父が言った。
とても遅い速度で。
でも、その遅さが、逆に本当っぽかった。
言葉が、ちゃんと体を通って出てきた音がした。
僕はレシートの裏に、鉛筆で書いた。
父の字の横に、僕の字を並べた。
「こわいなら いっしょに こわがる」
「このみせ つづけよう」
「おれも ありがと」
父はそれを見て、ようやく僕の方を見た。
目が、少し赤かった。
泣いたのかどうかはわからない。
父は泣き方も、きっと裏側に隠す。
翌日。
僕らはいつも通り店を開けた。
商店街は相変わらずうるさい。
唐揚げは相変わらず熱い。
そして僕は、客に言う「ありがとうございます」を、父にも言えるようになりたいと思った。
遅くてもいい。
遅い感謝は、薄い紙にしか乗らないこともある。
でも、乗ったなら、届く。
僕はそう信じて、エプロンの紐を結び直した。
救いは、たぶん、こういう日常の形をしている。


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