母の眼鏡と、手帳の余白

夕暮れ時の静かな美容室 泣ける話

商店街というものは、夕方になると、急に人の本音に似てきます。

昼のあいだは威勢のよかった八百屋の声も、魚屋の包丁の音も、夕暮れが近づくと少しだけやわらぐ。

揚げものの油の匂いが通りへこぼれ、花屋の前には水を替えたばかりの冷たい桶が並び、どこかの店先から古い歌謡曲が流れてくる。

店じまいにはまだ早いのに、みんな一日の疲れをもう隠しきれなくなっていて、私はそういう時間の商店街が好きでした。

たぶん、きれいごとが少し剥がれて、人が人の顔に戻るからだと思います。

私はその商店街で美容師をしています。

駅前のアーケードを抜けて三軒目、古い時計店の向かいにある小さな美容室です。

店の名前は「ルポ」。

休息、という意味だと知ったとき、少し照れました。

そんな立派な場所じゃない、と思ったからです。

髪を切りに来る人は、たいてい少し困って来る。

白髪が増えたとか、前髪が決まらないとか、気分を変えたいとか、誰かに会うのが怖いとか。

髪を整えることは、見た目の問題だけではなくて、うまく言えない気持ちをなんとか人前に出せる形にする作業なのだと、仕事を始めてから知りました。

鏡の前で、私は何百人もの人の「少しだけ新しくなりたい」という願いに触れてきました。

なのに、自分の心のほつれだけは、どうしてもうまく整えられなかった。

とくに母のことになると、私は昔から駄目でした。

母はいつも眼鏡をかけていました。

細い銀縁の、ごく普通の眼鏡です。

けれど私にとって、それは母そのものみたいなものでした。

叱るときも、笑うときも、鍋の湯気でレンズを曇らせながら味噌汁をよそうときも、熱を出した私の額に手を当てるときも、母はいつも眼鏡の向こうからこちらを見ていた。

だから私は、母を思い出すとき、顔の輪郭より先に、レンズに映る台所の灯りを思い出します。

母は不器用な人でした。

料理も洗濯も家計のやりくりも、それなりにそつなくこなしていたのに、気持ちの伝え方だけが、どうにもぎこちなかった。

「似合ってるね」と言えば済むところを、「若い子向けじゃないの」と言う。

「心配してる」と言えばいいところを、「ちゃんとしなさい」と言う。

「休みなさい」の代わりに、「そんな働き方してたら体を壊すよ」と言う。

母の言葉はいつも、気持ちより少し固い形で私に届きました。

私も、それを責められる立場ではありませんでした。

私は私で、母にそっくりだったからです。

本当は甘えたいのに、つい反発する。

礼を言いたいのに、「別に」と言ってしまう。

やさしくしたいのに、先に棘が出る。

血筋というのは、顔だけではなく、失敗の仕方まで似るものらしいです。

美容師になりたいと母に話したのは、高校を卒業する少し前でした。

私は昔から、髪を触るのが好きでした。

自分の髪をいじるのも、友だちの前髪をそろえるのも、祖母の白髪を梳かしてあげるのも好きだった。

手の中で、乱れていたものが少しずつ形を持っていくのが嬉しかったのです。

ようやく見つけた夢だと思っていました。

母は黙って聞いて、それから言いました。

「手に職はいいけど、美容師は大変だよ」

私は、その一言で傷つきました。

いま思えば、母は反対したかったのではなく、怖かったのでしょう。

忙しい仕事だし、立ちっぱなしで手も荒れるし、客商売だから気も遣う。

娘が苦労する未来が、母には先に見えてしまったのだと思います。

でも当時の私は、そんなふうには受け取れなかった。

「どうせ無理だって思ってるんでしょ」

母はすぐに首を振りました。

「そういう意味じゃないよ」

けれどその言い方が、私にはひどく曖昧で、逃げ腰に聞こえました。

応援してくれるなら、最初からそう言えばいい。

私はそう思って、むきになりました。

「だったら、“頑張れ”って言えばいいじゃん」

母は何か言いかけて、結局、眼鏡のつるを指で直しただけでした。

その沈黙が、私は嫌いでした。

言葉にしてくれないものは、ないのと同じだと思っていたのです。

それから私たちは、要所要所でぶつかるようになりました。

就職して、店で下積みをしていたころもそうでした。

帰宅が遅くなると、母は玄関先で言いました。

「そんな時間まで働くの」

私は靴を脱ぎながら答えました。

「見習いなんだから当たり前でしょ」

「当たり前でも、体は一つしかないよ」

「またそれ」

母は黙る。

私はいらだつ。

そんな会話ばかりでした。

独立を決めたときには、もっとひどかった。

駅前の商店街に小さな空き店舗が出たのです。

古いけれど陽当たりがよく、鏡を置けばきれいに見えるだろうと思った。

通りには花屋も総菜屋も時計店もあって、人の暮らしの匂いがする。

私はそこに、自分の店を作りたいと思いました。

勇気がいりました。

借金も不安でしたし、失敗したらどうしようという怖さもあった。

だからこそ、母には背中を押してほしかった。

けれど、母の第一声は「そんなに急がなくても」でした。

私は笑ってしまいました。

悲しいときに笑ってしまう癖が、昔からあるのです。

「急がなくても、って何」

「もう少し勤めてからでも」

「つまり、今の私はまだ足りないってこと」

「そうじゃなくて」

またそれでした。

私はたまりかねて言いました。

「お母さんって、なんでいつもそうなの」

「応援するふりして、先に不安ばっかり言うよね」

「ほんとは私が失敗すると思ってるんでしょ」

母はしばらく黙っていました。

眼鏡の奥の目が、少しだけ伏せられた。

あのときの顔を、私は長いあいだ、責める材料として覚えていました。

図星を突かれたから黙ったのだと、そう思っていたのです。

店を開いてからも、母との距離は縮まりませんでした。

母はときどき店に来ました。

予約もせず、ほんの数分だけ顔を出す。

「これ、安かったから」

そう言って、梨や海苔巻きや、ドラッグストアで買ったハンドクリームを置いて帰る。

私は素直に喜べなかった。

「こんなの気を遣わなくていいのに」

その言い方が、自分でもわかるくらい冷たい日がありました。

母は「近くまで来たから」とだけ言って笑う。

商店街の人はみんな、そんな母のことを好いていました。

肉屋のおばさんは「あんたのお母さん、昨日もあんたのこと自慢してたよ」と言う。

花屋のおじさんは「開店のとき、うちでいちばん高い胡蝶蘭にするか迷ってた」と笑う。

それを聞いても、私はすぐには信じられませんでした。

店の前では何も言わないくせに、と、意地の悪い気持ちが先に立つ。

私は母の言葉が足りないことばかり数えて、その足りなさの奥にあるものを見ようとしなかったのです。

ある年の秋、母が倒れました。

大きな事故ではありませんでした。

貧血と疲労が重なって、台所でしゃがみ込んでしまったのだと、近所の人から聞きました。

私は仕事のあとで病院に駆けつけました。

白いカーテン、消毒液の匂い、硬いパイプ椅子。

母は病院着のままベッドに半分起き上がっていて、珍しく眼鏡を外していました。

その顔を見たとき、私は妙にうろたえました。

眼鏡のない母は、私の知っている“母”より、少しだけ弱い一人の女の人に見えたのです。

目尻の皺や、まぶたの重さや、疲れた肌の色が、急にはっきり見えた。

私はその弱さにどう接していいかわからなくなって、結局、いつもの失敗をしました。

「ちゃんと食べないからでしょ」

心配のつもりでした。

でも口から出た瞬間、責める響きになったとわかりました。

母は少しだけ笑いました。

「ほんと、あんたは私に似てきたね」

私は何も言えませんでした。

母はそれからいったん退院しましたが、冬に入るころ、また具合を悪くしました。

今度は前より長く、そして、悪かった。

病名を聞いた日のことを、私はあまり正確に思い出せません。

診察室の空気が乾いていたことと、母が眼鏡をかけ直す手が少し震えていたことだけは覚えています。

私は「大丈夫」と言いました。

それは誰のための言葉だったのか、いまでもわかりません。

母は「そうだね」と答えました。

その“そうだね”は、私を安心させるための相づちだったのかもしれません。

結局、その冬の終わりを待たずに、母は亡くなりました。

雨の日でした。

商店街のアーケードに雨粒の音が響いて、いつもより灯りが黄色く見えた。

店を閉めて病院へ向かったとき、私は道の真ん中で一度立ち止まりました。

総菜屋から揚げ物の匂いがして、パン屋のシャッターが半分だけ下りていて、魚屋のおじさんがバケツの水を流していた。

世界はいつも通り続いているのに、私の中だけが急に置いていかれる感じがしました。

葬儀のあと、私はしばらく夢の中みたいに働いていました。

鋏の手つきだけが先に動く。

髪を濡らし、切り、乾かし、笑う。

人に「軽くなった」と言われるたび、自分だけがどんどん重くなっていく気がしました。

つらかったのは、母の死そのものだけではありませんでした。

最後までうまく話せなかったこと。

ずっと、母は私を信じていないと思っていたこと。

応援したいより先に心配を言う人。

褒めたいより先に欠点を言う人。

私はその印象だけを抱いて、母を決めつけていたのです。

母の部屋を片づけたのは、四十九日を過ぎてからでした。

箪笥の引き出しには、きれいに畳まれたハンカチや、もらい物の石鹸や、輪ゴムで束ねたレシートがしまってありました。

どれも母らしい、きちんとした暮らしの残りでした。

その奥から、一冊の古い手帳が出てきました。

黒いビニール表紙の、ありふれた手帳でした。

家計の記録か、通院のメモだろうと思って何気なく開いたのです。

最初の数ページは、その通りでした。

回覧板、電気代、病院、ゴミの日。

けれどしばらくめくっていくうちに、私は妙なことに気づきました。

予定の欄ではなく、その横のほんの狭い余白に、小さな鉛筆の字がいくつも押し込められていたのです。

最初は読み取れませんでした。

私は戸棚の上に置いてあった母の眼鏡をかけて、もう一度、手帳に顔を近づけました。

すると、そこに書かれていたのは、予定ではなく、言えなかった言葉たちでした。

「面接の日。晴れるといい」

「今日は遅くまで練習。足が痛くなってないかな」

「手、荒れていないかな」

「店の契約、うまくいきますように」

「言いすぎた。応援してると、どうして言えないんだろう」

そこで私は息をのみました。

さらにページをめくると、もっとたくさんあった。

「開店の日。花を持って行きたいけど、迷惑かな」

「店の前を通った。忙しそうで、声をかけられなかった」

「似合ってた。あの服、ちゃんと似合ってたのに」

「失敗したらどうする、じゃない。失敗しても帰ってこられる場所でいたいだけ」

「私の言い方はいつもだめだ」

「でもあの子はやれる」

私は床に座り込みました。

手帳を持つ手が震えて、ページの端がかすかに鳴った。

母は、応援していなかったのではなかった。

ただ、言えなかったのだ。

大事なことほど、口に出すと違う形になる。

祈りは小言に聞こえ、心配は否定に見え、愛情は管理みたいになってしまう。

私はずっと母の“不器用さ”に傷ついてきたつもりでした。

けれどその不器用さは、鏡みたいにそっくり私にもあったのです。

ページのいちばん下、ほとんど欄外みたいなところに、こんな一文もありました。

「眼鏡を外したら、あの子の顔が少しぼやけた」

その次の行に、少し時間を置いて書いたような字で、

「ぼやけるくらいがちょうどいい日もある。言いすぎた顔を、はっきり見なくて済むから」

とありました。

私はそこで、とうとう声を上げて泣きました。

母はわかっていたのです。

自分の言葉が私を傷つけることも。

それでも直せないことも。

わかっていて、余白にだけ本当のことを書いていた。

手帳の余白というのは、なんだか人の心の隅に似ています。

表向きの予定や用事ではない、本当にこぼれてしまうものだけが、ああいう狭いところに入り込む。

母の本音は、ずっとそこにいました。

声にされず、でも確かに、消えないまま。

その夜、私は店にひとり残りました。

最後の客を見送り、床を掃き、鏡の指紋を拭いて、商店街のシャッターの音を聞きながら、受付の椅子に座った。

店の灯りを一つだけ残すと、鏡の中にいる自分が少し他人みたいに見えました。

私は母の眼鏡と手帳をカウンターに並べました。

眼鏡のレンズには、店の明かりが小さく二つ映っていました。

その光を見ていると、母がまだどこかでこちらを見ているような気がして、また少し泣けました。

私は便箋を出しました。

手紙を書こうと思ったのです。

ごめん、でもありがとう、私は誤解していた、応援してくれていたんだね、と。

けれど、書けませんでした。

綺麗な文章にした瞬間、どこか嘘になる気がしたのです。

私は結局、母の手帳の最後のページを開きました。

もう何も予定の書かれていない、まっさらな余白でした。

そこに小さく書きました。

「お母さん、私はちゃんと応援されていました」

一行あけて、

「私も、うまく言えなくてごめん」

少し迷ってから、最後にこう書き足しました。

「これからは、言えるうちに言います」

それが和解なのかどうか、私にはわかりません。

母はもういないし、返事もない。

都合よく全てが許されたわけでもないし、なくした時間が戻るわけでもない。

でも、長いあいだ胸の中で固く結ばれていたものが、少しだけほどけた感じがしました。

翌朝、店を開ける前に、私は鏡の前に立ちました。

最初の予約は、白髪を気にしている常連の女性でした。

ケープをかけると、その人は鏡の中で不安そうに笑って、「こんな年で髪型変えるの、変じゃないですかね」と言いました。

以前の私なら、「大丈夫ですよ」とだけ言っていたと思います。

でもその日は、少し早く、少しはっきり言えました。

「似合いますよ」

言ってから、自分の胸がわずかに震えるのがわかりました。

たぶん私は、その人に言いながら、どこかで母にも言っていたのです。

外では、商店街が朝を始めていました。

八百屋が箱を並べ、パン屋が焼きたてを出し、花屋がバケツの水を替えている。

その光景は母がいたころとほとんど同じなのに、私は前より少しだけ違う目で見ていました。

母はきっと、ずっと私を見ていたのです。

見えすぎるくらい見ていたから、怖かったのだと思います。

失敗したらどうしよう。

無理をして壊れたらどうしよう。

傷ついたとき、戻ってこられる場所でいられるだろうか。

そういう祈りが、あの人の口では、いつも少し硬い言い方になってしまった。

それだけのことだったのに、私は長いあいだ、その言葉の表面ばかりを憎んでいました。

いまの私も、相変わらず、ときどき言い方を間違えます。

やさしくしたいのに、注意みたいになる。

励ましたいのに、そっけなく聞こえる。

そんなたび、私は母の手帳の余白を思い出します。

言えなかった本音は、消えたわけではない。

届かなかったとしても、なかったことにはならない。

だからこそ、少しずつでも、声にしていかなければならないのだと思います。

信じていることも。

似合っていることも。

心配しているだけじゃなく、味方でいることも。

商店街の夕方は、今日もきっと、またやって来ます。

揚げものの匂いが流れ、ラジオが鳴り、鏡に西日が差す。

そのたび私は、鋏を持ちながら、ふと

思うのです。

母さん。

あなたの言えなかった言葉は、遅かったけれど、ちゃんと届きました。

そしてたぶん、いま私が鏡の前で誰かに「似合いますよ」と言える、そのわずかなやわらかさの中に、あなたの不器用な愛情は、まだ静かに生きているのです。

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