私が小学校の用務員になったのは、子どもが好きだったからではありません。
こういうことを言うと、だいたい二種類の顔をされます。
一つは、「ああ、この人は少しひねくれているのだな」という顔。
もう一つは、「そんなことを言って、本当は子どもが好きなんでしょう」という、勝手に救おうとする顔です。
どちらも、少し外れています。
私はただ、人と正面から向き合わなくていい仕事に就きたかったのです。
朝いちばんに校門の錠を外し、渡り廊下の窓を開け、昨日の砂を掃き、花壇の水を替え、壊れた机のねじを締める。
そういう、誰かの生活の端っこを黙って整える仕事なら、私にもできる気がしました。
人を励ますのは苦手です。
慰めるのはもっと苦手です。
しかし、開かない鍵を開けるとか、ぐらつく椅子を直すとか、そういうことなら、いくらか役に立てる。
その程度の人間でした。
母が倒れたのは、六月の、やけに明るい朝でした。
前の日の夜、私は母からの電話をわざと短く切りました。
「最近どう」
「べつに」
「ちゃんと食べてるの」
「食べてるよ」
「忙しいの」
「うん」
それだけです。
それだけの会話なのに、私は受話器を置いたあと、ひどく腹が立っていました。
母はいつもそうでした。
私の仕事の中身には触れないくせに、表面だけを撫でるようなことを言う。
寒くないの、眠れてるの、疲れてないの。
そんなことばかりだ。
私は子どもではないのに、と思っていました。
いや、ほんとうは違います。
私はもう子どもではないのだから、私が何をして、どんな顔で生きているのかを、ちゃんと見てほしかったのです。
翌朝、電話に出ない母を不審に思って部屋へ行くと、母は台所の床に座り込んでいました。
倒れたというより、途中で力が尽きて、そこにそっと置かれたような姿でした。
救急車を呼んで、病院へついて、検査の結果を聞かされて、私は医師の白衣の襟ばかり見ていました。
人は衝撃を受けると、妙なところに目が行くものです。
襟に小さな糸くずがついていました。
私はそれを見ながら、母が死ぬかもしれないという話を聞いていました。
母は入院してから、自分のことをほとんど言わなくなりました。
痛いとも、苦しいとも、寂しいとも言わない。
代わりに、会うたびに一つだけ訊きました。
「学校は」
私は最初、その言葉の意味がわかりませんでした。
「べつに、ふつう」
と答えると、
「そう」
母はそれで終わらせる。
まるで私のことではなく、天気でも聞いているみたいでした。
私はそれが、たまらなく癪に障りました。
学校ではそのころ、プール開きの準備が始まっていました。
倉庫の古い南京錠は錆びていて、鍵穴に差し込んでも、すぐには回らない。
少し持ち上げて、ほんの少し右へ戻してから、静かに押す。
乱暴にすれば、よけいに意地を張る。
気むずかしい年寄りみたいな鍵でした。
私はしゃがみこんだまま、何度もその鍵をいじりました。
汗が首すじを伝い、遠くで子どもたちの歓声があがる。
体育の授業だったと思います。
若い先生が笛を吹き、子どもたちが一斉に笑う声は、校庭いっぱいに広がるくせに、私のところへ来るころには少しやわらかくなっていました。
そういう距離感が、私は好きでした。
その日の帰り、病室で私は、母の棚に置かれた封筒を見つけました。
見知らぬ女性の名前が書いてありました。
封はされていませんでした。
見てはいけない、と思いました。
けれど私は昔から、「見てはいけない」と思ったものほど見てしまう、あまり立派でない性分です。
中には、便箋が一枚だけ入っていました。
――あの子には、まだ言えません。学校だけは、失わせたくないのです。
たったそれだけでした。
それだけなのに、私は腹の底が冷たくなりました。
何をだ。
何を、私に言えないのだ。
学校だけは失わせたくない、とは何だ。
私はその数行で、ずいぶん勝手なことを考えました。
母は私の知らないところで、誰かに相談している。
私を子ども扱いしている。
私の仕事や生活に口を出そうとしている。
あるいは、もっと別の何かを、長いこと隠していたのかもしれない。
人は傷つく準備ができているとき、いちばん悪い意味を選ぶものです。
私にはその才能がありました。
それから私は、病室へ行く回数を減らしました。
忙しいから。
学校があるから。
そう言えば、だいたいのことは許されます。
忙しさというのは便利です。
冷たさや、臆病や、薄情を、全部まじめさの顔に見せてくれる。
七月に入って、校内の空気は湿り、廊下のワックスは妙にべたつき、子どもたちはすぐ喉を乾かしました。
一年生の男の子が転んで膝をすりむき、保健室まで連れて行こうとすると、「ぼく、なかない」と言い張りました。
唇をふるわせながら、泣かないと言うのです。
その様子が、どういうわけか昔の自分に似ていて、私は困りました。
「泣いてもいいよ」と言う資格が、自分にはない気がしたのです。
代わりに私は、その子の上履きについた砂を、黙って手で払ってやりました。
その子は私を見て、ぽつりと言いました。
「おじさん、やさしいね」
私は思わず笑ってしまいました。
そんな誤解は、子どもだけがするものです。
放課後、一年二組の教室を閉めようとして、私は机の横に薄いノートが落ちているのを見つけました。
表紙に、丸い字で「こうかんノート」と書いてありました。
忘れものだろうと思って開いたのですが、そこで手が止まりました。
――おかあさん、びょういんで、わらわなくなった。
――わたしが、なにか、わるいことしたのかな。
返事の欄には、別の子の字でこうありました。
――ちがうよ。
――おとなは、かなしいとき、うまくわらえないんだよ。
その下に、赤い色鉛筆で、花が一輪描いてありました。
ずいぶん下手な花でした。
けれど私は、その花にひどく打たれました。
教室の窓から差しこむ夕方の光が、机の角や黒板のふちを、やさしく光らせていました。
誰もいない教室というものは、いつも少し、祈りのあとみたいです。
子どもたちの声だけが抜け落ちて、でも、たしかに何かが残っている。
私はその静けさの中で、母の「学校は」という言葉を思い出していました。
その晩、私は母のアパートへ寄りました。
洗いかごに伏せられた茶碗、ぴしりと揃えられたタオル、何度も縫い直した台ふきん。
母の暮らしは、亡霊みたいに几帳面でした。
ひとがいなくなりかけている部屋ほど、物は妙にきちんとしているものです。
押入れの下の引き出しに、大学ノートが何冊も重ねてありました。
表紙には年号と、私の名前。
嫌な予感がしました。
そして、たいてい嫌な予感は当たります。
一冊目を開くと、そこには、母の字で私のことが書かれていました。
交換ノートでした。
相手は、私でした。
もっとも、私は一度も書いた覚えがないのですが。
――四月七日。ようすけ、入学式で三回ふりかえった。
――泣かなかった。
――えらかった。
――でも、ほんとうは、抱きしめたかった。
次のページ。
――十月十二日。運動会でびりだった。
――帰ってから靴をきちんと揃えていた。
――あの子は、くやしいときほど静かになる。
また次のページ。
――三月二十日。卒業式。
――友だちの前では笑っていた。
――家に帰ってから押入れで泣いていた。
――見ないふりをした。
――親は、見ないふりをする役目のこともある。
私は、そこで息が苦しくなりました。
母は何も見ていなかったのではなかった。
見すぎるほど見ていたのです。
私が喋らないことも、平気なふりをすることも、玄関に脱いだ靴の向きも、食べ残した弁当箱の重さも、全部。
私の沈黙を、母はずっと読んでいた。
ノートの後ろのほうへ行くほど、字は震えていました。
――先生に、長くないと言われた。
――ようすけには、まだ言えない。
――あの子はやさしいから、きっと仕事をやめてしまう。
――やっと見つけた居場所なのに。
――学校は、あの子を助けてくれた場所だった。
――父親が死んだ年も、しゃべれなくなった年も、あの子は毎朝、学校の門だけはくぐった。
――だから、あの場所だけは、失わせたくない。
私はそこで、便箋の意味をようやく知りました。
母の秘密は、私を遠ざけるための秘密ではなかったのです。
私を生かしておくための秘密でした。
人を守るやり方が、かならずしも優しく見えるとは限らない。
むしろ、本当に守ろうとするときの手つきは、ときどき冷たくすら見える。
私はそんな簡単なことを、母が倒れるまで知りませんでした。
涙が出ました。
私は泣くのが下手です。
泣きながら、こんなふうに泣いている自分をどこかで見てしまう。
芝居じみている、とか。
今さらだ、とか。
そういう嫌な声が胸の隅で囁く。
けれどその晩は、そんな声よりも先に涙がこぼれました。
人がほんとうに後悔するとき、羞恥心は少し遅れて来るようです。
翌日、私は病室へ行きました。
母は窓の外を見ていました。
曇り空でした。
夏が近いくせに、どこか色の乏しい空でした。
「学校は」
母は、いつものように訊きました。
私は椅子に座って、少し考えてから言いました。
「今日も、ちゃんと開けてきたよ」
母は黙って、私を見ました。
その目に、すぐ何かがにじみました。
私は鞄から、新しい大学ノートを出しました。
表紙に大きく、《交換ノート》と書いてあります。
「つづき、書こう」
母はしばらくノートを見て、それから私の顔を見ました。
「見たの」
「見た」
「いやな子」
「知ってる」
母は、少し笑いました。
ほんとうに少しだけでした。
けれど、その笑い方を見たのは、ずいぶん久しぶりな気がしました。
私はその日、はじめて母に学校の話をしました。
古いプールの鍵がすぐには開かないこと。
泣くのを我慢した一年生がいたこと。
教室の交換ノートに、花が描いてあったこと。
飼育小屋のうさぎが死んだ朝、担任の先生が子どもたちに説明する前に、ひとりで泣いていたこと。
校庭の隅のひまわりが、去年より背が高いこと。
母はときどき目を閉じながら、ぜんぶ聞いていました。
そしてノートの最初のページに、ゆっくりと書きました。
――つづきを、ありがとう。
それから一か月ほどして、母は亡くなりました。
あまりに静かな最期で、私はしばらく、それを最期だと認めることができませんでした。
人の死は、劇的であるとは限りません。
むしろ、あっけないほど静かに、部屋の温度を一度だけ変えて、それで終わることがあります。
葬儀が終わって、また学校へ戻った朝、私はいつものように校門の鍵を開けました。
金属のかすかな手応えが、掌に返ってきました。
門扉が、きい、と鳴いて開く。
その音を聞いた瞬間、私は不意に、ああ、と思いました。
終わったのではないのだ、と。
つづいているのだ、と。
母が守ろうとしたものの中に、私はまだいるのだ、と。
朝の校庭を、一年生の女の子が走ってきました。
ランドセルを揺らしながら、私の前で立ち止まり、小さな手を差し出しました。
見ると、錆びた古い鍵がひとつ乗っていました。
「これ、ひろった」
たぶん、図工室の棚の鍵でした。
私は受け取って、「ありがとう」と言いました。
女の子はうなずいて、それから門の向こうを見て、急に言いました。
「おじさん、ないたの」
私は少し驚いて、
「どうして」
と聞きました。
「めが、あかいから」
子どもは、ときどき残酷なくらい正確です。
私は困って、それから、少しだけ正直に言いました。
「うん。ちょっとね」
女の子は「そっか」と言って、それ以上は何も訊かずに校舎へ走っていきました。
私はその背中を見送りながら、胸の奥のどこかが、静かにほどけていくのを感じました。
母が私の沈黙を読んだように、私もまた、言葉にならないもののそばに立つことなら、できるかもしれない。
慰めることは、相変わらず下手でしょう。
うまいことも言えないでしょう。
けれど、朝に門を開けることはできる。
なくした鍵を預かることはできる。
誰かが泣いたあとの目の赤さに、気づかないふりをしながら、そばにいることはできる。
職員室の引き出しには、いまも交換ノートが入っています。
新しいページには、私の字で、ときどきこう書きます。
――今日は、一年二組の子が、転んだ友だちに黙ってハンカチを貸していました。
――今日は、ひまわりが、とうとう私の背を追い越しました。
――今日は、古い鍵が、前より少しやさしく回りました。
そして、ときどき最後に書くのです。
――母さん、小学校は、今日もちゃんと開いています。
返事はもうありません。
けれど私は、返事がないことを、もう見捨てられたとは思いません。
沈黙にも、つづきがあるのだと知ったからです。
誰かが自分を思って黙っていた、その沈黙ならなおさらです。
朝の門は今日も開きます。
子どもたちは走ってきます。
泣いた子も、笑った子も、昨日少し傷ついた子も、たいていは、また明日を始めます。
私はそのたびに、錆びた鍵を掌の中で鳴らしながら思うのです。
救いというものは、奇跡の形では来ないのかもしれない、と。
誰かが失わせまいとしてくれた場所へ、翌朝もちゃんと戻って来られること。
たぶん、それだけで、人はもう一度生きられるのです。


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