古いアパートには、音が染みついている。
二階の廊下を誰かが歩く音。
隣の部屋のやかんが鳴る音。
どこか遠くでテレビの笑い声が漏れてくる音。
洗濯機の脱水が、壁越しに小さな地震みたいに響く音。
そういう、他人の生活の端っこみたいなものが、薄い壁の向こうで絶えず息をしている。
私はそのアパートの三〇五号室に、週に二度、訪問している。
訪問看護師になって七年。
病院を辞めて在宅へ移ったとき、先輩に「人の暮らしの中へ入る仕事だよ」と言われた。
そのときは分かったような顔をしたが、本当には分かっていなかったのだと思う。
暮らしというのは、清潔な処置台の上には乗っていない。
洗っていないコップ。
干しっぱなしのタオル。
玄関に脱ぎ散らかった靴。
開けたままの薬箱。
切れかけた電球。
そういうものの中に、その人の弱り方や、見せたくなさや、意地の張り方まで混じっている。
私は今年で三十六になる。
いま担当している利用者さんのなかに、母によく似た人がいる。
似ているのは顔ではない。
ひとりで何とかしようとして、助けを呼ぶタイミングを見失うところがだ。
私の母もそういう人だった。
父が家を出て行ってから、母はずっと一人で働いて、私を育てた。
朝は早く、夜は遅い。
帰ってきても台所に立ったまま、食器を洗いながら話す人だった。
「あとで」
「今ちょっと無理」
「ごめん、忙しいから」
母の言葉はだいたいその三つで出来ていた。
子どもの私は、それをそのまま受け取った。
私は、母の忙しさの邪魔なのだと思った。
病気のときも、授業参観のときも、進路の相談のときも、母は疲れた顔で「ごめんね、今は無理」と言った。
その「今」が、いつ終わるのか私には分からなかった。
分からないものは、来ないのと同じだ。
若いころの私は、そういう乱暴な絶望をよく信じた。
母が悪いのか、自分が悪いのかも分からないまま、とにかく寂しいほうへばかり意味を取っていた。
高校を出るころには、早く家を出たかった。
母の重さから逃げたい、と思っていたのかもしれない。
看護の学校へ進んだのも、家を出る口実のひとつだった。
別に立派な動機ではない。
人を助けたい、なんて、あとから言葉を足せばきれいになるが、本当は、あの家から出たいだけだった。
卒業して、私はそのまま地元を離れた。
母との連絡は最低限になった。
電話が来ても、仕事中なら出ない。
折り返さないことも増えた。
親不孝、と言われればその通りだが、当時の私は、自分を守るためにはそれしかないような気がしていた。
人は、ずっと欲しかったものをもらえなかったと思うと、相手に何かを返す気まで失う。
数年前、母は足を悪くした。
転倒して膝を痛め、それをかばっているうちに歩くのが億劫になったらしい。
それでも病院へ行くのは遅れた。
「大丈夫、大したことない」と言いながら、結局、生活のほうが少しずつ崩れていった。
買い物が減り、掃除が減り、外へ出る回数が減る。
そういう崩れ方は、派手ではないぶん見過ごされやすい。
人は倒れてから弱るわけではない。
こうして少しずつ、暮らしの手順を落としていくのだと、訪問看護の仕事をしている私は知っていた。
知っていたのに、自分の母のことになると、その知識は驚くほど役に立たなかった。
私が久しぶりに母の古いアパートを訪ねたのは、管理人から連絡をもらったからだった。
郵便受けにチラシが溜まり、ゴミ出しの袋が玄関の横に二つ並んだままになっている、と。
その日、私は仕事の帰りで、白い靴のままアパートの階段を上がった。
二階までで息が少し切れたのを覚えている。
母の部屋の前で、私はしばらく立ち尽くした。
ノックをする手が、妙に重かった。
返事はなかった。
電話も出ない。
仕方なく管理人に頼んで合鍵を借り、扉を開けた。
部屋の中は、薄暗かった。
カーテンが半分閉じたまま、流しには食器が積まれ、テーブルの上にはコンビニの袋と飲みかけの麦茶。
そして布団の上に、母がいた。
眠っていたのではない。
ただ、こちらを見る気力もない顔で、天井を見ていた。
私はその顔を見た瞬間、怒りにも似た気持ちになった。
なんでこんなになるまで放っておくの。
なんで誰にも言わないの。
なんで、いつもそうなの。
でも、その「なんで」は、母に向けたもののようでいて、たぶん半分は自分に向いていた。
私は、母が助けを呼べない人間だと知っていたはずなのだ。
知っていながら、長いこと見ないふりをしていたのは私でもあった。
その日を境に、私は母の通院や介護保険の手続きに関わるようになった。
訪問看護は別の事業所に頼めたはずだが、私は自分が入った。
よくないことだと分かっていた。
身内は、仕事の目を曇らせる。
けれど私は、母を他人に預けるほどまだやさしくなれなかったし、見捨てるほど冷たくもなれなかった。
母のアパートは、どこか私の子ども時代に似ていた。
古い木の下駄箱。
少し歪んだ流し台。
冬になると隙間風の鳴る窓。
冷蔵庫の上に置かれた輪ゴムの束。
使い古した買い物袋。
訪問のたび、私は血圧計を巻き、内服を確認し、足の浮腫を見た。
母は「悪いね」とだけ言った。
その一言が、昔より少し小さくなっていた。
でも、だからといって急に親子がやさしくなれるわけではない。
私たちは会話が下手だった。
「薬、飲んだ?」
「飲んだよ」
「ちゃんと食べた?」
「食べたって」
「嘘でしょ、それ」
「嘘ついてどうすんの」
そんなやり取りばかりだった。
私は母の「大丈夫」を信じないし、母は私の心配を素直に受け取らない。
すれ違いというのは、派手な喧嘩ではなく、こういう細い棘の積み重ねでできているのだと思う。
ある雨の日、私は母とひどく口論した。
訪問の予定より少し遅れて部屋へ行くと、母は玄関の鍵を閉めたまま、携帯も持たずに寝ていた。
ノックをしても出ない。
電話も鳴らない。
私は嫌な想像をして、管理人を呼ぶところだった。
しばらくしてようやく母が起き、扉を開けたが、私は抑えきれずに言った。
「鍵くらいちゃんと開けといてよ! 何かあったらどうするの!」
母はぼんやりした顔のまま、少ししてから眉を寄せた。
「そんな言い方しなくてもいいでしょ」
「そんな言い方にもなるよ。こっちは仕事の合間に来てるんだよ」
言った瞬間、自分で嫌になった。
仕事の合間に。
つまり私は、自分の負担を、母に請求したのだ。
母は黙った。
それから、ひどく静かな声で言った。
「ごめんね。忙しいのに」
その言い方が、昔の母そっくりで、私はますます腹が立った。
またそれだ、と。
忙しいから、で全部片づけるのか、と。
「ほんと、昔からそうだよね」
気づけば言っていた。
「忙しい、忙しいって、そればっかり」
母は何も言わなかった。
ただ、目だけが少し揺れた。
私はそれ以上いられなくなって、処置だけ済ませると、逃げるように部屋を出た。
階段を下りながら、私は自分が何に怒っているのか分からなくなっていた。
今の鍵のことなのか。
昔の置き去りにされた気持ちなのか。
たぶん両方で、だから厄介だった。
その夜、私は担当している独居の利用者さんの家を訪ねた。
その人もまた、転倒歴があるのに鍵を閉め切って眠る癖があった。
玄関先で私は、少しやさしい声で「開けて待っていてくれると助かります」と言った。
自分の母には言えなかった言い方だった。
そう思った瞬間、胸の内側がひどくささくれた。
他人にはできるのに、どうして母にはできないのだろう。
翌週、母は不在だった。
訪問の時間になっても応答がない。
電話にも出ない。
嫌な汗が出た。
管理人に連絡しようか迷いながら、玄関のドアノブに手をかけたとき、小さな紙が鍵穴のあたりにセロテープで貼られているのに気づいた。
買い物のレシートの裏だった。
母の字で、こう書いてあった。
――スーパーまで行ってきます。
――鍵、持ってます。
――今日は起きてます。
――あんたが困るといけないから。
私はその場で、しばらく動けなかった。
あんたが困るといけないから。
たったそれだけの文が、胸のどこかにまっすぐ入ってきた。
ああ、この人は私が怖がったのを見ていたのだ、と思った。
あの日、私が怒ったのは、怒鳴りたかったからではない。
ほんとうは、怖かったのだ。
扉の向こうで母が倒れているかもしれない、その想像に。
でも母は、それを言葉ではなく、この紙切れで返してきた。
昔からそうだった。
この人はいつも、肝心なことをへたくそな形でしか渡せない。
私はレシートの裏を裏返した。
そこに、もう一行あった。
――あのころも、鍵はいつも持ってたよ。
――帰る時間、分からなくても、開けられるように。
一瞬、意味が分からなかった。
でもすぐに分かった。
私が高校生のころ、母は夜勤や遅番が多くて、帰ると家が暗いことがよくあった。
私はそれを、待っていてもらえない証拠だと思っていた。
でも違ったのだ。
母は、私が帰れるように、いつも鍵を工夫していたのだ。
ポストの裏。
植木鉢の下。
古い傘立ての中。
そういえば何度か、そんなふうに鍵を見つけたことがある。
私は勝手に、雑な人間のやり方だと腹を立てていた。
でもあれは、母なりの迎え方だったのかもしれない。
帰る時間が分からなくても、入れるように。
私が困らないように。
思い返せば、母は「待ってる」とは言わなかったが、私が入れない家を作ったことは一度もなかった。
その事実を、私はずっと見落としていたのだ。
レシートを持つ手が震えた。
情けないと思った。
三十を過ぎて、親の伝言メモひとつで泣きそうになるなんて。
けれど人は、自分が受け取れなかったと思っていたものを、遅れて受け取るとき、ひどく弱くなる。
しばらくして、階段を上がる足音がした。
母だった。
小さな買い物袋を提げて、息を切らしながら、こちらを見て止まった。
私はレシートを持ったまま立っていた。
母は少し気まずそうに笑った。
「書いといたの」
私はうなずいた。
それから、うまく声が出ないまま言った。
「これ……あのころもって、どういう意味」
母は鍵を開けながら、しばらく黙っていた。
部屋に入って、買い物袋を流しの上に置き、それでもまだ振り向かなかった。
「帰ってきて、家に入れないの嫌でしょ」
その声は、拍子抜けするほど普通だった。
「だから、鍵だけは忘れないようにしてた」
私はもう何も言えなかった。
母は続けた。
「待っててやれなくて、ごめんねとは、ずっと思ってた」
その一言で、私は駄目になった。
待っててやれなくて、ごめんね。
そんなこと、私は一度も聞いたことがなかった。
聞いたことがないから、母は思ってもいないのだと決めつけていた。
でも、この人は思っていたのだ。
思っていながら、うまく言えなかっただけで。
私も同じだ、とそのとき思った。
心配を、怒りの形でしか言えなかった。
気遣いを、確認の言葉でしか出せなかった。
親子というのは、嫌なところまで似る。
「私も……ごめん」
そう言ったのは、たぶん私のほうが先だった。
母は振り向いた。
年を取った顔だった。
昔より小さくなった肩。
でも、その目だけは、私が子どものころ、夜遅く帰ったときに台所から「おかえり」と言った目と同じだった。
私は泣いた。
声を殺すつもりだったが、無理だった。
台所の前で、みっともなく泣いた。
母は困ったように立っていたが、やがて流しの横の椅子を引いて、「座れば」と言った。
それが母らしい慰め方だった。
抱きしめるでもなく、背中をさするでもなく、ただ座る場所を作る。
私は椅子に座って、しばらく泣いた。
母は買ってきた豆腐とねぎを冷蔵庫へしまいながら、「味噌汁飲む?」と聞いた。
私は頷いた。
こういうところも、昔と変わらない。
肝心なことを言ったすぐあとに、味噌汁の話をする。
でも今は、その不器用さがありがたかった。
湯気の立つ鍋の匂いのなかで、私はふと、子どものころの夜を思い出した。
暗い部屋に帰ると、流しの横にラップをかけたおかずが置いてあったこと。
冷蔵庫に「先に寝るね」とだけ書いた紙が貼ってあったこと。
私はそれをいつも、雑だと思っていた。
でも違ったのだろう。
あれも全部、鍵と同じだったのだ。
待てない代わりに、入れるようにしておくこと。
一緒には食べられない代わりに、ちゃんと食べられるようにしておくこと。
母はそういうやり方でしか、迎えられなかったのだ。
救いというのは、もっと劇的なものだと思っていた。
抱き合うとか、何十年分も語り合うとか、そういうものだと。
でも本当は違うのかもしれない。
ドアに貼られたレシート一枚。
鍵を持ってます、というそっけない文。
その裏に、ずっと言えなかった「困らせたくなかった」が混じっていること。
それだけで、人はやり直せるのかもしれない。
帰るころ、私は玄関で立ち止まり、母の家の鍵を見た。
古びたキーホルダーがついていた。
透明なプラスチックの中に、昔の私が小学校で描いた下手な花の絵がまだ挟まっていた。
そんなもの、まだ持っていたのかと驚いたが、もう口には出さなかった。
代わりに、私はメモ帳を取り出し、一枚ちぎって書いた。
――次は先に連絡します。
――鍵、ちゃんと開けてください。
――でも、閉まってても怒鳴りません。
母はそれを読んで、小さく笑った。
「最後の一行が余計」
「保険だよ」
「似た者親子だね」
そう言った母の声が、少しだけやわらかかった。
アパートの階段を下りると、夕方の光が廊下の手すりに細く伸びていた。
古い建物は相変わらず薄暗く、隣の部屋からテレビの音が漏れていた。
でも不思議と、その古びた音のひとつひとつが、今日は少しだけやさしく聞こえた。
きっとこれからも、私たちは上手には話せない。
私は心配するときつくなるし、母は大事なことほど雑な紙に書く。
それでも、もういいのだと思った。
鍵を置いておく人だったのだ、この人は。
帰れなくしないために。
困らせないために。
そして私はようやく、そのことに気づいたのだ。
訪問看護師という仕事は、人の暮らしの中へ入る仕事だ。
その言葉の意味が、その日、少しだけ分かった気がした。
処置や記録だけではなく、その人がずっと誰かに渡しそびれていた気持ちまで、古い鍵穴のそばで見つかることがある。
私はバッグの中のメモ帳を確かめながら、アパートを出た。
空は薄い夕焼けで、どこか頼りなかった。
けれど、頼りないままでも人を照らす光があるのだと、その日は素直に思えた。


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