祖母が、お守りを捨てたのだと思っていた。
捨てた、というより、隠したのかもしれないし、あるいは最初から私に返す気などなかったのかもしれない。
けれど十七の私は、そんなふうに丁寧に考えることができなかった。
ただ、奪われた、と思った。
それで十分に傷つけられたし、十分に祖母を恨めた。
島の子どもというのは、逃げ場の少ないぶんだけ、ひとつの感情を長く抱える。
海はきれいだし、空も広い。
観光で来る人はみな、なんて静かでいい島でしょうと言う。
けれどそこで育つ者にとっては、静かすぎるというのも、時には少し残酷だ。
腹の立つことも、恥ずかしいことも、逃げ込む先がなくて、潮風の中に長く留まる。
忘れたくても、船の時間が一日に何本しかない島では、感情までそう簡単に逃がしてはもらえない。
私はその離島で、祖母のやっていた小さな民宿を継いだ。
継いだ、などと立派に言ってみても、ほんとうはほかに行く先がなかっただけかもしれない。
高校を出て島を離れ、観光ホテルで数年働いたが、祖母が足を悪くしてから戻った。
戻ってみれば、木の看板は潮で白く剥げ、客室の畳は少し湿り、祖母は帳場の椅子に座って、以前よりずっと小さな背中で予約帳を見ていた。
「助かるよ」
祖母はそう言った。
その一言に、私はなぜか少し腹が立った。
助かる、と言われると、帰ってきたことが私の自由意志ではなく、役に立つかどうかに回収される気がしたのだ。
もちろん、そんなのは若い者の傲慢である。
助かると言われて腹を立てるくらいなら、最初から帰ってこなければよかったのだ。
だが人はたいてい、帰ってきたあとでしか、自分の傲慢さに気づけない。
祖母は、もともと秘密の多い人だった。
喋らないわけではない。
むしろよく喋る。
天気の話。
船の時間。
今年は鯵が小さいだの、昔この宿に東京の歌手が泊まっただの、そういう話はよくする。
けれど、自分の心の奥にあるものだけは、潮の深みみたいに見せなかった。
祖母は客の前ではよく笑った。
島の魚のことなら何でも知っているような顔をして、焼き方や食べ方まで丁寧に教えた。
けれど夜になると、帳場の灯りの下で、一人だけ急に静かな人になった。
私は子どものころ、その静けさが少し怖かった。
昼間あれだけ喋っていた人の中に、まだ何か底の見えないものが沈んでいるのだと、子ども心にも感じていたのかもしれない。
母のことも、そうだった。
母は私が小学校に上がる前に島を出た。
父と離婚して、本土で働くのだと言った。
私はそのときの細かなやりとりを覚えていない。
ただ、港で母がしゃがんで私の肩を抱き、「すぐ迎えに来るから」と言ったのは覚えている。
そして迎えは来なかった。
そのあと私は祖母に育てられた。
祖母は母を悪く言わなかった。
言わないことが、かえって腹立たしかった。
恨むなら一緒に恨んでくれたほうが楽なのに、この人はそうしない。
いつでも「事情があるんだろうよ」と言う。
その言い方が、私にはずっとずるく思えた。
事情、という言葉は便利だ。
それを持ち出された途端、捨てられた側の痛みだけが、少し子どもじみたものに見えてしまうからだ。
十七の夏、私は初めて本土へ出る修学旅行の前に、島の神社で小さなお守りを買った。
藍色の布に白い糸で波の模様が縫ってある、安っぽいお守りだった。
学業成就でも交通安全でもなく、ただ「旅守」とだけ書いてあったのが気に入った。
私はそれを鞄につけ、帰ってきてからもずっと持っていた。
いつかこの島を出る、その日のためのお守りみたいなつもりだった。
島にいる自分を守るためではなく、島の外へ出る自分を先に守っておくための、小さな予約みたいなものだった。
けれどある日、それがなくなった。
部屋じゅう探しても、鞄をひっくり返しても出てこない。
祖母に聞くと、少し間をおいてから「知らないねえ」と言った。
その間の置き方が、私には嘘のように感じられた。
「勝手に触ったでしょ」
と私は言った。
「触ってないよ」
「じゃあ何でないの」
「物はなくなることもあるさ」
その返しが、火に油だった。
なくなることもある、だなんて、そういうふうに済ませるのかと思った。
私は泣きそうになりながら怒鳴った。
祖母は最後まで「知らない」と言い、私も最後まで信じなかった。
今にして思えば、あれはただのお守りではなかった。
島を出ていきたい私の気持ちの、いちばん貧しくて、いちばん切実な象徴だったのだろう。
だから私は、それを失くしただけで、自分の将来まで握りつぶされたように感じた。
そしてたぶん、そのとき私はお守りよりも、祖母に「おまえはいつかちゃんと出ていけるよ」と言ってほしかったのだ。
けれど祖母はそんなことは言わなかった。
言わない代わりにご飯をよそい、洗濯物を畳み、翌朝もふつうに起こした。
そういう現実的なやさしさは、十七の私にはちっとも足りなかった。
その喧嘩以来、私は祖母と少し距離を置くようになった。
民宿を手伝いながらも、必要以上の話はしない。
祖母も何も言わなかった。
私たちは同じ台所で味噌汁を温め、同じ客に「ようこそ」と頭を下げながら、その間に小さな海峡みたいな沈黙を持っていた。
結局私は島を出たが、たいした成功もせず戻ってきた。
観光ホテルの仕事は嫌いではなかったが、都会のほうが自分に向いていると胸を張って言えるほどでもなかった。
そして戻ってきたときには、祖母はもう年を取り、昔ほど強くはなかった。
人は弱った相手には怒りを続けにくい。
けれど、怒りが消えたからといって、解けるわけでもない感情がある。
私にとってお守りのことは、まさにそれだった。
祖母が死んだのは、去年の台風明けだった。
大きな病気ではなく、老衰に近い静かな死だった。
前の日まで帳場に座って、宿帳の字が小さいだの、洗面所のタオルを替えろだの言っていた人が、朝には息をしていなかった。
こういう死に方を、人はよく「大往生」と呼ぶ。
けれど残された者にとっては、大きくても小さくても、死はだいたい困る。
困るし、遅いし、急だ。
葬式が終わってから、私は客のいない昼下がりに、祖母の部屋を片づけ始めた。
古い着物。
薬の袋。
観光パンフレットの束。
輪ゴムで留めた宿の領収書。
どれもみな、祖母の性格そのものみたいに、きちんとしているのにどこか雑だった。
箪笥のいちばん下の引き出しに、手紙の束があった。
白い封筒に、輪ゴムが二重にかけられている。
差出人を見ると、そのいくつかは母からだった。
私は思わず息を止めた。
祖母は母のことを何も言わなかったのに、こんなに手紙を残していたのだ。
輪ゴムを外すと、一番上に、私の名だけ書かれた封筒があった。
祖母の字だった。
こういうことをされると、人は少し腹が立つ。
生きているうちに言えばいいのに、と思う。
死んでから読ませる手紙というのは、受け取る側の返事を永久に奪う。
ずるい手段だ。
けれど、そうでもしなければ言えないことが、この世にはあるのだろう。
私は縁側に座って、海の見えるところで封を切った。
『あんたへ』
それだけで、もう祖母の声が聞こえる気がした。
『あの青いお守りのことを書く。あんたはずっと、わたしが捨てたと思っているだろうから』
私はそこで、心臓がいやに静かに縮むのを感じた。
『捨ててはいません。隠したのでもありません。あれは、あんたのお母さんに渡しました』
私は手紙を持つ手に力を入れた。
『修学旅行の少し前に、お母さんから手紙が来ました。会いたいと書いてありました。けれど、あんたはちょうど島を出たがっている頃で、わたしは迷いました。今会わせたら、あんたは余計に苦しくなるかもしれないと思った』
潮風が紙を揺らした。
私は指で押さえた。
『だから会わせませんでした。代わりに、お守りを渡しました。あの子が、あんたのそばに何も残してやれなかったと言って泣いたからです。せめて一つだけでも、持っていていいものをやりなさいと言ったら、あんたが大事にしているあれを見て、しばらく抱いていました』
私はそこで、手紙を読む目が曇った。
母は、会いに来ていたのだ。
そして祖母は会わせなかった。
私はその事実にまず傷つき、次に、では祖母はやはり私から何かを奪ったのだ、と昔の怒りがぶり返しかけた。
だが続きを読むうちに、その怒りは別の痛みに変わった。
『あんたを守ったつもりでした。でも、守るというのは、たいてい後から見ると、ただ奪ったのと区別がつきません。わたしもそうでした。ごめん』
祖母らしからぬ、まっすぐな謝罪だった。
私はその一文に、かえってたじろいだ。
ずっと頑固で、言い訳ばかりしているように見えた人が、こんなふうに正面から「ごめん」と書くとは思っていなかった。
だから、その謝罪は慰めより先に、私のほうの逃げ道を塞いだ。
もう単純に恨むこともできないのだと知ってしまったからだ。
『お母さんは、そのあとすぐ病気になりました。手紙も長くは続かなかった。最後の手紙に、お守りは返せないと書いてありました。返したら、持っていた意味がなくなる気がすると。あの子も勝手な親でした』
私はそこで、とうとう泣いた。
母は私を捨てただけの人だと思っていた。
祖母は母をかばうばかりの人だと思っていた。
けれど違った。
二人とも、自分なりに私を守ろうとして、失敗したのだ。
秘密というのは往々にしてそういうもので、悪意より、判断の不器用さから生まれる。
そしてその不器用さは、残された者の胸に長く刺さる。
手紙の最後に、こうあった。
『宿の神棚の引き出しに、小さい封筒を入れてある。あんたが見つける頃には、わたしもお母さんもいないだろうけど、それでいい。祈るというのは、返事のない相手に向かって、それでも手を合わせることだから』
私は立ち上がって、帳場の奥の神棚を開けた。
小さな木の引き出しの中に、本当に封筒があった。
中には、あの藍色のお守りの布だけが入っていた。
紐は切れ、形も少し崩れていたが、白い糸の波模様は確かに残っていた。
それと一緒に、小さな紙片があった。
母の字で、たったひとこと。
『帰る場所でありますように』
私はその場に座りこんだ。
島を出たいと願っていた頃の私は、このお守りを「出ていくため」のものだと思っていた。
けれど母は、それを「帰る場所」でありますようにと祈って持っていたのだ。
祖母はたぶん、その両方を知っていた。
出ていきたい私の気持ちも。
帰る場所を失わせたくない母の気持ちも。
そして知ったうえで、どちらも半分ずつ間違えた。
私は泣きながら、お守りの布を掌にのせた。
祖母の秘密も、母の秘密も、どちらも私を静かに傷つけた。
けれど、その傷の底に、たしかに祈りがあったことだけは、もう疑えなかった。
夕方になって、予約の電話が鳴った。
来週、本土から家族連れが来るという。
私は受話器を持ち、部屋数を確認し、船の時間を説明した。
声は少し震えていたが、仕事は仕事で、ちゃんと進む。
人は泣いても、民宿の予約は受けなければならない。
そういう当たり前のことに、妙な救いがある。
宿というのは、行く場所ではなく、帰ってくる途中でいったん体を置く場所なのだと、戻ってきてから私は知った。
観光客にとっての一泊も、島へ帰ってきた漁師の一夜も、たぶん同じ種類の安堵を求めている。
だから私は、民宿の灯りを消さずにいることが、少しずつ好きになった。
電話を切ったあと、私はお守りの布を新しい小袋に入れ直した。
そして民宿の玄関の小さな柱に、目立たぬよう掛けた。
客は気づかないだろうし、気づいても何のありがたみもないだろう。
ただ、ここが帰る場所であるように、という祈りだけがあればよかった。
夜、戸締まりをしてから、私は一人で浜へ下りた。
波は暗く、月も出ていなかった。
けれど海の向こうには、見えない本土の灯りがあるのだろうと思った。
母がいた場所。
祖母が見送った場所。
私が戻ってきた場所。
祈りというのは、たぶん、誰かを完全に赦すことではない。
秘密をなかったことにすることでもない。
ただ、分からなかったままの相手に、それでも少しだけ手を伸ばしてみることだ。
私は波の音を聞きながら、祖母にも、母にも、返事のないことをいくつか話した。
責める言葉も、ありがとうも、半分ずつ混ざったひどく不出来な祈りだった。
けれど、不出来な祈りでも、海は黙って受け取る。
民宿へ戻る道で、玄関先のお守りが夜風に小さく揺れていた。
それを見て、私はようやく思った。
出ていくために握りしめていたものが、帰ってくるための灯りになることもあるのだと。
祖母も、母も、そのことをうまく言えなかっただけなのだろう。
いや、うまく言えなかったからこそ、手紙や秘密や、お守りの布みたいな、言葉より少し頼りないものに祈りを預けたのかもしれない。
そのくらいのことを知るには、ずいぶん長くかかった。
けれど、長くかかったからこそ、いまは静かに信じられる。


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