しおりの挟まった日々

本屋での静かな時間 泣ける話

商店街の朝は、店ごとに違う匂いで目を覚ます。

 

 魚屋は潮の匂いを引きずってくるし、豆腐屋は湯気の中に白い静けさを浮かべている。

 

 八百屋の店先には濡れた段ボールが並び、花屋の前では、まだ半分眠ったみたいな色のカーネーションが水を吸っている。

 

 うちの店――いや、うちのではなく、勤め先の小さな書店は、紙とインクと、少し古びた木の棚の匂いがする。

 

 その匂いを吸いこむたび、私は少しだけ息が整う。

 

 整う、というのも、ずいぶん都合のいい言い方だ。

 

 ほんとうは、何かが整っているのではなく、乱れている自分をごまかしやすいだけなのかもしれない。

 

 私は二十九で、商店街の端にある書店で働いている。

 

 大きな本屋ではない。

 

 雑誌棚が二列、文庫と新書が三つの棚、あとは児童書と実用書が少し、それに、売れ残った季節のカレンダーがだいたい年じゅうどこかに取り残されているような店だ。

 

 レジ横には単三電池と便箋が並び、入り口の近くには新聞が積まれ、雨の日には傘袋が足りなくなる。

 

 それでも、時々、ここでしか本を買わない人がいる。

 

 目の悪くなった老人が、新聞だけはここで買うし、学校帰りの子どもが、月に一冊だけ漫画を選んで帰る。

 

 近所の主婦が料理本を立ち読みしたあと、結局いつもの雑誌だけ買っていくこともある。

 

 そういう小さな習慣に支えられている店だった。

 

 私はこの店が好きだった。

 

 好きだが、誇れるかと言われると少し困る。

 

 売り上げは大きくないし、ネットで注文したほうが早い本も多い。

 

 それでも、誰かがたった一冊の本を買うために扉を開ける、その小さな決心の場に立ち会えるのは、悪くないと思っていた。

 

 祖母は、その商店街のすぐ裏にある家で暮らしていた。

 

 私を育てたのは、ほとんど祖母だった。

 

 母は忙しく、父は家にいてもいないような人だったから、学校から帰ると私はいつも祖母の台所へ寄った。

 

 煮物の匂い、蛍光灯の白さ、昼のワイドショーのくだらなさ。

 

 味噌汁の湯気と、まな板を打つ包丁の音と、夕方五時を知らせる町内放送。

 

 そういうもので、子ども時代は案外ちゃんと守られる。

 

 祖母は、やさしい人だったと思う。

 

 ただし、そのやさしさは、いかにもやさしい顔をして近づいてくる種類のものではなかった。

 

 黙って麦茶を出すとか、寒そうなら勝手にひざ掛けを置いておくとか、風邪気味だと見ると翌日には大根を煮ているとか、そういう、されている最中には気づきにくい親切だった。

 

 子どもの頃の私は、それを当たり前だと思っていた。

 

 大人になってからは、ありがたいと思った。

 

 そして、ありがたいと思うようになった頃には、人はだいたい、そのありがたさへ甘える術まで身につけている。

 

 私もそうだった。

 

 祖母は本を読む人ではなかった。

 

 少なくとも、私はそう思っていた。

 

 家に文学全集があるわけでもないし、寝る前に小説を開く姿を見たこともない。

 

 読むのはスーパーのチラシと、町内会の回覧板と、せいぜい料理雑誌くらいだと思っていた。

 

 だから私が書店で働き始めたときも、祖母は、

 

「字ばっかり見て、目が悪くなるよ」

 

 と言った。

 

 私はそれを、いかにも祖母らしい、少しずれた励ましだと思って笑った。

 

 だが今思えば、あの人は本に興味がなかったのではなく、本に興味があるふうに見られるのが、照れくさかったのかもしれない。

 

 そういう不器用さを、人は身内に対してだけ、ずいぶん長く見落とす。

 

 ある時期から、祖母はよく店へ来るようになった。

 

 買うのは決まって文庫本だった。

 

 時代小説だったり、昔の女流作家の短編集だったり、たまに題名のやさしいエッセイだったりした。

 

 しかも、流行りの棚から取るのではなく、少し端のほうにある地味な背表紙を、時間をかけて選んでいく。

 

 私はその姿を見ながら、へえ、と思った。

 

 だが、へえ、と思っただけで、それ以上は聞かなかった。

 

 家族というものは、近いくせに、相手の新しい一面を見つけた時ほど、妙に質問が下手になる。

 

 そして毎回、祖母はしおりを一枚もらって帰った。

 

 店で配っている、厚紙に店名を印刷しただけの安いしおりだ。

 

 季節ごとに色だけが変わり、春は薄い桜色、夏は水色、秋はくすんだ金色、冬は地味な藍色になる。

 

 私はレジで、それを本に挟んで渡す。

 

 祖母は、

 

「これ、余ってるんでしょ」

 

 と言って受け取った。

 

 私は、

 

「まあね」

 

 と答えた。

 

 ほんとうは、余っているわけではない。

 

 毎月ぎりぎりの数を刷っていたし、子どもが二枚三枚と持っていくと、店長はちょっと困った顔をした。

 

 けれど祖母には、そう言ったほうが気楽だろうと思ったのだ。

 

 親切というものは、ときどき遠慮の顔をして差し出したほうが、受け取られやすい。

 

 それくらいのことは、私も本屋で覚えた。

 

 ただ、祖母は本を買うたび、きまって同じことを言った。

 

「どうせ、読めやしないんだけどね」

 

 私はその言葉が、少し嫌だった。

 

 買うのなら読めばいいし、読めないなら買わなければいい。

 

 そういうふうに、私は少し苛立っていた。

 

 仕事帰りに寄ってくれるのは嬉しい。

 

 けれど、本を軽く扱われているみたいで、どこか腹が立ったのである。

 

 今思えば、若くて了見が狭かった。

 

 本を読む理由など、人によって違うに決まっているのに、私はその頃、本に関してだけ妙な正しさを抱えていた。

 

 ある雨の日、祖母はまた一冊文庫本を買った。

 

 表紙の薄い青がきれいな随筆集だった。

 

 雨で店のガラスが曇り、店内の蛍光灯が昼間なのに少し寒く見える午後だった。

 

 お客は少なく、レジの前には祖母しかいなかった。

 

 私は会計をしながら、

 

「読めないなら、買わなくていいのに」

 

 と、言ってしまった。

 

 言い方としては軽かったつもりだ。

 

 冗談のつもりですらあった。

 

 だが、冗談というのはたいてい、言った本人のほうだけが軽い。

 

 祖母は少し黙った。

 

 それから、

 

「そうだねえ」

 

 と言って、しおりを受け取り、本を鞄へしまった。

 

 その「そうだねえ」が、妙に乾いて聞こえた。

 

 私は、まずいことを言ったとすぐわかった。

 

 わかったが、レジには次のお客さんが並んでいたし、謝るにはあまりに中途半端な空気だった。

 

 忙しさというものは、こちらの卑怯さに、ちょうどいい隠れ蓑を与える。

 

 私はそのまま、何事もなかった顔で仕事を続けた。

 

 祖母はそれから、店へ来なくなった。

 

 最初は、ただ雨が続いたからだろうと思った。

 

 次は、足が痛む日があると言っていたから、それかもしれないと思った。

 

 けれど一週間、二週間と過ぎても来ない。

 

 私は気になったが、自分から家へ様子を見に行くのも、なんだか気まずかった。

 

 あの日の一言が、胸のどこかへ薄く貼りついていた。

 

 そのうち母から、祖母が寝込んでいると聞いた。

 

 大きな病気ではないが、年齢のこともあり、体力が落ちているのだという。

 

 私はあわてて家へ行った。

 

 祖母は布団に入っていた。

 

 顔は小さくなり、目だけが妙に澄んで見えた。

 

 枕元には、読みかけらしい文庫本が伏せてあった。

 

 そのページのあいだに、うちの店のしおりが、きちんと挟まっていた。

 

 私はそれを見た瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。

 

 読んでいたのだ、とその時ようやく、当たり前のことに気づいた。

 

 私は枕元で座ったが、うまく話せなかった。

 

 祖母は私を見ると、

 

「店、忙しいの」

 

 とだけ訊いた。

 

 私は、

 

「まあ」

 

 と答えた。

 

 そのあと、何か言わなければと思ったが、謝る言葉はいつも、ぴったりの時刻を少し過ぎてからしか思いつかない。

 

 祖母はそのまま春を越さずに亡くなった。

 

 ひどく苦しんだわけではなかった。

 

 だが、穏やかだったと簡単に言ってしまうのも、なんだか嘘のような気がする。

 

 死というものは、どれほど静かでも、残されるほうの胸には、ちゃんと荒っぽい。

 

 葬儀のあと、母に頼まれて祖母の部屋を片づけていた時、箪笥の引き出しの奥から、大学ノートが何冊か出てきた。

 

 花柄の布で包まれていた。

 

 日記だった。

 

 そんなものを祖母が書いていたなんて、私は知らなかった。

 

 いや、知らなかったというより、祖母にそういう内側があると考えたことすらなかったのだろう。

 

 人は近しい相手ほど、勝手に役割を固定して見てしまう。

 

 祖母は祖母で、台所にいて、湯呑みを出してくれる人。

 

 その程度にしか見ていなかったのかもしれない。

 

 私は一冊を開いた。

 

 日付と天気と、買った野菜の値段みたいなことが最初は書いてあった。

 

 だが、ところどころに、本の題名が出てきた。

 

 私の店で買った文庫本の題名だった。

 

 その横に、短い感想まで書いてある。

 

 この人の書く海は、ほんとうの海より静かで少しさみしい。

 

 とか、

 

 主人公が強がるところが、うちの孫に似ていて少し笑った。

 

 とか、

 

 今日は三十ページまで。つづきは明日。

 

 とか。

 

 私はその一行一行に、祖母の夜の時間を見た気がした。

 

 台所を片づけ、戸締まりをして、湯呑みをすすぎ、蛍光灯の下で老眼鏡を少しずらしながら、本をひらく祖母の姿を、私はその時はじめて想像した。

 

 さらにめくると、しおりのことも書いてあった。

 

 本屋でもらうしおりを挟むのが楽しみ。

 

 あの子の店の名前が入っているから、読んでいるあいだ、そばにいるみたいでいい。

 

 私はそこで、もうだめだった。

 

 日記の文字が涙で滲んで、読めなくなった。

 

 祖母は読めないと言っていたのではなかった。

 

 あれはたぶん、年をとって目が疲れることや、同じ行を何度も追ってしまうことへの、照れ隠しだったのだ。

 

 それを私は、買うだけで読まない人みたいに思っていた。

 

 勘違いだった。

 

 しかも、ずいぶん貧しい勘違いだった。

 

 日記の最後のほうに、あの日のことが書いてあった。

 

 今日はあの子に、読めないなら買わなくていいと言われた。

 

 そこだけ読むと、ひどく胸が冷えた。

 

 だが続きには、こうあった。

 

 たぶん、悪気はない。

 

 本が好きだから言うのだろう。

 

 でも少しだけさみしかった。

 

 次は、読み終えたところまで話せるようにしてから行こうと思う。

 

 その次のページには、新しい記述がなかった。

 

 買った本の題名だけが書かれ、その下に、私が渡したはずのしおりが、一枚、丁寧に貼られていた。

 

 使い古されて端が少し毛羽立っている。

 

 何度も本に挟まれ、何度も指に触れられた跡だった。

 

 きっと、読んでいたのだ。

 

 ちゃんと、最後まで。

 

 そして読み終えたら、次はこれを話そう、あれを話そうと考えながら、しおりを挟んでいたのだろう。

 

 私は日記を膝に置いたまま、畳の上で泣いた。

 

 人を泣かせるのは、立派な遺書ばかりではない。

 

 こんなふうに、暮らしの隙間へ書かれた、ほんの数行の本音のほうが、よほど逃げ場がない。

 

 祖母は私を責めていなかった。

 

 少しさみしかった、と書いて、それでも私の仕事を好きでいてくれた。

 

 しおり一枚で、そばにいるみたいでいい、とまで書いた。

 

 私はそこまで大事に受け取られていたものを、ただの店の備品くらいにしか思っていなかったのである。

 

 葬儀からしばらくして、私は店長に頼んで、しおりのデザインを変えてもらった。

 

 派手なことはしていない。

 

 店の名前の下に、小さくひとことだけ入れた。

 

 つづきは、また明日。

 

 店長は、急にどうした、と笑った。

 

 私は、少しだけ事情を話した。

 

 全部ではない。

 

 全部話すには、祖母の日記はあまりに私的で、あまりにやさしかったから。

 

 それ以来、私はお客さんにしおりを渡すとき、少しだけ手つきが変わった。

 

 ただ紙を挟むのではなく、その人の今日と明日のあいだへ、薄い橋を置くみたいに渡す。

 

 そんなことを思うようになった。

 

 商店街は相変わらずで、魚屋は朝から威勢がよく、豆腐屋は夕方には売り切れる。

 

 書店は前より少し暇だが、それでも時々、年配の女性が文庫本を買っていく。

 

 手元がおぼつかなくて財布をしまうのに時間がかかる人もいるし、題名を忘れて「この前の青いやつ」としか言えない人もいる。

 

 私はそのたび、余ってるんでしょ、と言われる前に、しおりを一枚、本へ挟む。

 

 海でも恋でも殺人事件でもない、たった一冊の本の途中へ。

 

 そして心の中で、小さく思う。

 

 どうか、その続きを、だれかのさみしさのそばで読めますように、と。

 

 祖母の部屋はもうない。

 

 日記は私の本棚のいちばん上にしまってある。

 

 時々取り出して読むたび、私はまだ少し泣く。

 

 けれど、その涙は後悔だけのものではない。

 

 勘違いの奥にも、ちゃんと届いていたものがあったと知った人間の、少し遅い安堵でもある。

 

 夜、店を閉める前、私は売り場をひとまわりして、棚の乱れを整える。

 

 文庫の背表紙を揃え、しおりの束をレジ横へ足し、消えかけた電灯の下で、小さく息をつく。

 

 紙の匂いがする。

 

 祖母は、たぶんこの匂いも好きだったのだろう。

 

 そう思うと、もう会えない人の気配が、棚と棚のあいだを静かに歩いているような気がする。

 

 私はレジの灯りを落とす前に、しおりを一枚手に取る。

 

 そして、まだ売れていない文庫本の一冊へ、そっと挟む。

 

 つづきは、また明日。

 

 その明日が、誰かにとっての小さな希望になることを、今の私は少しだけ信じている。

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