雪の駅、空っぽの弁当箱が教えたこと

向かい合う二人 泣ける話

あなたが雪国の駅に降りた瞬間、何かを壊した匂いがした。

凍った空気の奥で、金属がきしむような音がする。

息を吐くと白く裂けて、喉の奥が痛む。

スーツの袖口が冷え切って、指先の感覚が鈍い。

——来るつもりなんて、なかった。

それなのにあなたは、ポケットの中で古い弁当箱のふたを、何度も指で撫でている。

ふたの角の小さな凹みが、過去の傷みたいに指に引っかかった。

そして、改札の向こうの暗がりで、見慣れた名前が光った。

「明日、七時。駅前。弁当箱を持ってきて」

なぜ、いまさら。

その一文が、あなたの胸の奥の“やり残し”を、乱暴に起こした。

あなたは会社員になってから、言葉が雑になった。

「忙しい」

その一言で、返信も約束も、気持ちも、全部まとめて先延ばしにできると知ってしまった。

本当は怖かった。

本当は、面倒だった。

本当は、失うのが嫌だった。

でもあなたは、そこを説明しなかった。

説明しないまま、元恋人を一人にした。


出張は急だった。

「明日から一週間、北だ。立て直して」

上司の声は乾いていて、蛍光灯の音が妙に大きい。

あなたは頷きながら、頭の隅である住所を思い出す。

この町に、あの人がいる。

——いや、“いた”。

そう言い直した瞬間、胸がきゅっと縮んだ。


駅のホームは、雪の匂いがする。

ストーブの灯油の匂いが、待合室の扉の隙間からふわりと漏れてきた。

昔、あなたは冬になると、あの人の部屋の窓を思い出した。

小さな灯りが雪に反射して、やけに優しく見えた。

「寒い?」

「平気。…でも、手、冷たい」

「貸して」

あなたの指を包んだ手は、いつも温かかった。


あの人はよく弁当を作った。

二段の弁当箱。

ふたを開けると、湯気はないのに、甘い匂いが立つ。

「今日も頑張って」

「…毎日言うね」

「言う。言わないと、あなた、すぐ自分を置いていくから」

卵焼きが甘かった。

塩鮭がきちんと焼けていた。

隅のミニトマトが赤くて、あなたはそれを見て安心した。

「赤があると、今日が始まる気がするでしょ」

「…うん」


別れは、あなたが作った。

いや、あなたが“作らなかった”。

忙しさを言い訳にして、言葉を削った。

削って、削って、最後には相手の心まで削った。

「今、無理」

「ごめん」

「落ち着いたら」

その“落ち着いたら”は、いつ来るのか。

あなた自身、分かっていなかった。

ある夜、玄関に弁当箱だけが置いてあった。

中身は空。

ふたの裏に、メモ。

『あっためても、冷めるものがある。
でも、あっため直せるものもある。』

あなたはそれを、責めだと思った。

「…言い方がきつい」

そう呟いて、返事をしなかった。

——本当は、返事をする勇気がなかっただけなのに。


雪国での仕事は、容赦がなかった。

移動は遅れる。

相手は苛立っている。

数字は合わない。

夜、ホテルの窓に雪が当たって、乾いた音がする。

あなたはベッドの上でスマホを握り、画面を点けたり消したりする。

「今さら…」

「でも…」

言葉が喉の奥で引っかかって、出てこない。

そのまま、出張四日目。

あなたは凍った歩道で足を滑らせた。

書類が雪に散った。

紙が濡れて、指先にへばりつく。

冷たさが皮膚に張りついて、息が詰まった。

その瞬間、思った。

——自分はずっと、こうして大事なものを落としてきた。

拾うのが遅くて、間に合わなくて、後悔だけ残して。


帰り道、コンビニの温かい空気に吸い込まれた。

揚げ物の匂い。

レジの電子音。

あなたは棚の端で、見覚えのある形を見つける。

二段の弁当箱。

同じ色。

同じ、丸くなった角。

あなたは苦笑いして、喉が熱くなった。

「…まだ、引きずってんのか」

誰に言ったのか分からない。

自分にだ。

あなたは弁当箱を買い、ホテルに戻ってメッセージを打った。

「こっちに来てる。会えない?」

送信。

心臓が一段、落ちる。

すぐに既読がついた。

返事が来た。

『明日の朝、駅前の待合室。七時。弁当箱、持ってきて。』

あなたは画面を見つめたまま、息を吐いた。

「…なんで、弁当箱」

答えはない。

でも、行くしかないと思った。


翌朝。

駅前は暗く、雪が細かく舞っている。

あなたは弁当箱を抱えて待合室に入った。

ストーブの熱で、頬だけが少し温まる。

椅子のビニールが冷たく、服越しにひやりとした。

時計の針の音が、妙に大きい。

「来なかったらどうしよう」

あなたは独り言みたいに呟いた。

すると扉が開き、冷気が流れ込む。

「来たよ」

あなたは顔を上げる。

元恋人が立っていた。

「…久しぶり」

「うん。久しぶり」

声が少し掠れている。

あなたの胸が痛んだ。

あなたが作った空白の年数が、その掠れに混じっている気がした。


あなたは弁当箱を差し出した。

「これ、持ってきた」

「うん。…ありがとう」

あの人は小さく笑って、でもすぐ視線を落とした。

「中、開けて」

「今?」

「今」

あなたはふたを開ける。

空っぽ。

プラスチックの底が、灯りを鈍く反射する。

「…空だよ」

「分かってる」

あの人は鞄から紙袋を出し、同じ弁当箱を取り出した。

ふたの端が少し擦れて、見覚えのある傷があった。

「これ、最後の日の。捨てられなかった」

あなたの喉が鳴った。

「…ごめん」

「“ごめん”じゃなくて、ちゃんと話して」

言葉が胸を叩いた。

あなたは目を逸らしそうになって、こらえた。

「忙しかった。…って言えば、全部許されると思ってた」

「思ってた?」

「違う。…許されたいんじゃなくて、向き合うのが怖かった」

あの人は静かに頷いた。

「私はね、忙しいって言葉が嫌いになった」

「…うん」

「壁になるから。あなたの向こう側が見えなくなる」

あなたは息を吸って、喉の痛みごと吐き出した。

「俺が悪かった。説明しなかった。逃げた」

「逃げたね」

「うん。…逃げた」

雪が窓に当たって、さらさらと音がした。

待合室の灯油の匂いが、なぜか懐かしい。


あの人は、弁当箱のふたの裏を指でなぞった。

そこに、薄くテープの跡が残っている。

「メモ、覚えてる?」

「覚えてる」

あなたは言った。

「あれ、責められたと思った」

あの人は首を振った。

「違う。…私、自分にも言ってたの」

「え?」

「冷めたものを、冷めたって認めるのって痛いでしょ」

「…うん」

「でも、あっため直せるものがあるなら、って。自分を慰めてた」

あなたの胸が、遅れて崩れた。

誤解していたのは、あなたの方だけじゃない。

あの人も、必死に自分を保っていた。

あなたがいない日々を、灯りひとつで耐えていた。


「ねえ」

あの人が言う。

「私、あなたを嫌いになれなかった」

あなたは、返事ができなかった。

声にすると崩れそうだった。

「でも、待つのはやめた」

「…うん」

「だから、今日ここに来たあなたを、責めたくない」

あなたの目に熱が溜まる。

「許して、くれるの?」

あの人は少し笑った。

「許すっていうより…返す、かな」

「返す?」

「あなたが置き去りにした時間。私が抱えた誤解。…全部、あなたに返す」

あなたは頷いた。

「受け取る」

「じゃあ、ひとつだけ」

あの人が、あなたの弁当箱を軽く叩く。

「これ、持って帰って。あなたの分」

「…俺の分?」

「そう。あなたは、あなたをちゃんと食べさせて」

その言葉が、あなたの心の奥の硬い部分に、すっと入った。


外が白み始めた。

雪が薄くなり、空の端が淡い桃色に変わる。

電車の走る低い音が、遠くで響いた。

あなたは立ち上がって言う。

「もう一回、会ってもいい?」

あの人は答えるまでに、少しだけ時間を置いた。

「…うん。会おう」

「忙しいって言う前に、ちゃんと話す」

「うん。話して」

「怖いって言う」

「うん」

あなたは息を吐く。

それだけで、少し生き返る。

ふたりで待合室を出ると、雪の匂いがした。

街灯がひとつずつ消えていく。

その消え際の光が、目の奥にやさしく残る。

あなたはその残像を、今度こそ手放さない。

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