玄関の靴箱の上に、見知らぬ封筒が置かれていた。
白い封筒。
差出人の欄だけ、空白。
宛名には、僕の名前が、僕の知らない字で書かれている。
読めるのに、読めない。
そんな字だった。
僕は郵便局で働いている。
一日じゅう、誰かの“用事”を運んで、帰り道に自分の用事を落としてくる。
帰宅して、台所の蛇口をひねる。
水は冷たく、僕はそれで十分だった。
温かいものは、たいてい、期待を連れてくる。
期待は、人を疲れさせる。
だから僕は、封筒をすぐには開けなかった。
翌日も、封筒はそこにいた。
僕が寝ている間に誰かが確認したみたいに、向きだけ変わっている。
気味が悪い。
でも、気味の悪さには、なぜか懐かしさが混じっていた。
僕は思い当たる。
こういう感じは、昔、母の戸棚のいちばん上に隠された“甘いもの”に似ている。
手が届かないのに、匂いだけは届く。
三日目の夜、ついに開けた。
中から出てきたのは、便箋が一枚。
紙は少し黄ばんでいて、角が丸い。
どこかで長く待っていた紙だ。
本文は短かった。
返事が遅くなってごめんなさい。
でも、遅い返事ほど、届いたときに人を助けることがあります。
僕はそこで、指が止まった。
“返事”という言葉が、僕の中の何かを引っ張り出した。
十七歳の春、僕は一通の手紙を書いた。
宛先は、父。
父は、ある日、家を出た。
出た、というより、消えた。
消える人間は、卑怯だ。
でも、卑怯さは魅力にもなるから厄介だ。
母は父を憎み、僕は父を憎むふりを覚えた。
そして、ひとりになると、憎み方を忘れてしまう。
僕はその手紙に、ありったけの憎しみと、ちょっとの希望を混ぜて書いた。
「どうして出ていったの」
「僕は何だったの」
「もし、まだ僕のことを少しでも——」
書いて、書いて、最後に、情けない一文を足した。
「返事をください」
けれど、手紙は出せなかった。
出せないものって、意外と捨てられない。
机の引き出しのいちばん奥に入れ、鍵をかける。
鍵をかけたのは、父じゃなく僕のほうだった。
翌年、僕は家を出た。
母からも、家からも、あの手紙からも。
逃げるのは、父の専売特許じゃなかった。
便箋の続き。
あなたの手紙は、受け取りました。
何度も読みました。
何度も、返事を書いては破りました。
僕の喉が、乾いた。
あの手紙が、届いていた?
届いていたのに、返事が来なかった?
僕は笑いそうになって、笑えなかった。
笑うと、崩れてしまう。
返事を出せなかったのは、あなたが嫌いだからじゃありません。
あなたが嫌いなら、出せた。出せなかったのは、あなたが大切だったからです。
僕は便箋を握りしめた。
紙が、しわになる。
紙に失礼だと思うのに、やめられない。
僕は、こういうときに品がない。
自分の“感情”の扱い方が、へたくそだ。
あの日、家を出る前に、あなたの寝顔を見ました。
小さな口が、何か言おうとしていました。
でも眠っているから、声は出ない。あなたの声は、眠っている間も、僕の中で起きていました。
誰だ。
この手紙を書いている人は。
父なのか。
父だとしたら、どうして今。
遅すぎる。
遅すぎるのに、なぜ、今の僕にぴったりの速度で刺さる。
あなたは、きっともう大人で、
きっと僕なんていなくても生きられる。それでも、ひとつだけ伝えておきたい。
あなたが誰かに返事をしなくていい日があっても、
あなた自身には、返事をしてあげてください。
僕は、その一文で息が止まった。
僕はたしかに、いろんな返事を遅らせてきた。
友だちの誘い。
母の「元気?」。
自分の「ほんとはどうしたい?」。
返事を遅らせるのは、傷つかないための技術だと思っていた。
でも、返事を遅らせるほど、傷は中で育つ。
便箋の最後。
砂糖を、棚の上に置きました。
甘いのが好きだったのは、僕です。あなたが苦いものばかり飲む大人にならないように。
返事の遅い父より。
僕はその夜、母に電話をした。
電話なんて、何年ぶりだろう。
呼び出し音が鳴るたび、心臓が少しずつ小さくなる。
出ないでくれ、と思った。
出たら、僕は返事をしなきゃいけないから。
それでも、母は出た。
「もしもし」
母の声は、想像より少し弱く、でも確かに母だった。
僕は、情けないくらいに一言目が出ない。
母は沈黙に慣れている人の声で言った。
「……生きてる?」
その問いは、怒りでも責めでもなく、ただの確認だった。
僕はやっと返事をした。
「うん」
それだけで、目の奥が熱くなった。
「手紙が来た」
僕が言うと、母は少し黙った。
そして、ため息みたいに笑った。
「そう」
「知ってたの?」
「……知らないふりは、得意よ」
母はそう言って、声を整える。
「あなた、明日、来られる?」
来られるか。
来られる、と言ったら、行かなきゃいけない。
行ったら、会話をしなきゃいけない。
会話をしたら、心が動く。
心が動いたら、痛い。
でも、痛いのは、生きている証拠でもある。
僕は、遅い返事を、今夜はしたくなかった。
「行く」
そう言った瞬間、母の向こうで、何かが小さく崩れる音がした。
たぶん、母の我慢。
あるいは、僕の十年分の意地。
翌朝、僕は棚のいちばん下のマグカップでコーヒーを淹れた。
砂糖を、ほんの少し入れる。
溶ける音はしない。
でも、甘さはちゃんと広がる。
僕はそのマグカップを両手で包み、熱さを確かめた。
熱い。
熱いけれど、嫌じゃない。
そして、玄関を出る前に、靴箱の上にペンを置いた。
帰ってきた自分が、逃げないように。
帰ってきた自分に、返事ができるように。
駅へ向かう道で、風が頬を撫でた。
冬の終わりの匂いがした。
僕は、ポケットの中の便箋をもう一度握る。
紙は、もうしわしわだ。
それでも読める。
読めるということは、受け取れるということだ。
僕は小さく息を吐いて、心の中で返事をした。
遅いけど。
遅いからこそ。
「届いたよ」


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