保育園帰り、私は走っていた。
祖母の部屋のドアが、ほんの少し開いていたからだ。廊下に漏れる灯りと、止まらない蛇口の「ぽた、ぽた」。
胸が冷える。鍵は閉まっていない。
「ばあちゃん?」
返事はない。
代わりに、玄関には外靴が揃い、焦げ茶のカバンだけが不自然に肩の高さで揺れていた。
——いま出ていく。そんな気配が、部屋じゅうに満ちていた。
街の夕方は、保育園の門のきしむ音で終わる。
子どもたちの泣き声が笑い声に変わり、消毒液とミルクの匂いが制服に残る。私は鍵を閉めながら、口癖みたいに言った。
「大丈夫だよ。明日またね」
その“大丈夫”をいちばん信じていないのは、私だった。
祖母のことを、私は誰にも言っていない。
園長にも、同僚にも、友達にも。
認知症の初期だと医師に言われた、と口にした瞬間、世界が変わる気がしたから。
変わるのが怖くて、私は秘密を抱えたまま笑っていた。
帰り道、商店街の焼き鳥の匂い、車の排気、夕立の湿った空気。
祖母のアパートの階段を上がると、廊下は洗剤の匂いがして、遠くの部屋のテレビがぼそぼそ鳴っている。
祖母のドアが、少し開いていた。
中から、蛇口の「ぽた、ぽた」。
嫌な汗が背中を滑る。
「ばあちゃん?」
返事がない。
私は合鍵を回した。金属がカチ、と鳴る。
玄関には外靴が揃い、祖母の焦げ茶のカバンが、フックで不自然に揺れていた。取っ手の色だけ薄い、あのカバン。
「……どこ行く気」
声が震える。
奥から祖母が出てきた。コート、帽子、カバン。準備が完璧すぎて、逆に怖い。
目は真っ直ぐなのに、焦点が少し遠い。
「迎えに行くの」
「どこへ」
「……あの子」
「“あの子”って誰」
祖母は靴に手を伸ばした。
私はカバンの取っ手を掴んだ。革が冷たくて硬い。
「だめ。夜だよ」
「離して」
「離さない」
「遅れるの」
「何に遅れるの!」
喉が痛い。
怒りの形をした恐怖が、声を押し上げる。
祖母が私を見た。
そして、久しぶりに、ちゃんと名前を呼んだ。
「里奈」
その一音で、膝がほどけそうになる。
祖母はカバンを胸に抱えて言った。
「聞かないで」
「聞くよ。聞かないと……」
「秘密にしてたの」
「……何を」
「あなたに、心配させたくなかった」
私は息を呑んだ。
それ、私も同じだ。祖母のことを誰にも言わないで、心配を“管理”してきたのは私だ。
「ばあちゃん、私だって——」
「だめ。あなたは子どもを守る人でしょう」
「私も守られたい!」
口から出てしまって、私は唇を噛んだ。
保育士が、守られたいなんて。弱音みたいで、恥ずかしくて、でも本当だった。
祖母は、その場に座り込んだ。膝が床に当たる鈍い音。
カバンの口を震える指で開ける。金具がチリ、と鳴る。
出てきたのは、紙でも手紙でもない。古い写真だった。角が丸く、指にざらっとした感触。
写真の中の祖母は若い。私は幼い。
横断歩道。信号のピッ、ピッ、ピッ。車の音。
祖母が私の手を引いている。
「迎えに行くのは……あなた」
祖母が言った。
「里奈、あの日、迷子になった」
「……え」
覚えていない。なのに、胸の奥がぎゅっと縮む。
小さな私の冷えた手。人の波。涙の手前の息。
「あなた、泣かなかった」
祖母は笑った。
「泣かないで、私を探した。小さなカバン持って」
祖母は自分のカバンを撫でる。
「そのとき、決めたの。里奈が大人になっても、迎えに行ける人でいようって」
私は喉を押さえた。
祖母が玄関にカバンを置き続けた“いつでも”が、ここでほどける。
外出の準備じゃない。
私のための準備だった。
「でも、ばあちゃん。今は私が……」
言葉が詰まる。
祖母が静かに頷いた。
「今は、私が迷子になる」
その言い方が、あまりに静かで、私は涙が止まらなくなった。
私は怒っていたんじゃない。怖かったんだ。
祖母がいなくなるのも、祖母の“秘密”に入れてもらえないのも。
「ごめん……」
「謝らないで」
祖母が言う。
「秘密にしたの、私の弱さ」
「私も弱い」
私は声を絞った。
「園で“大丈夫”って言いながら、全然大丈夫じゃなかった。ばあちゃんのこと、誰にも言えなかった」
「言わなくていい」
「違う。言いたい。助けてって言いたい」
祖母の目が、少しだけ濡れた。
「里奈」
「なに」
「怖いって言えるのは、強いよ」
祖母は私の手を握った。乾いた手のひら。深い皺。そこにある温度。
その温度が、私の頑丈な“秘密”をほどいていく。
私は祖母のカバンをそっと取り、玄関のフックに掛けた。
取っ手が揺れて、革がきしむ。
「迎えに行くのは、もういい」
祖母が不安そうに言う。
「……ほんと?」
私は主語をつけて言った。
「私が迎えに行く。ばあちゃんが迷子になったら、私が迎えに行く」
「……許してくれる?」
祖母の声が、小さく震えた。
「許す。私も許して」
「何を」
「秘密にしてたこと。頼れなかったこと」
祖母はゆっくり頷いた。
「許す。いっしょにやろう」
その夜、祖母の部屋で布団を敷いた。畳の匂い。遠い車の音。冷蔵庫の低い唸り。
私はスマホを握り、園長の連絡先を開いた。指が震える。
「園長先生。相談があります。家族の介護のことで」
送信。
画面が暗くなった瞬間、胸の奥の息が少しだけ通った。
隣で祖母の寝息が小さく続く。
玄関のカバンは、揺れずに掛かっている。
あれはもう“秘密”を運ぶものじゃない。
迷子の誰かを迎えに行くための、私の合図だ。
朝、祖母が言った。
「コーヒー、飲む?」
私は涙の跡のまま笑った。
「うん。今日も、いっしょに」
許しは、鍵を閉めない夜から始まった。


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