団地の階段を上がる途中、鼻先に焦げた匂いが刺さった。
祖母の部屋の前だけ、やけに静かで、郵便受けには新聞が刺さったまま。
「また我慢してる」――そう決めつけてインターホンを押す。
返事がない。二度、三度。
ドアの隙間から、コーヒーの苦い香りが漏れてきた。
胸が冷える。
この匂いは、祖母が“何かを隠している”ときの匂いだった。
「……ばあちゃん?」
インターホン。ピンポーン。
返事がない。
もう一度。ピンポーン。
耳の奥が、静かにざわつく。
「開けるよ」
合鍵を回すと、金属がカチ、と鳴った。
玄関のひんやりした空気。畳の匂い。
そして、テーブルの上に湯気が立っていた。淹れたてのコーヒー。
「……いるじゃん」
安心と怒りが一緒に来る。
奥から祖母の声。
「来たのね」
祖母は薄いセーターのまま、台所に立っていた。背中がいつもより小さく見える。
ミルは止まっていて、手元だけが少し震えている。
「電話、出ないじゃん」
「ごめん。気づかなかった」
「新聞、刺さったままだった。嫌な予感した」
「嫌な予感?」
「また“平気”って言って、倒れてるんじゃないかって」
言った瞬間、自分の声がきついとわかった。でも止められない。
祖母はマグカップを差し出した。陶器が指に温かい。
「飲みな。冷める」
「……濃いね」
「濃い方が、目が覚める」
祖母は当然みたいに言う。
その“当然”が、私には時々、壁になる。
口をつけると、苦みの奥に甘い香り。
でも喉の奥が詰まって、味がうまくわからない。
「ばあちゃん、先月も転んだの隠したよね」
「隠してない」
「言わなかった」
「言わなくても……」
「わからない。私は、わからない」
言いながら、指先がカップを強く握る。
熱が掌にじわっと広がる。
祖母は椅子に座り、エプロンの端を指でいじった。布が擦れる音が小さくする。
「あなたはね、言葉が多い」
「多いんじゃない。必要なんだよ」
「私は、必要ないと思って生きてきた」
「それが違うって言ってる」
「違う、っていうのも、あなたの当然でしょう」
そこで初めて、私は黙った。
価値観のズレ。
“当然”が違うと、優しさの形まで違って見える。
私は息を吐いて、少しだけ声を落とした。
「……ばあちゃん。迷惑とか、そんなのどうでもいい。頼って」
祖母の目が、ほんの少し揺れた。
「迷惑は、どうでもよくない」
「なんで」
「あなたの時間が減る」
「減っていいよ。私が選ぶ」
「あなたは、そう言う」
「言うよ。だって——」
喉が震える。
「ばあちゃんが急にいなくなるのが、怖い」
祖母は視線を窓に逃がした。窓ガラスの外で、子どもの笑い声が一瞬だけ響いて消える。
祖母は小さく言った。
「……私だって、怖いよ」
「え?」
「弱いって思われるのが」
「思わない」
「思うよ。あなたは優しいから、余計に」
祖母は笑った。笑い方が、少しだけ苦い。
「ねえ」
祖母が立ち上がり、押し入れを開けた。畳と古い木の匂い。
「これ、持って帰りな」
白い紙で包まれた小さな贈り物。リボンがきれいに結ばれている。
軽いのに、手のひらに重さが乗る。
「なにこれ」
「コーヒー」
「え、豆?」
「うん」
「なんで」
「あなたが、好きって言った香りに似てる」
祖母は照れたみたいに目を逸らした。
包みの中に、小さなカードが入っていた。紙が少しざらついて、指に引っかかる。
「カード……?」
「読んで。今」
祖母の声が、珍しく強かった。
私は頷いて、カードを開いた。
祖母の字。ゆっくりで、でも真っ直ぐ。
「あなたへ
私の“迷惑をかけたくない”は、拒絶じゃない。
あなたの時間を守りたい、っていう癖。
昔からそれが正しいと信じてきた。
でも、それであなたを一人にした。ごめん。
あなたの“頼って”は、正しい。
次に痛いときは、“痛い”って言う。
次に寂しいときは、“寂しい”って言う。
約束する。
その代わり、あなたも約束して。
忙しくても、コーヒーを淹れて。
一杯ぶんだけ、呼吸して。
あなたが自分を置いていかないように。
あなたの当然を、私も覚えたい。
——祖母より」
途中で、文字が滲んだ。
私の涙が落ちて、紙が少しふやけた。
祖母の“迷惑”は、私を遠ざけるためじゃない。私の人生を削らないための、古い祈りみたいな癖だった。
「……私、決めつけてた」
声がひっくり返る。
「ばあちゃん、信用してないんだって」
祖母は首を振る。
「信用してるから、言わなかったんだよ」
「それが、ズレてた」
「うん。ズレてた。だから今、言う」
祖母は私のカップを覗き込んだ。
「苦い?」
「苦い」
「じゃあ、少し薄める」
祖母は湯を足した。湯気がふわっと上がり、香りが部屋に広がる。
「薄めるの、珍しいね」
「あなたの当然に寄せる」
祖母は笑った。
「私も練習する」
帰り際、玄関で祖母が言った。
「また来る?」
私は靴を履きながら、主語をつけて答えた。
「私が来る。来たいから」
祖母は目を細めた。
「じゃあ、私は待つ。……寂しいって言う練習もしながら」
廊下に出ると、洗濯物が風に揺れて柔軟剤の匂いがした。遠くで誰かが笑っている。
私は豆の袋を胸に抱え、スマホにメモを打つ。
「一杯ぶん、呼吸」
その夜、自分の台所で豆を挽いた。
ごり、ごり。
祖母の部屋と同じ音。
湯を注ぐと、ふわっと香りが立って、部屋の温度が少しだけ戻る。
カップを両手で包んで、私は小さく言った。
「……ばあちゃん、今日、言ってくれてありがとう」
ごり、ごり、という音が、日常を連れ戻してくれた。


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