夜勤明けの廊下というものは、いつも少しだけ、この世から外れている気がする。
蛍光灯は白すぎるし、床は磨かれすぎていて、足音だけがやけに現実的だ。朝の六時前、ナース ステーションの時計の秒針だけが、せっせと人を急がせている。
私は記録を打つ指を止めて、こめかみを押した。
夜勤の終わりは、身体より先に心が薄くなる。看護師になって七年、注射も急変対応も慣れたくせに、この時間だけは、毎回すこしだけ情けない。
スマホが震えた。
画面に出た名前を見て、私は一瞬、目を細めた。
祖母
出ようとして、出られなかった。詰所の内線が同時に鳴ったのだ。
四〇二号室、点滴自己抜去。受話器を取りながら、私はスマホを白衣のポケットに押し込んだ。
「はい、いま行きます」
病室に駆け込む。
患者さんは半分眠ったまま「ごめんねえ」と笑っていて、私は笑い返しながらテープを貼り直した。
こういうことは、病院では珍しくない。珍しくないことに追われているうちに、大事なことほど後回しになる。
祖母の電話も、そのひとつだった。
祖母は耳が遠い。
いや、正確に言えば、聞こえるものと聞こえないものの気まぐれが激しい。
私が「今日は夜勤」と言うと「今日は元気?」と返ってくるし、「あとで行くね」が「もう行くね」になる。
昔はそれで二人して笑っていたのに、ここ一年は笑えなくなった。
祖母が、目に見えて弱ってきたからだ。
足が悪くなって、買い物に一人で行けない日が増えた。
薬の飲み忘れもたまにある。鍋を焦がしかけたこともあった。
私は勤務の合間に団地へ寄って、冷蔵庫に食材を詰め、ゴミをまとめ、薬を朝昼夕に分けて置く。
やっていることは看護というより雑用で、でも、その雑用で誰かの生活は持っているのだと、病院で散々学んだはずだった。
なのに身内相手になると、私は途端に下手になる。
三日前の夜もそうだった。
祖母から電話がかかってきて、私は休憩室の前でスマホを肩に挟みながら、カルテの確認をしていた。
祖母は近所の桜の話をして、それから私の小さいころの話に移って、同じところを二回繰り返した。
私は詰所から名前を呼ばれて、焦ってしまった。
「ばあちゃん、今それどころじゃないの。わかってよ」
言った瞬間、自分の声がひどく冷たいのがわかった。
祖母は少し黙ってから、咳をひとつして、
「……あんたも忙しいもんねえ」
と言った。
あれは責めたんじゃない。たぶん、気をつかったのだ。わかっている。わかっているのに、私はなぜか責められた気がして、
「そう」
とだけ返して、切った。
そのあと、祖母から電話は来なかった。
そして今朝、久しぶりの着信があった。
引き継ぎを終えてロッカーで着替えていると、同僚の三浦さんがのぞき込んできた。
「顔、死んでる」
「生きてます」
「それ、いちばん危ないやつ。今日はまっすぐ寝なよ」
「……たぶん」
三浦さんは、私の返事を聞いて鼻で笑った。
「“たぶん”の日は、おばあちゃんとこ行く日でしょ」
私は何も言えなかった。三浦さんは私の事情を少し知っている。知っていて、余計な励ましをしない。そこがありがたい。
病院を出ると、小雨が降っていた。四月の雨はやさしそうな顔をして、案外冷たい。コンビニで祖母の好きな豆大福を二個買って、バスに乗る。窓に映る自分の顔が、母に似ていた。
母は私が中学生のときに死んだ。
それから祖母が、母のぶんまで私を叱って、食べさせて、風邪をひいたら額に濡れたハンカチをのせてくれた。
祖母の看病は雑で、でも不思議と安心した。冷たすぎるハンカチに「つめたい」と文句を言うと、祖母は「生きてる証拠」と笑った。
私はその手つきを、たぶん今も覚えている。だから看護師になったのだと、人にはうまく説明できないが、私はそう思っている。
祖母の住む団地は、病院からバスで二十分。古い四階建てで、階段の踊り場にいつも風が溜まっている。鍵は昔から植木鉢の下だ。物騒だと言っても祖母は変えない。
「ばあちゃん、入るよ」
返事がない。
胸の奥が、すっと冷えた。
私は靴を脱ぐのももどかしく上がり込み、こたつの横で横になっている祖母の肩を揺すった。
「ばあちゃん」
祖母はゆっくり目を開けて、私の顔を見ると、
「……あんたか」
と言った。
それだけで、膝の力が抜けそうになった。
「びっくりした。電話くれたでしょ、今朝」
「電話?」
「病院に。朝、五時台」
祖母は耳の後ろに手を当てて首をかしげた。
「かけたかもしれん。あの四角いの、へんなとこ触ると鳴るから」
卓上には、祖母の古い携帯が置いてあった。画面に細いヒビ。
ボタンの字はかすれている。何度スマホに替えようと言っても、「これがいい」の一点張りだ。頑固というか、機械まで身内にしてしまう人なのだ。
「用事あったんじゃないの?」
「ううん、たぶんない」
「たぶんって」
祖母は困ったように笑った。
「電話するつもりはあったんだろうけど、何言うか忘れたんだよ」
私はそれを聞いて、少しいらついて、同時に自己嫌悪が湧いた。
祖母の“忘れる”に、私は最近、いちいち心が荒れる。疲れているからだ、と自分に言い訳しているが、要するに余裕がないだけだ。
台所で湯を沸かし、昨夜の味噌汁を温め直した。
冷蔵庫の中身を確認し、賞味期限の切れた豆腐を捨てる。
祖母はこたつから私の背中に向かって、近所の話をぽつぽつしている。
隣の奥さんが転んだこと。団地の桜がもう散ったこと。テレビの俳優の名前が覚えられないこと。
どれも小さな話だ。でも、祖母の暮らしは、その小さな話でできている。
病院では毎日、人の命の重さを見ているのに、私はこういう重さには鈍い。まったく、職業と人格は別物である。
「豆大福、買ってきたよ」
そう言うと、祖母はぱっと顔を上げた。
「高いのに」
「二個だけ」
「二個でも高い」
そう言って笑う。その笑い方に、どこか遠慮が混じっている気がした。
前はもっと遠慮なく、「三個ないの」と言っていたのに。
たった一言で、人はこうも変わるのだろうか。変えたのは私だろうか。考えたくないことほど、よく考えてしまう。
食後、私は洗濯物を畳んだ。祖母の服はどれも柔らかく、くたびれて、触るとすぐにその人の生活がわかる。袖口の薄さとか、襟の匂いとか。
そういうのを、病院でも毎日見ている。
「ねえ」
祖母が引き出しを開けて、白いものを出してきた。
「これ、持っていきな」
白いハンカチだった。端に青い糸で、私の名前が縫ってある。小学生のころ使っていたものだ。 洗いすぎて、布地が少し透けている。
「なんで急にこれ」
「この前、電話で言ったろ。『もういらない』って」
私は手を止めた。
「……え?」
「だから、片づけようかと思ってたの。けど、名前ついてるしねえ」
「私、そんなこと言ってないよ」
祖母はきょとんとして、少しむきになった顔で言った。
「言ったよ。『そんなもん、もう要らん』って。あたしゃ、ちゃんと聞いた」
そこで、三日前の電話の最後が、はっきり蘇った。
詰所から呼ばれて、私は確かに言った。
「ばあちゃん、もう、行かなきゃ」
祖母にはそれが、**「もう要らない」**に聞こえたのだ。
言葉というのは、たった一音で、こんなに残酷になる。
私は喉が詰まって、何も言えなかった。祖母は照れ隠しみたいに笑って、ハンカチを私の手に押しつけた。
「年寄りは、聞きまちがえるからねえ。気にしなさんな」
その言い方が、いかにも祖母らしくて、私は余計につらくなった。
気にしなさんな、と言うときの祖母は、たいがい気にしている。
帰ろうとして靴を履いたところで、病院から電話が来た。家族対応の記録確認。
すぐ済む内容だったが、終わるころにはバスの時間を過ぎていた。
私は団地の階段下で雨宿りをした。さっきより雨脚が強い。
コンクリートに跳ねる雨粒を見ていると、急に今朝の着信が気になった。
画面を見ると、留守電のマークがついている。
祖母の留守電なんて、珍しい。
私はイヤホンもつけず、そのまま再生した。
ざあ、という雑音。たぶんテレビの音。
受話器を持ち直す、かさりという音。それから祖母の声。
『もしもし、あんた? ……あのね、別に用ってほどじゃないんだけど』
ここで咳がひとつ。
『この前は、なんか、ごめんねえ。長くしゃべって。あんた、仕事なのにねえ』
少し間。
『わたし、耳が悪いから、へんなふうに聞こえることがあるだろ。あんた、怒ってないのに、怒ってるみたいに聞こえたり』
私はそこで、目を閉じた。
祖母は、わかっていたのだ。聞き間違えているかもしれないと、気づいていた。それでも傷ついたのだろう。それでも先に謝ろうとしている。
留守電の中で、祖母はさらに続けた。
『でも、きのう夜、夢見てね。あんたが小さいころ、熱出したときの。おでこにハンカチのせたら、「つめたい」って泣きながら笑ったんよ。……あれ、かわいかったなあって』
祖母が小さく笑う。息が少し震えていた。
『あんたは、ようやっとる。ほんとに。電話、出られんでもええ。寝れるときは寝なさい』
最後に、少しだけ声を潜めて、
『ただ、また、顔見せて』
電子音が鳴って、留守電は終わった。
私は階段下で、しばらく動けなかった。雨が横から吹き込んで、靴下が濡れた。
どうでもよかった。
泣く資格なんてない、と思う。傷つけたのは私だ。なのに、救われるのも私だ。
身勝手で、都合がよくて、まるで太宰のだめな男みたいだ、と場違いなことまで考えた。
でも、そうやって自嘲して済ませるには、祖母の声はあまりにまっすぐだった。
私はもう一度、四階まで階段を上がった。
息が切れて、玄関で少し咳き込んだ。祖母が中から「だれ」と聞いた。
「私」
「さっき帰ったのに」
「うん。帰ったけど、戻った」
祖母は不思議そうな顔で玄関まで来た。私は靴も脱がず、その場で言った。
「ばあちゃん、ごめん」
祖母は目を丸くした。
「この前の電話。『もう要らない』じゃない。『もう行かなきゃ』って言ったの。仕事で呼ばれて、焦ってて……でも、言い方ひどかった。ちゃんと話さなかった。ごめん」
祖母はしばらく黙っていた。廊下の向こうで、どこかの部屋の戸が閉まる音がした。
「そっか」
と、祖母は言った。
「じゃあ、あたしの耳のせいだねえ」
「違う」
私は首を振った。
「耳のせいだけじゃない。私のせい。忙しいのを理由にして、ばあちゃんに甘えてた」
祖母は私の顔を見て、それからふっと笑った。
「じゃあ、半分ずつにしよう」
「半分?」
「聞きまちがえるあたしと、言い方の悪いあんたで、半分ずつ」
私は、泣きながら笑ってしまった。
「……うん」
祖母はこたつの上のティッシュを取ろうとして、届かなくて、あきらめて言った。
「ほら、さっきのハンカチ使いな」
私はポケットから白いハンカチを出して、目を押さえた。柔らかい。少しだけ洗剤の古い匂いがする。小学生のとき、夏の昼寝から起きたときの匂いと同じだった。
祖母が言う。
「夜、つらいときあるだろ」
「ある」
「そのとき、額にのせな」
私は笑ってしまった。
「それ、看護師に言う?」
「看護師だから言うんだよ。薬じゃないやつも、効くから」
私はうなずいた。病院で働いていると、治すことばかり考えてしまう。
治らないものに、何をするかを忘れる。
祖母はたぶん、ずっと前からそこを知っていた。
そのあと少しだけ、二人で豆大福を半分こした。
祖母は「やっぱり一個は多い」と言いながら、しっかり自分のぶんを食べきった。
私は味噌汁をもう一度温めて、夕方の薬をテーブルに出した。
祖母は薬を飲んでから、私に言った。
「今度、あんたの休みの日、病院の前の桜見に行こうか」
「もう散ってるよ」
「じゃあ、来年」
そう言って祖母は笑った。
来年、という言葉に、私は少しだけ救われた。未来を口にしてくれる人がいるうちは、人はまだ大丈夫だと思える。
外へ出ると、雨は止んでいた。
団地の手すりに水滴が並んで、薄い夕方の光を拾っている。
私は階段を下りながら、ポケットのハンカチを握った。
今夜も病院ではベルが鳴る。
うまく言えない言葉がある。間に合わないことも、たぶんある。
それでも、と思う。
聞き間違いでほどけたものは、声で結び直せる。
きれいにじゃなくていい。
みっともなくてもいい。戻って言い直せばいい。
私は看護師なのに、そんな当たり前のことを、今日やっと祖母に教わった。
白いハンカチは、ポケットの中で、子どものころみたいにひんやりしていた。


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