その朝、僕のマグカップだけ、棚のいちばん上に戻されていた。
わざわざ、届かない場所へ。
マグカップの底に、乾いた砂糖の粒が二つ、貼りついている。
砂糖なんて、ここ半年、家に置いていない。
だから僕は、ああ、来たな、と思った。
悪い知らせは、いつも甘ったるい匂いを連れてくる。
母が倒れたのは、冬の終わりだった。
電話の向こうで、看護師さんが丁寧に言葉を選ぶほど、僕の頭は乱暴に静かになった。
「ご家族の方ですね」
家族。
その言い方が、僕には少し滑稽で、少し痛かった。
家族のくせに、僕は母の“最近”を何も知らない。
病院の廊下は、明るすぎる。
明るさってのは、たいてい罪の匂いがする。
面会カードに名前を書くとき、僕はいつも自分の字を疑う。
自分の名前が、他人事に見える。
病室のドアを開けると、母は寝ていた。
寝ているというより、時間に置き忘れられていた。
「来たの」
母は目を開けずに言った。
声だけが先に僕へ届く。
僕は「うん」と言い、椅子に座る。
たったそれだけで、何年ぶんかの不在が椅子のきしみに化けた。
母の手には、細い点滴の管が繋がっている。
僕はその管を見て、こんなに細いもので人は生きるんだ、と驚いた。
「砂糖、買ってきて」
母が言った。
「砂糖?」
「コーヒー、甘いのが飲みたい」
僕は頷いた。
母は昔から、苦いものが嫌いだ。
そのくせ、人の苦さは平気で舐める。
僕の苦さも、ずいぶん舐めた。
だから僕は、心の中で少しだけ意地悪く笑って、でも声には出さず、売店へ行った。
売店の棚に、白い砂糖が並んでいる。
やけに潔白に見える。
僕はひと袋手に取って、レジに出した。
レジの人が「ポイントカードは」と言う。
僕は首を振りながら、母の顔を思い出している。
思い出している、というより、思い出そうとしている。
このところの僕の人生は、そういう“努力”でできている。
病室に戻ると、母は起きていた。
目はぼんやりしているのに、僕の嘘だけは見抜きそうな目だ。
「砂糖、買ってきたよ」
僕は袋を見せた。
母は少し笑って、言った。
「あなた、まだあのマグカップ使ってるの」
僕は喉が乾いた。
「あれ、捨ててないよ」
「捨てられないのね」
母はそう言って、天井のほうへ視線を投げた。
そこには何もないのに、母は何かを見ている顔をした。
僕のマグカップは、父が最後に買ってくれたものだった。
父は、僕が高校を卒業する春に家を出た。
出たというより、蒸発した。
人が蒸発するとき、残るのは湿り気だけだ。
母はその湿り気の中で、僕を育てた。
「男は信用するな」
母の口癖。
その言葉を聞くたび、僕は自分の性別に小さな罰を受けている気がした。
母は、砂糖の袋を指で撫でた。
「昔ね」
母が言った。
「あなたが小さいころ、砂糖をね、隠してたの」
「隠してた?」
「あなた、甘いのばっかり欲しがるから」
母は笑う。
笑い方が、少しだけ疲れている。
「それで、棚の上に置いたの」
僕は、あの朝の棚のいちばん上を思い出した。
僕のマグカップ。
砂糖の粒。
「……誰が置いたの?」
母は答えない。
答えない、というより、答えをゆっくり溶かしている。
「お父さんがね」
母がぽつりと言った。
僕の胃が、きゅっと縮む。
「来たの?」
「来たのよ」
母は目を閉じる。
「来て、砂糖を置いて、あなたのマグカップを棚の上に戻した」
「なんで」
僕は自分の声が尖るのを感じた。
尖る声は、いつも遅れてくる。
「なんで、今さら」
母はゆっくり息を吐いた。
「謝れなかったんでしょうね」
「謝るなら、直接——」
「あなたに会ったら、あなたが泣くと思ったんじゃない?」
母のその言葉が、胸の奥へ刺さった。
僕は泣かない人間のつもりで生きてきた。
泣くのは負けだと思っていた。
でも、負けのほうが、きっと人間らしい。
「手紙、ある」
母が枕の下を探る。
紙が擦れる音。
そこから出てきた封筒は、くたびれている。
見覚えのある字。
父の字だ。
封を切って、中の紙を引き出す。
たった一枚。
短い。
短いのに、余白が重い。
砂糖を棚の上に置いた。
甘いのが好きだったのは、俺のほうだ。
あいつが隠してたのは、砂糖じゃなくて、俺の弱さだ。すまない。
ありがとう。
僕は読み終えても、紙を置けなかった。
母が僕を見ている。
「あなた」
母が言う。
「お父さん、最後まであなたのこと、可愛いって言ってた」
僕は笑った。
笑ったつもりだった。
でも頬に落ちたものが熱かった。
母は、僕の手を取った。
骨ばった手だ。
それでも温かい。
「ねえ」
母が言う。
「あなた、甘いの、嫌いにならなくていいのよ」
僕は頷く。
喉の奥で、言葉が溺れている。
母は続けた。
「苦いのばっかり飲んで、生きなくていい」
それは、僕の人生への叱りで、許しだった。
帰り道、僕は砂糖を抱えて歩いた。
白い袋がやけに眩しい。
家に着くと、棚のいちばん上に、マグカップがある。
背伸びをして取る。
底を指で撫でると、乾いた粒がまだ残っていた。
僕はそれを、指先でそっとすくって舐めた。
甘かった。
甘さは、遅れて効く。
翌朝、僕はコーヒーに砂糖を入れた。
少しだけ。
そして、マグカップを棚のいちばん下に置いた。
届く場所に。
誰かのためじゃなく、僕のために。
たぶん、それが継承というものの、いちばん小さな形だ。
母の病室へ向かう途中、僕は売店で小さな砂糖をもう一つ買った。
レジの人が「甘党ですか」と笑う。
僕は、ほんの少しだけ胸を張って言った。
「はい。最近、そうみたいです」
そして心の中で付け足した。
——遅れてきた甘さを、今度はちゃんと受け取る。


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