職員室のロッカーを開けた瞬間、僕は息を止めた。
見覚えのある黒い靴が、一足だけ、きれいに揃えて入っている。――母の靴だ。
母はもう歩けないと聞いていた。なのに、どうして学校に。
靴底には、雨の日の汚れと、小さな赤茶の染み。指で触れると、革がまだ柔らかい。
紙袋の底から、古いボイスレコーダーが転がり出た。
再生ボタンは、最初から押されるのを待っていた。
都会の朝は、靴音で膨らむ。
駅のタイルに「コツ、コツ」と跳ね返る音。改札の電子音。コーヒーの焦げた匂い。
教師になって七年目。僕の足は慣れたふりをするのに、胸だけはいつも少し遅れる。
職員室。チョークの粉っぽさと、コピー機の熱い紙の匂い。
ロッカーを開けると、空気がひやりと変わった。
小さな紙袋。無地。口がきちんと折られている。
「……誰の?」
僕が呟くと、隣の席の主任が顔を上げた。
「何か届いてた?」
「いや、差出人が……」
「保護者かな。最近、変に丁寧な袋で来るよね」
主任は笑って、すぐ電話に戻った。
紙袋を覗いた瞬間、喉がきゅっと締まる。
黒い靴が一足。踵の縁が少し削れて、つま先に細い傷。雨の日にできた染み。
僕はその傷の位置まで覚えている。
「……母さん」
声が、靴の中に吸い込まれた。
母はもう歩けないと聞いていた。
それなのに、この靴は“今朝まで誰かが持っていた”みたいに、革が柔らかい。指で押すと、ふわっと戻る。
袋の底で、プラスチックが当たる音がした。
古いボイスレコーダー。電池の蓋がテープで留めてある。
僕は手のひらで包んだ。冷たくて、軽い。
なのに、重い。
「先生、それ何?」
若い先生が覗き込んだ。
「……忘れ物、かな」
「誰の?」
「たぶん……僕の」
僕は逃げるように休憩室へ行った。
換気扇が低く唸り、自販機の甘いコーヒーの匂いが漂う。椅子のビニールが背中に貼りついて、汗が冷える。
「……再生する?」
自分に訊く。
答えは最初から決まっていた。
僕は指で再生ボタンを押した。
カチ。小さな音が、耳の奥を叩いた。
――雑踏。信号の音。遠い救急車。
そして、母の声。
『……もしもし。聞こえる? これ、録ってるの、変かな』
「……聞こえる」
僕は思わず言ってしまう。
母の声には息が混じっていた。けれど、言い方はいつものまま、柔らかい。
『あなたが先生になったって聞いたとき、うれしかった』
『でも、直接言うと、また怒られそうで……』
「怒られそうで、って」
笑いが出そうで、喉が痛くなった。
怒ったのは、僕だ。
母の“言い方”に。
――あの台所。
味噌汁の湯気。魚を焼いた匂い。狭いテーブル。
僕は採用試験に落ち続け、肩を落として座っていた。
「放っといて。今は、何も言わないで」
母は鍋を混ぜながら、静かに言った。
「うん。……わかった」
沈黙が続いて、僕の心だけがガタガタ鳴る。
そのあと母が、ぽつりと。
「靴、買い替えたら? 踵、だいぶ減ってるよ」
「……だから、今言う?」
「足が痛くなるから」
「心配って言い方で、責めてるだけだろ」
「責めてない。ほんとに――」
「もういい!」
僕は椅子を引く音をわざと大きくして立った。
玄関で靴紐を結ぶ僕に、母が言った。
「あなたの靴、いつも頑張ってる音がするから」
その“褒め方”が、僕には責めに聞こえた。
「音で人を測らないで」
振り返って吐き捨てた。
母は何か言いかけて、唇を閉じた。
あの時の母の目――“言い方を探してる目”が、いま録音の向こうでよみがえる。
録音の母は、静かに続けた。
『昔、靴の話をして怒られたでしょう』
『あのとき、私はあなたを急かしたんじゃないの』
『あなたの足が痛そうで、見ていられなかっただけ』
「……見ていられなかった」
僕は靴を見た。
踵の削れが、母の指みたいに優しい。
『教師って、立ってる時間が長いでしょう』
『だから靴は大事。あなたの一日を支えるもの』
『私は、あなたの一日が少しでも楽ならいいと思ったの』
職員室から聞こえる電話のベルが、遠い。
母の言葉が、目の前の空気を変える。
僕は小さく呟く。
「……ごめん。俺、ただ怖かったんだ」
録音の中で、母が息を吸う音がした。
『言い方が下手だったね』
『心配って、相手の胸に当たる場所を間違える』
『ごめんね』
「謝らないで」
声が震える。
「母さんが謝る必要なんて……」
泣きそうで、笑いそうで、どっちにも転べない。
紙が擦れる音。母が何かを撫でている。
それが、靴だとわかった。
『この靴、あなたにあげる』
『私が若いときに買った、ちょっとだけ良いやつ』
『でも、あなたには少し小さいかもしれない』
『だから“履け”じゃなくて、“持ってて”にする』
「……ずるい言い方」
僕は泣き笑いで言った。
「優しすぎる」
『あなたが先生として、誰かを守ろうとするとき、きっと自分の足元は後回しになる』
『そういう時に、この靴を見て思い出して』
『足元を大切にすることは、弱さじゃないって』
僕は靴を抱えた。革が掌に吸い付く。ほんのり、石けんみたいな匂いがする気がして、胸がきゅっとなる。
『最後に、約束』
『あなたは人に言い方を教える仕事をしてるでしょう』
『なら、私の代わりに、誰かに“自分を責めない言い方”を渡して』
『それが、私の継承です』
そこで僕は、初めて声を出して泣いた。
こぼれる涙は熱いのに、頬に落ちると冷たい。
母の“言い方”を、僕はずっと誤解していた。
責めじゃない。支えだった。
録音の最後。母は少しだけ笑った。
『あなたの靴の音、私は好きだったよ』
『頑張ってる音じゃない』
『帰ってくる音』
カチ。
録音が止まった。
僕の中で何かが静かにほどけて、代わりに、細い糸が結ばれる感じがした。
その日のホームルーム。
生徒の一人が、机に突っ伏して言った。
「どうせ無理っすよ。俺、向いてないし」
僕の胸が、反射で痛んだ。
昔の自分がそこにいた。
「……“言い方”を変えようか」
僕は黒板に、ゆっくり書いた。
『怖い。でも、やってみたい』
「“どうせ”は、自分の足元を削る言葉だ」
生徒が顔を上げる。
「先生、それ、誰に言われたんすか」
僕は少し迷って、答えた。
「……母に」
放課後。廊下はワックスの匂いがして、遠くで部活の掛け声が跳ねる。
僕はロッカーを開け、母の靴を箱の上にそっと置いた。まるで小さな教壇みたいに。
そして、靴に向かって小さく言った。
「ただいま」
「今日も、帰ってきた」
母の言い方は、これから僕の言葉になる。


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