玄関の引き戸を開けた瞬間、薬の甘い匂いが、だしの残り香を押しのけて鼻の奥に入り込んだ。
「……ただいま」
返事はない。
柱時計の秒針だけが、こつ、こつと家の静けさを叩いている。
靴を脱いだ足裏に、ひんやりした板の冷たさが返ってきた。
廊下の柱に手を伸ばすと、木目のざらりが指に刺さった。
——そこに、昨日までなかった細い傷が一本。
爪で引っかいたような浅い線が、まるで「言えなかった言葉」の形をしていた。
私は息を止めて、母の部屋の障子に指をかける。
この家で今、何が起きた?
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私は会社員になってから、帰省を減らした。
「忙しいから」
それだけで、すべて片づくと思っていた。
本当は違う。
母の老いが怖かった。
自分が何もできない現実が怖かった。
だから私は、電話口で言葉を短くした。
「元気?」
「元気だよ」
「困ってない?」
「困ってないよ」
それで安心したふりをした。
通話の向こうで、鍋をかき混ぜる音がしたことがある。
母が咳払いを飲み込む音がしたこともある。
私は聞こえないふりをした。
「じゃ、また」
その一言で切ってしまえば、怖いものを見なくて済むから。
母は遠慮深い人だった。
「大丈夫」
その一言の裏に、どれだけ飲み込んでいたのか。
私は見ようとしなかった。
廊下に出ると、足裏に畳の柔らかさが返ってきた。
きゅっと沈んで、すぐ戻る。
懐かしい。
柱があった。
私の背丈を刻んだ鉛筆の線。
小三。
中学の入学式。
母が笑いながら指で撫でた場所。
「ここまで伸びたね」
「母さん、背伸びして書いたでしょ」
「してない、してない」
そんなやりとりをした日が、柱には残っている。
そこに、見慣れない細い傷が一本増えていた。
爪で引っかいたような、浅い線。
私は喉が鳴った。
「……何これ」
答えない柱に、指先がざらりと引っかかる。
傷の脇に、うっすらと黒い粉。
鉛筆じゃない。
爪か、何か硬いものの跡。
胸の奥がじわりと冷える。
母の部屋の障子を開けると、冷えた空気がすっと頬を撫でた。
カーテンの隙間から薄い光。
布団の中で、母が小さく眠っていた。
枕元に薬の袋。
コップの水。
テーブルに封筒。
私の名前。
その横に、湯呑みがひとつ。
お茶は冷め切って、表面に薄い膜が張っている。
「……母さん」
私は膝をついて、そっと肩に触れた。
布団越しの体は、思ったより軽い。
ぬくもりはある。
でも呼吸が浅い。
まぶたが微かに揺れ、母が小さく息を吐いた。
「……帰ったの」
「うん。帰った」
声が震えたのをごまかすように、私は笑おうとして失敗した。
母は、いつもの調子で言おうとして、息を整えた。
「忙しいでしょ」
私は首を振った。
「忙しいとかじゃない」
「じゃあ、なに」
母の声は細いのに、逃げ道を塞ぐみたいにまっすぐだった。
私は唇を噛んで、言った。
「……俺が、逃げてた」
「逃げてないよ。働いてるじゃない」
「違う」
私は自分の胸を押さえた。
「母さんの“大丈夫”に、甘えてた」
母は、少しだけ笑った。
その笑い方が、痛いほど優しかった。
「甘えていいんだよ」
その一言で、堤防が崩れるみたいに涙が出た。
「ごめん」
「うん」
母は否定しなかった。
ただ、ゆっくり頷いた。
それが、許しの形に見えた。
母の手が布団から出てきた。
私は慌てて握り返す。
皮膚が薄く、骨の形がそのまま伝わる。
指先が少し冷たい。
でも力は、まだ残っていた。
母が言った。
「……私も、ごめんね」
「なんで母さんが謝るんだよ」
「言えなかったから」
「何を?」
母は、柱の方へ視線を向けた。
「寂しい、って」
心臓が、ひとつ遅れて痛んだ。
私はずっと待っていた。
母が「寂しい」と言えば、私は帰れる。
“いい息子”になれる。
そんな勝手な理屈を、胸の奥に隠していた。
母は遠慮して、気遣って、言わなかった。
私は言わないことに、気づかないふりをして帰らなかった。
二人の優しさが、二人を遠ざけた。
母は封筒を顎で示した。
「……それ、読んで」
私は震える指で封を切った。
紙のこすれる音が、やけに大きい。
中から一枚。
掠れた母の字。
メモだった。
『あなたへ。
柱にね、印をつけました。
あなたが帰るたび、背が伸びるのが嬉しくて。
でも最近は、私のほうが小さくなるみたいで、柱が遠い。
それでも、ここはあなたの家。あなたの居場所。
寂しいと言えなかったのは、あなたを困らせたくなかったから。
でも本当は、困らせてもよかったんだよね。
もし間に合わなかったら、柱を撫でて。
そこに私の「おかえり」が残ってるから。
お願いがひとつ。
あなたが苦しいときは、遠慮しないで誰かに寄りかかって。
人は、ひとりで立ってるんじゃないから。
いつも祈っています。
あなたの明日が、あたたかい方へ向かうように。』
私は紙を握りしめて、肩で息をした。
母がずっとしていたのは、遠慮じゃなかった。
祈りだった。
私を困らせないために言葉を飲み込み、代わりに毎日を祈りに変えていた。
その祈りは、柱の傷みたいに目に見えない場所で家を支えていた。
「母さん……俺、知らなかった」
「知ってほしかった」
母は小さく言って、すぐに続けた。
「でも、知ったらあなた、苦しくなるでしょう」
「苦しくていい」
私は言った。
「俺が苦しいのは、母さんが一人で苦しかった分だ」
母は首を振った。
「背負わなくていい」
「じゃあ、どうしたらいい」
母は目を閉じて、呼吸を整える。
そして、息の合間に言った。
「……帰っておいで」
私は、柱の傷の理由が分かった気がした。
母は夜、ひとりで廊下に出たのだ。
誰にも言えない寂しさを、柱にだけ預けたのだ。
「寂しい」と声にする代わりに、爪で一本線を引いた。
——“ここにいる”の印として。
私は台所へ行き、湯を沸かした。
やかんがことこと鳴る。
湯気が立ち上り、だしの匂いが少し濃くなる。
包丁の柄に触れると、木が少し乾いていた。
母の手は、ここにあった。
母の時間は、ここにあった。
私は湯呑みにお茶を注いで、湯気を指で避けながら戻った。
「熱いよ」
母がかすかに笑う。
「分かってる」
「昔から、せっかち」
「……母さんも」
「私は、遠慮しすぎ」
その言葉に、私は頷いた。
「俺も、怖がりすぎ」
夜、母の部屋の前の柱に手を当てた。
木目がざらりと掌に触れる。
あの細い傷に指がかかる。
母が言えなかった言葉の跡。
私は柱に額をつけて、囁いた。
「母さん、寂しかったよね」
「……うん」
布団の中から、かすれた返事。
それだけで、胸の奥が少しほどけた。
「俺も、寂しかった」
「……言いなさい」
母が小さく叱るように言った。
私は泣き笑いで頷いた。
「寂しかった。ごめん」
「うん」
「でも、帰ってきた」
「……おかえり」
その二文字が、柱時計の音よりも確かに、家の中心で鳴った。
祈りの夜が更けていく。
柱時計が、こつ、こつ、と静かに刻む。
私は母の手を握り直して、もう一度言った。
「帰ってきたよ」
母の指が、少しだけ握り返した。


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