紗季の部屋の鍵が、今夜に限ってやけに重かった。
既読のつかない画面を握り潰しそうになりながら、僕は合鍵を回す。カチ、という音が廊下に響いた。
玄関には僕のスリッパが揃い、テーブルには伏せられたスマホ。充電コードだけが揺れている。
呼んでも返事はない。
代わりに、開きっぱなしの手帳が目に入った。付箋がびっしり貼られ、端の一枚だけが“最終”と書かれていた。
――めくった瞬間、指先が冷えた。
都会の夜は、音が多いくせに肝心な返事がない。
終電を逃した駅前の風は生ぬるく、アスファルトの熱とコンビニの揚げ油の匂いが混ざって、喉がべたついた。
僕はポケットのスマホを握り、点けては消す。画面の光が指の汗を照らす。
既読はつかない。
最後に送ったのは一行。
「今日は無理。ごめん」
「……それだけ?」
自分の声が、駅の柱に吸われる。
「紗季、怒ってる? いや、違う。怒る権利、あるの俺じゃない」
会社員三年目。会議、残業、数字。
言葉は短く、優しさは後回し。
紗季はいつも先に引いた。
「無理しないで」
「私も仕事あるし」
「大丈夫だよ」
その“大丈夫”の薄さに気づいていたのに、僕は受け取らなかった。
受け取ると、何か返さなきゃいけない気がしたからだ。
そういうのを、僕は「気遣い」って呼んでいた。
合鍵はまだキーケースにある。
僕は紗季のマンションの廊下を歩いた。カーペットに靴音が沈み、遠くで換気扇の低い音が鳴る。
ドアの前で息を吸う。香水じゃない、柔軟剤みたいな匂いが薄く残っている気がした。
「……紗季。開けるよ」
返事はない。
鍵を回す。カチ。
その音だけが、やけに生々しい。
玄関には僕のスリッパが揃っていた。
揃っているのが、痛い。
「まだ……残してくれてるんだな」
部屋は少しひんやりして、窓の隙間から都会の光が白く差している。
テーブルには、伏せられた紗季のスマホ。充電コードだけが揺れている。
僕は近づいたが、触れなかった。
「触ったら、終わる気がする」
誰に言い訳してるんだ。
「……終わってるのは、俺のほうだろ」
本棚の横、机の上。
薄いグレーの手帳が開いたまま置かれていた。
付箋、付箋、付箋。赤、青、黄色。端が少し毛羽立ち、指で撫でると紙がかすかに鳴る。
「こんなに……」
僕は息を吐いた。
「紗季、ここに全部置いてたのか」
一枚だけ、端からはみ出して揺れている。
見出しは短い。強い。
「最終」
指先でそっと剥がす。粘着が軽く指に残る。
紙の裏の温度が、妙に生々しい。
・スマホを見ない日を作る
・言い訳を先にしない
・“大丈夫”の前に、本当を一つ
・寂しいって言う
・会いたいって言う
・それでも返事がないなら、置く
「……置く」
声が漏れた。
「俺を、置くのか」
胸の奥が、ゆっくり沈む。
紗季は責めてない。
責める言い方を選ばなかった。
僕が傷つかないように、僕の機嫌を損ねないように。
その遠慮が、ここまで積もった。
思い出す。
僕が残業を理由に断った夜。
紗季は笑って言った。
「大丈夫。頑張って」
僕は「ありがとう」って返した。
そのとき、紗季の目が一瞬だけ揺れたのに、僕は見なかった。
僕は椅子に座った。木の座面がひんやりして、掌に小さなささくれが刺さる。
痛みが、なぜかありがたい。
「紗季……ごめん」
誰もいない部屋に、声が落ちる。
「俺、受け取らないのを優しさだと思ってた」
喉が詰まる。
「違うよな。受け取らないって、放置だ」
机の端に、剥がれかけの付箋が一枚あった。
めくる。
白い。何も書いてない。
「……ここに、何書くつもりだった?」
僕は白を見つめた。
「“行かないで”って書くつもりだった?」
答えはない。余白だけがある。
余白が、いちばん痛い。
僕のスマホが震えた。通知。広告。どうでもいい振動。
僕は画面を伏せた。
代わりに、声に出す。
「言い訳、先にしない」
自分に言い聞かせるみたいに。
「会いたいって、言う」
口にすると、心臓が少し速くなる。
僕は自分のスマホを取り出した。ガラスが指の汗で滑る。
文章を整えたくなる癖を、噛み切る。
「紗季。会いたい」
指が止まる。
「……寂しかった」
打って、息を吐く。
「寂しいって言わせてたの、俺だ。ごめん」
さらに打つ。
「返事がなくても、ここにいる。
でも、ただ待つだけはしない。
次は、ちゃんと受け取る」
送信。
青い矢印が飛ぶ。
既読は、まだつかない。
僕は紗季のスマホを見た。伏せられたまま。
触らない。触れない。
その代わり、手帳を閉じて、最終付箋をもう一度、元の場所に貼り直した。
粘着が少し弱くて、端がふわっと浮く。
「浮いてても、いい」
僕は言った。
「余白って、そういうことだろ」
玄関に座り込む。床が冷たくて、背中にじんわり響く。
外の道路を走る車の音が遠くで流れ、誰かの笑い声が廊下の奥で消える。
紗季の部屋の空気は、石けんみたいに淡い。
「紗季」
小さく呼んでみる。
「怒っていい。泣いていい。……俺が受け取るから」
言った瞬間、涙が一滴落ちた。音もなく、床に吸われた。
既読はつかない。
それでも、僕は灯りを消さなかった。
返事がない夜に、初めて“言葉を置かない”でいられた。
余白に、ようやく僕の本当が座った。


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