妻が運ばれた朝、僕は「わかった」と言った

お守りを持つ夫 泣ける話

団地の廊下に、救急車のサイレンが反射していた。
 今朝、妻は「行ってくる」とだけ言って出ていった。どこへ、も、何を、も、主語がない。
 私はいつもの癖で「わかった」と返し、新聞を開いた。
 ——1時間後、隣の奥さんが息を切らしてドアを叩いた。
「奥さん、運ばれたよ。聞いてないの?」
 耳の奥が真っ白になる。
 あの“お願い”は、何だった。

 団地の朝は、給湯器の「コォ…」という低い音と、どこかの部屋の目覚ましの電子音で始まる。窓の結露が白く曇り、廊下の空気は洗剤みたいに薄く冷たい。
 定年退職して三か月。私はまだ、急がない時間の使い方を知らない。

 台所から味噌汁の湯気の匂い。ネギの青い香り。
 妻は背中で鍋を混ぜていた。

「おはよう」
「……うん」
「昨夜、眠れたか」
「……まあね」
 返事が短い。いつも通り。
 でも、いつも通りの中に“違い”があるとき、人は見ないふりをする。

 妻が箸を並べながら言った。
「行ってくる」
「……そうか」
 私は新聞を開いた。紙がパリッと鳴る。
「どこへ?」と聞けばよかったのに、口が動かない。

 妻は少し間を置いて、冷蔵庫を閉めた。ガタン、と音が響く。
「あと、お願い」
 お願い——何を。
 私は湯のみを握って、逃げるように言った。

「わかった」

 その言い方が、もう、だめだった。

 妻は玄関で靴を履き、ドアノブを握った。
「……行ってくる」
 私は顔を上げずに言う。
「行ってらっしゃい」
 ドアが閉まる音が、廊下に長く残った。

 蛇口の水は冷たく、指が赤くなる。
 私は“お願い”を頭の中で転がしながら、茶碗を洗った。
「電話すればいい」と自分に言い、
「今さら何を」とまた引っ込めた。
 主語を足すのが照れくさい。そんな癖が、長い年月で頑なになっていた。

 インターホンが鳴ったのは、その少し後だ。
 ピンポーン。
 次の瞬間、隣の奥さんの声が廊下に弾む。

「ご主人! 奥さん、運ばれたって!」
「……え?」
「救急車来たのよ。集会所の前で倒れたって。聞いてないの?」
 息が、うまく入らない。
「どこに……」
「病院! ほら、駅の向こうの!」

 私は上着を掴み、鍵を落としそうになりながらドアを閉めた。金具がカチャカチャ鳴る。廊下の冷気が肺に刺さる。
 走りながら、頭の中で朝の会話が繰り返される。

「行ってくる」
「あと、お願い」
「わかった」

 ——何が、わかっていた。

 病院の待合室は消毒液の匂いで鼻が痛い。床のワックスが光り、靴音がやけに響く。時計の秒針が「カチ、カチ」と胸を叩く。
 受付で名前を言うと、声が自分のものじゃないみたいに震えた。

「妻が……運ばれたと」
「お名前は」
「……妻です。ええと、妻の……」
 主語を省く癖が、こんなところでも出る。自分に腹が立つ。
「妻の名前は、——です」

 やっと通された病室。
 妻は白いシーツの中にいた。唇が乾いて、指先が少し冷たい。点滴が落ちる音が、ぽと、ぽと、と静かに続く。

「……来た」
 妻が目を開けた。
「来た」
 私も、同じ言葉で返した。

「大丈夫か」
「……大丈夫、じゃないかも」
 妻は息を吐いて、かすかに笑う。
「ほら、私、言い方下手だから」

「下手なのは俺だ」
 声が割れた。
「今朝の“お願い”、何だった」
 妻は一瞬だけ目を伏せた。
「……聞かなかった?」
「聞かなかった。俺、わかったって言った。何もわかってないのに」

 妻は天井を見て、しばらく黙った。
 その沈黙が、朝の台所よりずっと重い。
 やがて妻が言う。

「お守り……財布」
「お守り?」
「中に……言葉。入れた」
「言葉?」
「言うと、泣くから。……あなたが」

 私は妻のバッグを探した。革の匂い。金具の冷たさ。
 財布の内ポケットに、小さなお守り。布が擦れて角が丸い。紐をほどくと、紙が一枚、折りたたまれて入っていた。

 私は息を吸い、ゆっくり開く。
 妻の字は小さく、几帳面で、ところどころ震えている。

「あなたへ
 “お願い”の主語は、私。
 私が倒れたら、あなたは自分を責める。
 だから先に言うの。責めないで。
 私が欲しいのは、完璧な言葉じゃない。
 『ここにいる』っていう一言。
 それだけで、私は戻れる。
 それから——
 階段のところで会う子。
 最近、家の電気がついてない。
 見てあげて。
 あなたの優しさ、私だけのものにしないで。
 ——いつも、ありがとう」

 紙が、指先で小さく震えた。
 “責めないで”の一文に、喉の奥が熱くなる。
 妻は、私の欠点を責めなかった。
 私が自分を責めることだけを、ずっと怖がっていた。

「……俺、何してたんだ」
 声が、布みたいに擦れた。
「言葉がないのを、落ち着きだと思ってた」
 妻は微かに首を振る。
「落ち着きじゃない。……照れ」
「そうだ。照れだ」
 私は紙を胸に当てた。紙の薄さが、逆に痛い。

「ごめん」
 言った瞬間、妻が眉を動かす。
「……違う」
「違う?」
「ごめん、じゃない。……言って」
 妻の目が、まっすぐ私を見る。
 私は、手紙の行をなぞって、やっと口にした。

「ここにいる」

 たった一言で、妻の肩が少しだけ落ちた。
 点滴の音が、さっきより柔らかく聞こえる。

 数日後、妻は退院した。
 団地の階段は冷たく、手すりの金属が指に貼りつく。
 妻は踊り場で息を整え、私を見上げて言った。

「ねえ、主語」
「……ああ」
「省かないで」
「俺が……省かない」
「誰が、って聞かせないで」
 妻が笑う。
 私も笑って、言い直す。
「俺たちが、直す」

 その夕方、階段の踊り場で小学生くらいの男の子とすれ違った。ランドセルが少し汚れて、目の下に薄い影がある。
 私は膝を折って目線を合わせた。

「おかえり」
 男の子が一瞬固まる。
「……ただいま」
「寒いな。大丈夫か」
「……うん」
 その“うん”の後ろが、空っぽじゃないのがわかる。

 私は主語を足した。
「俺は、最近、君の家の電気がついてない日があって心配した。何かあった?」
 男の子の唇が震えた。
「……お母さん、夜、仕事で」
「そうか」
 私は妻を見る。妻は小さく頷く。

「じゃあ、困ったら来ていい。俺たちがいる」
 男の子は目をこすって、こくりと頷いた。
「……ありがとう」

 部屋に戻ると、味噌汁の湯気が白く膨らんだ。ネギの香りが、胸の奥まで届く。
 私は財布からお守りを取り出し、棚の上に置いた。見える場所。忘れない場所。

「しまわないの?」
「しまわない」
「どうして」
 私は、今度は主語をつけて言った。

「俺が、言葉を忘れないため」

 妻が湯気の向こうで笑う。
 その笑いは、踊り場の男の子へ、どこかの誰かへ、静かに渡っていく。

 そして私は毎朝、妻に言う。

 「俺は、ここにいる。」

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