図書館で見つけたしおりが、10年ぶりの再会をくれた

手紙を見つめる二人 泣ける話

雨の日の図書館は、少しだけ、海の底に似ている。

音が、みんな丸くなる。
返却カウンターに本が置かれる音も、子どもの靴音も、遠くで誰かがページをめくるかすかな気配も、水を一枚くぐって届くみたいに、角が取れてしまう。

私はその感じが好きだった。
好き、というより、助かる、に近い。

人の声が静かな日は、自分の中のざわつきも少し静まるからだ。

六月の終わり、午後の当番。
図書館司書になって九年目の私は、返却された本を消毒布で拭いて、配架票を見ながら棚へ戻していた。文学の棚、九一三の端。古い随筆集を差し込もうとして、そこで手が止まった。

一冊だけ、妙にふくらんでいた。

こういうことは珍しくない。
利用者の私物が挟まっているのだ。レシート、診察券、スーパーのポイントカード。前には、演歌歌手の切り抜きまで出てきたことがある。人は案外、人生の端切れを本に挟む。

私はカウンターに本を戻して、そっと開いた。

薄い紙のしおりが、はらりと落ちた。

白地に青い線。
うちの図書館の、古い型のしおりだった。いまはデザインが変わっているから、これを使っている人はもう少ない。表には図書館名と開館時間。裏には鉛筆で、小さな字。

――返すの、遅くてごめん。

私は、その場で動けなくなった。

そんな言葉は、べつに珍しくない。
図書館の本に挟むには、むしろよくある文句だ。

それでも、と思った。

この「ごめん」の書き方を、私は知っている。
謝るほどのことじゃないのに、先に謝る癖。
語尾が少し右上がりになる癖。
やわらかい芯の鉛筆で書くから、字のまわりにうっすら粉が残る癖。

悠太だ、と思った。

幼なじみの名前を、心の中で呼ぶのは、十年ぶりだった。


悠太とは、小学校から高校まで一緒だった。

一緒だった、という言い方は、少し都合がいい。
向こうは誰とでも話せるほうで、私は話さないほうだったから、同じクラスにいただけ、という時期のほうが長い。

でも、図書室だけは違った。

昼休み、窓際の席。
私は本を読む。悠太は本を開いて寝る。
たまに起きて、私の読んでいる本をのぞきこんでくる。

「それ、おもしろい?」

私は説明が下手で、いつも困った。
「おもしろい」と言うと軽い気がするし、「いい」と言うと気取っている気がする。黙っていると、悠太は勝手に笑って、

「じゃ、貸して」

と言った。

貸した本は、だいたい返ってくるのが遅かった。

そして返すたび、しおりの裏に「遅れてごめん」と書いてよこした。
口で言えばいいのに、と言うと、悠太は「口だと忘れるから」と言った。

忘れるのは返却期限のほうだろう、と私は思った。
思ったが、言わなかった。そういう言い返しを、私はいつも、ひと拍遅れて思いつく。

高校三年の冬、悠太は町を出た。
父親の転勤だった。受験の時期で、みんな自分のことで精一杯で、送別会らしいものもなかった。駅で少し話しただけだ。

私はたしか、改札の前で「連絡して」と言った。
悠太は「する」と言って、ポケットからしおりを出した。

「これ、借りっぱなし」

それは私が貸した文庫本のしおりで、裏にまた小さく字があった。
そのとき私は表しか見なくて、裏を読まなかった。改札のベルが鳴って、私はただ、急がなきゃ、と思っていた。

今思えば、あれが最初の見落としだった。


最初のうちは、本当に連絡が来た。

新しい町のこと。
海が近いこと。
駅前の定食屋の味噌汁がしょっぱいこと。
アルバイト先の先輩が怖いこと。

私は返事を書いた。
書いて、消した。
打って、打ち直した。

もともと返信が遅いのだ。
一行でも、これでいいのかと考えすぎる。軽すぎると失礼な気がするし、長いと重い気がする。そうしているうちに、一日、二日、三日と過ぎる。

悠太の返信は早かった。
「了解」「うける」「それ読んだ」みたいな短いやつが、すぐ来る。
私はその速さに勝手に気後れして、ますます遅くなった。

ある日、悠太から「こっちで働くことにした」と来た。

私は通知を見たまま、何も返せなかった。

おめでとう、でいいはずだった。
それなのに、胸の奥がつかえた。
遠い町の名前が、急に確定した感じがした。もう戻らないのだ、と思った。そんなこと、向こうは一言も言っていないのに。

三日後に返した。
「よかったね」とだけ。

短すぎる、と送ってから思った。
冷たい、とも思った。
でも、送り直すわけにもいかなかった。

そのあと、悠太からの連絡は来なくなった。

私は何度もトーク画面を開いて、閉じた。
「さっきの、変な意味じゃないよ」と送ればよかった。
「ちゃんとお祝いしたかった」と書けばよかった。
たったそれだけのことが、できなかった。

返信の遅れは癖だと思っていた。
癖だから、しかたないと思っていた。

けれど癖にも、ひとり分の距離を作る力があるらしい。


「須藤さん?」

後ろから声をかけられて、私ははっとした。
後輩の真鍋くんが、返却本の台車を押して立っていた。

「大丈夫ですか。顔色、悪いです」

「平気。ちょっと……懐かしい字を見ただけ」

自分で言って、妙な言い方だと思った。
真鍋くんは一瞬だけ首をかしげ、すぐに「これ、配架お願いします」と台車を置いて戻っていった。そういう距離感のうまさは、司書に向いている。

閉館後、私はしおりを規定どおり「落とし物」の封筒に入れた。
私物は三か月保管。取りに来なければ処分。
ルールはルールだ。わかっている。

それでも封筒の口を閉じるとき、やけに指先が重かった。


家に帰ると、湿気でカーテンが少しだけ肌に張りついた。
私は夕飯もそこそこに、古い箱を引っ張り出した。卒業アルバムや、大学のノートや、もう使えない充電器が入った、整理したふりだけしてある箱だ。

こんなことをしても仕方ない、と思いながら、手は止まらなかった。

写真が一枚、出てきた。

高校の図書室。
窓際の席。
私は机に肘をついて本を読んでいて、悠太は隣で本を顔にのせて寝たふりをしている。逆光で、輪郭だけが白く光っている。

ああ、これ。
文化祭の準備の日だ。広報委員の子が「図書室も撮る」と言って、勝手に撮っていったやつだ。私は嫌がったのに、悠太が「いいじゃん、記念」と言って動かなかった。

私は写真を裏返した。

そこに、黒いボールペンで字があった。

――返事なくても、本は返しに行く。

息が止まった。

悠太の字だった。少し急いだ筆圧。最後の「く」が雑に跳ねている。
こんなもの、前に見た記憶がない。たぶん私は、受け取ったときも裏を見なかったのだろう。表だけ見て、適当に箱へしまったのだ。

表しか見ていなかった。

その感じは、あの頃の私そのものだった。
送られてきた言葉の表面だけ見て、向こうの不器用さや、待っている気配を、ちゃんと読まなかった。

写真を持ったまま、私はしばらく床に座っていた。
十年は長い。けれど、長いからといって、もう遅いと決まるわけでもない。そんな都合のいいことを考える自分に、私は少しあきれた。あきれたが、箱を閉じる気にはなれなかった。


翌日から私は、返却カウンターの当番表を妙に気にするようになった。

自分でも笑える。
落とし物のしおりは、持ち主が現れるとは限らない。
現れたとしても、悠太とは限らない。
そもそも、同じ筆跡に見えるだけで別人かもしれない。

そのたびに、期待して、勝手にしぼむ。
三十代も後半になって、何をやっているのだと思う。人は年を取ると落ち着くのではなく、落ち着いて見せるのがうまくなるだけだ。

一週間、何もなかった。

二週間目の金曜、閉館三十分前。
外で雨が降り出した。ガラスの向こうの街灯が、もう滲んでいる。ああ、また海の底だ、と思いながら貸出処理をしていたとき、自動ドアが開いた。

濡れた空気が、ひやりと入ってくる。

男の人がひとり、傘をたたんで立っていた。

背は前より少し高く見えた。たぶん姿勢のせいだ。肩に仕事の疲れみたいなものが乗っている。けれど、前髪を手で払う癖が昔のままで、私はすぐにわかった。

悠太だった。

向こうも私を見た。
すぐには笑わない。十年分の間が、たしかにあった。
それから、困ったように口元だけで笑った。

「……返却、遅くなってごめん」

私は、泣きそうになるのをこらえきれず、先に笑ってしまった。

「遅すぎるでしょ」

「うん。自分でも思う」

カウンター越しに沈黙が落ちた。
その沈黙を、真鍋くんが救ってくれた。彼は何も言わず、作業室のほうへ台車を押して消えた。若いのに、こういうところだけ妙に老成している。

私は落とし物の封筒からしおりを出して、悠太の前に置いた。

「これ」

悠太はしおりを見て、耳の後ろをかいた。昔、ばつが悪いときにする癖だ。

「やっぱり、あんたに見つかるか」

「わざと挟んだの」

「半分わざと。半分、ほんとに挟みっぱなしだった」

「半分ずつなんだね」

「もう、なんでも半分くらいがちょうどいい年だから」

それが少し可笑しくて、私の肩の力が抜けた。


閉館後、私たちは図書館の裏手の小さなベンチに座った。
屋根はあるが、風で細かい雨が吹き込んでくる。若いころなら喫茶店に行ったのだろうが、二人ともそういう気の利いた提案をしないあたり、根っこは変わっていない。

悠太は、海のある町で本当に働いていたこと、そこでしばらく暮らしたこと、三年前に母親の介護で戻ってきたことを話した。介護といっても、最初は「ちょっと付き添い」くらいに思っていたのに、気づけば通院、買い物、食事の支度で一日が終わる日が増えた、と笑った。

「笑いごとじゃないんだけどさ。あれ、返事遅れる気持ち、ちょっとわかった」

私は思わず顔を上げた。

「え?」

「毎日、返そうとは思うんだよ。けど、いま返すと雑になるな、とか、落ち着いてからにしよう、とか思ってるうちに夜になって、明日でいいかってなる」

私は、なんだか救われたような、でもそれに甘えてはいけないような気持ちになった。

「それでも、私は遅すぎたよ」

「うん。遅かった」

悠太はあっさり言って、それから少しやわらかく続けた。

「でも、俺も止めた。あのとき、最後に“よかったね”って来たやつ、あれ、たぶん短すぎて、逆にいろいろ考えた」

「ごめん。ほんとは、もっと書きたかった」

「何て?」

私は笑ってしまった。十年越しに答えるのか、と思う。

「たぶん……おめでとう、と、さみしい、が、混ざってた」

悠太は黙って聞いて、うなずいた。

「それ、あのとき聞けたらよかったな」

「うん」

「でも、今聞けたから、まあいいか」

その「まあいいか」が、悠太らしかった。大事なところで、少しだけ余白を残す言い方。私は昔から、その余白に救われていたのに、読むのが下手だった。

私はバッグから昨夜の写真を出した。

「これ、見つけた」

悠太は受け取って、表を見て吹き出した。

「俺、授業中でも寝てた顔してる」

「図書室だから静かに寝てただけでしょ」

「褒めるな」

私は写真を裏返して、指で文字を示した。

「これ、あなたが書いたんだよね」

悠太は目を細めて読んだ。少し照れたように笑う。

「書いた。たしか、駅に行く前」

「どうして直接言わないの」

「直接だと、あんた固まるから」

図星で、私は何も言えなかった。

「それに」と悠太は言った。「あんた、表はちゃんと見るけど、裏はあとで見るタイプだから」

私は思わず笑ってしまった。

「見てなかったよ。十年も」

「マジで?」

「マジで」

「ひどいな」

「ほんとにね」

ひどいのは私のほうなのに、そう言い合えるのが、妙にうれしかった。


雨は少し弱くなっていた。
図書館の窓に、街灯の光がやわらかく滲んでいる。

悠太が写真を返しながら言った。

「返事、今からでもいいよ」

私はしばらく黙って、それから言った。

「じゃあ返す」

喉がつかえた。
たったこれだけのことに、また時間がかかる。自分でも呆れる。けれど今日は、逃げないで言おうと思った。

「……会えて、うれしい」

悠太は、昔みたいに素直にうなずいた。

「うん。俺も」

その返事があまりにまっすぐで、私は視線を落とした。雨の匂いのするコンクリートに、小さな水たまりがいくつもできている。そこに図書館の明かりが揺れていた。

帰りぎわ、私はカウンターの引き出しから、新しい図書館のしおりを一枚持ってきて、悠太に渡した。

「今度はこれ。返却期限、守って」

悠太は受け取って、胸ポケットに差し込んだ。

「裏、見とけよ」

「また書くの?」

「たぶん」

「じゃあ私は、ちゃんと返事する」

約束、というには小さい。
でも、たぶん人がもう一度会う理由なんて、そのくらいでいい。

悠太は駅のほうへ、私は反対のバス停へ歩いた。
少し行ってから振り返ると、悠太も振り返って、手を上げた。私はそれに、同じ高さで手を上げ返した。

雨の日の図書館は、やっぱり海の底に似ている。

けれど今日は、沈む場所じゃなかった。
遅れて届いた言葉が、ようやく岸に着く場所だった。

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