元恋人の遺留品に入っていた「宛名のない手紙」

海辺で手紙を読む人 泣ける話

港町の坂は、雨が降る前から潮の匂いがする。

濡れてもいないのに、靴底がやけに重い日がある。

郵便配達員の僕は、そういう日を「手紙の日」と呼んでいる。

理由はない。

ただ、胸の奥が先に知っているのだ。


美咲と別れたのは三年前。

理由は、すれ違い、と言えば聞こえはいい。

実際は僕の「言い方」だった。

「今夜、少しでいいから話せる?」

彼女がそう言ったとき、僕は配達の残り件数を頭の中で数えながら、つい口を滑らせた。

「無理。こっちも生活あるから」

言い終わってから、言葉が骨だけになって、部屋に転がった。

拾い上げられないまま、彼女は黙った。

怒鳴りも泣きもせず、潮が引くみたいに静かに。


別れの翌朝、僕はいつも通りのバッグを肩にかけた。

局の古い私書箱の前を通ったとき、ひとつだけ、口が半開きの箱があった。

誰かが閉め忘れたのだろう。

中に白い封筒が見えた。

宛名がない。

差出人もない。

なぜか僕は、それを閉めずに持ち帰ってしまった。

盗んだわけじゃない、という言い訳が先に立つ。

僕の悪い癖だ。

封を開けると、便箋が一枚。

美咲の字だった。


「あなたは、優しい人だと思う。

だから私は、あなたが優しさを出し惜しみするのを見ると、少しだけ悲しくなる。」


胸が熱くなったのに、僕はその熱を叱った。

優しさなんて、使い方を間違えたら刃になる。

僕は自分の刃が怖かった。

だから、返事をしなかった。

しないまま、便箋は引き出しの奥で白く眠った。


スマホには未送信のメッセージが残った。

「ごめん。あの時の言い方、間違ってた。港の灯りが…」

いつも途中で止まる。

送信ボタンの上で指が固まる。

謝って楽になりたいのは僕で、彼女ではない。

そう思うと、送れなかった。


それでも僕は、配達ルートの中に、彼女の家の前を残していた。

もう宛先はない。

ポストも撤去されている。

それなのに、港の倉庫街を回り込むより、坂を一度上る方を選んでしまう。

遠回りだ。

合理的じゃない。

合理的じゃないから、毎日できる。


ある日、配達バッグに見慣れない封筒が入っていた。

病院名の印字。

僕の名前。

切った瞬間、紙の匂いに消毒液の匂いが混ざって、鼻の奥が痛くなった。


「患者様の遺留品について」

氏名:美咲。


胸が一段沈んだ。

文字が水に滲むみたいに揺れて見えた。

通知は事務的で、「緊急連絡先として登録があり」とだけ書かれていた。

……登録?

僕は、彼女からそんな話を聞いていない。

いや、聞こうともしなかった。


病院の窓口で、僕は「元恋人です」と言った。

言った瞬間、自分の声が他人のものみたいに薄かった。

看護師が奥から紙袋を持ってきた。

軽すぎて、怖かった。


中には便箋の束と、封筒が何枚も。

どれも宛名がない。

まるで出し先を失った鳥の群れだ。

さらに、小さなメモ帳。

表紙の隅が擦れて、指の跡が残っている。


「……亡くなる前、何度も“郵便局に届けて”って言ってたんです」

看護師は申し訳なさそうに笑った。

「でも、宛先が書いてなくて。最後に、あなたの番号だけ、何度も確認してました」


メモ帳を開く。

美咲の字が、いつもより乱れていた。

息を切らして書いたような線。


「最期に、あなたに届くなら。

届かなくても、書けば少し楽になれると思った。」


ページをめくる。


「あなたの“忙しい”は、嘘じゃない。

でも、忙しさの中であなたが一番削るのは、あなた自身の優しさだった。

私はそれを、あなたのために怒りたかった。」


僕は港へ向かった。

夕方の海は、いつも通りの顔をしているのに、僕だけが違う世界に立っている気がした。

漁船のエンジン音が腹の底を叩き、カモメが低く鳴く。

潮風が便箋の匂いをさらっていく。


最後のページに、短い一行。


「返事はいらない。

ただ、手放して。」


手放す。

忘れることじゃない。

捨てることでもない。

僕の中で“未送信”のまま腐らせていたものを、ちゃんと終わらせること。


僕はスマホを開いて、例の未送信メッセージを呼び出した。

途中で止まったままの言葉。

言い訳の癖。

自分を守るための優しさ。

僕は、全部消した。

削除ボタンは、思ったより静かだった。

潮が引く音に似ていた。


代わりに、便箋を一枚取り出した。

局で使っているのと同じ、薄い紙。

僕は自分の字で書いた。


「君の言葉は届いた。

返事はいらないと言うなら、返事はしない。

ただ、僕は手放す。

君の分まで、誰かに優しくする。」


封筒に宛名を書く。

彼女の名前ではない。

僕の郵便局の住所。

僕宛てだ。

差出人には、美咲、と書いた。


そしてポストへ入れた。

金属の蓋が閉まる音が、やけに大きい。


――郵便は、届くか届かないかの前に、投函された瞬間にもう一度、世界に戻る。

僕はそう信じたかった。


帰り道、港の坂を上る。

足元のアスファルトが、少しだけ温かい気がした。

夕陽の残り火か、それとも、僕がようやく人間に戻ったせいか。


明日も僕は配達する。

指紋を残さないためじゃない。

触れてしまうために。


潮の匂いの中で、便箋の白さだけが、静かに救いとして残った。

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